男女論と部落問題について(1)

私がこれまでネット上で見た言説の中で、「いまだに部落や在日が弱者だというのか!あいつらこそ優遇された強者ではないか!」とか「税金も払わないホームレスに税金をかけるな!どうなろうが自己責任だ!」といったようなものがある。いずれも「新しい歴史教科書」を支援する掲示板における支持者の投稿で見たものであって、支持者ではない投稿者(私や他の人)との間で、そうした意見と議論になった。今回、またこうした意見を考える機会を得たので、私の考えを少しく述べてみようと思う。たいしたことが言えるわけではないが、あまりにも基礎的なことが誤って考えられているという話なのだ。ただし念のために言っておくが、それらの極論が散見されたからといって、「つくる会」支持者の多くがそうした意見をこそ主張しているとまでは思っていないし、また、こうした意見は「つくる会」の運動に固有のものとも思われない。そもそも私がたまたま見ていたのがそこだったというだけのことなので、これを「つくる会」の問題として言及しようというものではない。


これらの意見には共通したパターンがある。「きちんと働いて自分の稼ぎを得て一人前」という認識が非常に強い。そこで税金の話になり、「自分もわずかな稼ぎの中から少しばかりの税金をちゃんと払っている」となる。そこまではもちろんよいのだが、ホームレスの話題になり「税金も払えないほどに落ちぶれてしまったのであって、そうした税金も払わない者に税金を使う前に、ちゃんと税金を払っている者に還元すべきだ」となる。またあるいは、彼らにとって「生活保護者」とは「働きもせず税金で食ってるやつら」であるらしく、この制度は「働こうとしない者に我々が納めた税金を与えて食わせている制度」であるらしい。そこまで露骨な表現を目にしたわけではないが、そう思っているのでなければおよそ出てこない論理に出会うのである。一例を挙げよう。


つくる会」支援者の山形板でのことである。「在日の生活保護受給率は通常の4倍だそうで、それだけ優遇された特権階級であることの証明である」との投稿をした女の人がいた。私は「生活保護は生活困窮者が受給する制度なのだから、その受給率が4倍だというのが事実なら、それだけ生活困窮者が多いというのが事実ではないか。いったいどこが特権階級なのか」と指摘すると、その女の人は「やっぱりアンタッチャブルなんですね。よーくわかりました」とだけ言って居直り、引っ込んでしまった。ついである男の人から「しかし実際に、働けるのに働かず生活保護を受けている例を私は聞いたことがある。そうしたことがあることを知らないのか」と反論があった。これについて、私たち(もう一人はtpknさん)は「もちろんそれは知っている。それは不正受給の問題として難題であるが、それは制度の悪用されている例である。在日や部落で生活保護受給率が高いとして、それがほとんど不正受給であるという事実はあるのか」と指摘した。ついで、「特定団体の圧力によって不正受給者が黙認されているようなケースならば、制度への信頼という根幹に関わる大問題なので、それを批判するのは正しい。が、困窮率が高いからこそ生活保護受給率が高いという事実まで否定してどうするのか」とも指摘した。すると、「生活保護が困窮者を対象としているというが、何の根拠があるのか」との反問があったので、法律を挙げて趣旨を説明し、「だからこそ不正受給は悪質なのであって、それを批判するのは大事だが、生活保護それ自体を何か勘違いしていないか」と論じたところで終了したのであった。彼らが、どのような目線で「生活保護それ自体」を見ていたか、明らかであろう。


こうした意見に共通するもう一つのパターンは、朝鮮総連や解放同盟といった、彼らが敵視する政治団体を(この対立は思想的に言って当然ではあろうけれど)ことさらに出していることである。まるであたかもすべての当事者が、そうした団体に所属しているかのような、あるいはそうした団体の運動の受益者であるかのような語り口なのである。総連なり解同なり、その思想や活動について、自分たちとして批判したいことを大いに批判すればよいだろう。しかしそれと生活困窮者の問題を直結させるのはおかしい。先にもいったように、失業者や生活困窮者が多いのであれば、それだけやはり生活難に置かれやすい境遇の人が多いということなのだ。また、特定の政治団体の活動と関連して語るのであれば、そうした運動が当事者層の生活難の解消に結びついていないのが実情だということでこそあれ、これまたいったい、どこが「部落や在日は特権階級」なのか。


また、不正受給の問題をいうのは大変に結構だ。しかし生活保護受給率が高いことを圧力団体との関連で疑義を向けるなら、まずは「では在日でもなく部落でもない層と比較して不正受給者が多いのかどうか」を検証すべきではないのか。それもなく「働きもせず税金で食えるのが生活保護」との偏見から「だから受給率が高いという事実だけで、いかに優遇されているかわかる」などというのは、偏見による誤った前提から誤った結論を導き出しているにすぎない。そもそも、そんなに「特権階級だ、強者だ」と羨望嫉妬の眼差しを送るなら、自分は在日だ部落だと自称してみればいいだろう。どういう効果があるか、自分で試してみればよかろう。そう言われても自称する人など彼らにはいまい。どういう効果があるのか、本当は彼らこそ知っているはずなのだ。「特権階級だ、強者だ」と羨望嫉妬は、嘘なのである。このような暴論は、私はネット上でしか見聞きしない。しかし、それっぽい言葉は実生活上でも見聞きするのである。おそらく、普段は「言っちゃいけないことかもしれないけど」としてコソコソ話ヒソヒソ話として語られていることを、ネット上では「思い切って書き込んで」いるのであろう。すると反論された場合、「やっぱりアンタッチャブルなんですね。よーくわかりました」といった反応にもなろうものなのだ。


さて、ここまでは導入である。典型的だと思われる、以前にあった例を紹介したが、「今回また新たに考える機会があった」という件に移りたい。それはmacska dot org » 鈴木謙介氏論文「ジェンダーフリー・バッシングは疑似問題である」と「弱者男性」論への疑問である。これを題材に考えてみたい。ここでは、このエントリの中心であるmacskaさん、赤木智弘さん、鈴木謙介(以下charlie)さんの3名の論を見ていくこととする。ただしここで、私は部落問題に限定して語りたいと思う。なぜかと言えば、macskaさんが社会的弱者として列挙したものすべてを、一般論を超えて網羅的に言及することは、とてもではないが私にはできないからである。列挙された中で、差別問題として私がまがいないりにも突っ込んだ言及ができそうなのはこれだけなのだ。そこで、まずはコメント欄に寄せられた赤木さんのコメントからとしたい。赤木さんのどこか挑発的な極論の中には、私としても頷けるものもあるのだが、ここは赤木さんの部落問題への言及にのみ絞ることとする。赤木さんは「就業や結婚などでの差別はそれなりに残るでしょうが、そんなことを言ったら就業もできない、金がないから結婚どころか恋愛すらできないフリーターに比べれば全然マシです。運動などによって、一緒に支えてくれる組合もありません」として、次のような事例を挙げる。

そうそう、部落絡みでおもしろい記事を見ました。部落解放同盟全国連合会の記事です。
http://www.zenkokuren.org/2006/01/post_1.html
こうしたことはフリーターにとっては良くあることでしかありません。社員募集で行ったら、実は派遣労働だったなんて、珍しくもなんともありません。しかし、この記事に出てくるA君が、数多のフリーターたちと違ったのは、彼が部落民であり、連合会という後ろ楯があったことです。多くのフリーターは、しかたなくその条件で働くか、就職をあきらめるかしかありませんが、強力な後ろ楯を持ったA君は適切なアドバイスを得て労組に加盟、団体闘争によって就職を勝ち取りました。それもこれも彼が後ろ楯をもつ部落民だったからこそできたことです。
 一方で多くのフリーターたちは団体で闘争をすることすらできません。後ろ楯も、「弱者男性が不当に扱われている」という社会通念もないからです。すべては小規模な個人闘争にならざるを得ず、まったく勝ち目がありません。


赤木さんがここで挙げているのは、明らかに労働争議である。解雇された側が勝訴したという事例であり、片方の当事者である雇用者側の声は乗っていないので判決の当否それ自体には言及できないが、ともかく労組と解放同盟の面目躍如たる文面である。しかし、それならば赤木さんは左翼系の労組の何を批判しているのだろうか。こんなに頼りになる労組だというなら、労組に入ればよいではないか。左翼が嫌いだから入らない、というのでも良いが、それは自分の選択であろう。労組としては、労組を頼らず労組を非難する者の面倒まではみないであろうと思うがどうか。あるいは非正社員対象の労組がどれだけ頼れるのか疑問だということもあるだろう。*1したがって左翼労組は全労働者の味方でもなんでもないんだという批判はありえるが、それなら赤木さんは、左翼ではない労働運動というものを構想したり呼びかけたりしているのだろうか。*2また、ここでは労組と解同というタッグであるが、それはこの被差別部落出身のA君が解同を頼った結果の勝訴である。いわば、コネというかツテというかバックというか、それを頼った結果である。それを赤木さんは非難するけれども、考えてもみてほしい。そうした、コネやツテやバックを頼るということは、被差別部落出身者しかやらないことだろうか。あるいは、被差別部落出身者は誰でも、こうした組織を利用することで受益できるとでも思っているのだろうか。赤木さんが左翼嫌いで労組には頼らないのと同様に、解放同盟を嫌って頼らない人など、いくらでもいるだろうに。


コネ社会とも言われる日本において、議員さんの口利きであるとか、先輩や元上司の口利きであるとか、コネやツテを使って口利きをしてもらう人などいくらでもいるだろう。私は、そうしたコネやツテを頼ることが、一律に非難されねばならないとは思わない。ただし、そうした人脈のある人ばかりが有利となり、人脈を持たない人がいつも不利であるなどとなれば、社会として問題であろう。赤木さんがそうしたコネ社会の悪い部分を批判するのであれば、なぜ被差別部落だけを名指しで非難するのか。しかも、これはコネ社会の悪例と言えるのか。解雇に納得できないと思ったB君が知り合いのツテを頼って与党議員の口利きにより、裁判沙汰にもならず復職させてもらうことに成功することなどありえない話だとでもいうのであれば別だが、そんなことも現実にはあるだろうことを考えれば、このA君の話を赤木さんの論の傍証にすることがおかしいではないか。


また、被差別部落とフリーターを分けているが、被差別部落出身者にもフリーターはいよう。そもそもフリーターとは自分の意思で正規職員とならずアルバイト生活をしている人のことを言うのではなかったか。それと、正規職員として就業を望みながらできない人を並べて比べるのもおかしいであろう。あるいは、自分の意思によらず求人難からフリーター生活を余儀なくされている人をこそ、ここで言っているのかもしれない。ならばなおのこと*3、失業問題を言うのであれば、失業率を問題にすべではないだろうか。先日のNHK朝のニュースで、大阪府だったか大阪市だったか忘れたが、同和事業の大幅な見直しをめぐって当局と解放同盟が争っている件について報道し、両者の言い分を相互に取り上げていた。出勤前でバタバタしていたから細部は見ていない。とりあえずの話としては、こうである。解放同盟としては、この不景気のあおりで失業者が全国平均の二倍に達している現状で同和対策事業を見直すのは不当だとの言い分であり、府だか市だかの言い分としては、多くの問題を抱えたまま今までどおりの事業を継続させるわけにはいかないとの言い分であった。ここではどちらの言い分に理があるかは問わない。赤木さんは同和地区への潤沢な公金の支出を言うのであるから、ここでは当局の言い分に近いはずであるが、しかし失業率二倍についてはどうか。赤木さんの単純な比較論法で言えば、解放同盟の言い分に抗弁できるのだろうか。つまり赤木さんの部落論は、自分には被差別部落のような受益の仕方がないんだというだけの話なのだ。


ならばお聞きしてみたいのだが、被差別部落出身者ではない赤木さんは、なるほど解放同盟を頼るすべはあるまいが、もちろん部落差別を受けることもあるまい。被差別部落出身者ではないことによる受益と不受益と比べたことがあるのだろうか。自分の意思でフリーターの道を選んだ、その結果「金がないから結婚どころか恋愛すらできない」というが、それも自分で選んだ人生の一局面であろう。それと比べて、自分の意思に反して「就業や結婚などでの差別」を受ける可能性にさらされる部落差別を「それなりに残るでしょう」と平気で言ってのけ、「フリーターに比べれば全然マシ」だなどとするが、まじめに比較する気があるとは全く思われない。左翼言説を批判したかったにしては、何も批判できておらず、ただひたすら部落差別でしかない。最後になるが、同和利権の問題をめぐって、当事者による痛烈かつ真摯な批判の一例を紹介しておきたい。赤木さんが批判すべきは、本気で部落問題を論じるなら、こうした方向からなされるべきことではないだろうか。
部落解放同盟はサンデープロジェクトへの糾弾を中止せよ - 灘本昌久のブログ - Yahoo!ブログ


さて、少し長くなったが、赤木さんの論に言及したのは、こうした言説のあることをmacskaさんが気に留めており、それがcharlieさんへの批判の下敷きになっているからである。しかしコメント欄で赤木さん自身が述べているように、赤木さんの論は反左翼ではあっても保守でも右翼でもない。これはcharlieさんが小論の中で述べていたことと重なる。したがって、こうした言説の問題をまず見ておかないと、macskaさんの批判とcharlieさんの反論が何をめぐってものであるか、それを見落とすことにもなりかねない。そこで、明日はこのお二人の短いやりとりを考えてみたい。

*1:この一行は、下記コメント欄に寄せられたうぃんさんの指摘を受けて追加した。

*2:こうした意見について、macskaさんのブログにおいて、赤木さんからは以下のようなコメントが寄せられている。『自身の具体的な事例という件ですが、私はワタリさん(http://blog.goo.ne.jp/egrettasacra)のようなアクティブに行動できる弱者ではありません。具体的にはここには書きたくありませんが、具体的な事例という話をする時に、弱者はどうしても「情けない自分」をさらけ出さなければならない一方で、強者は「輝かしい栄光」を提示すればいいことになります。これはどうしたって強者の方に有利な方向性です。私は「努力」という言葉が大嫌いなのですが、その理由は「努力」という言葉の大半は、現在の「実績」を前提にして、それを事前行為に還元させたものでしかないからです。そういう意味で「自身の経験による具体例」という考え方は、安易に「弱者は努力していないのだ」という結論を生み出してしまう、一方的な強者の論理であると考えます。』→これには返す言葉もありません。心無い書き方をしたことについて、私の上記のこの部分は撤回するとともに、この場を借りてお詫びします。

*3:この一行は、下記コメント欄に寄せられたうぃんさんの指摘を受けて追加した。