男女論と部落問題について(2)

前回の三人寄れば文殊の知恵 - Backlash to 1984の続きである。さて、いわゆる「弱者男性」について先に少しだけ述べておきたい。この言葉はアンチを含むフェミ界隈でしか見聞きしないのだが、妙な言葉が出てくるものだと思う。おそらくは「男は社会的強者、女は社会的弱者」なる例のアレから、「しかし社会的弱者の男性もでてきたし社会的強者としての女もでてきた」としての表現であろう。私は、このような表現の前提である男女観を有しない。ある男もしくは女が、何らかの理由で弱者の立場におかれることはあるだろう。そうした社会的な弱者というものは存在するが、「男」なり「女」なりが、ただそのカテゴリーでもって弱者であるといったことはないのだから。フェミニズムにおけるジェンダー論というのは、あたかも「女」であることが弱者の初期条件となっているかにも思えるものが多いが、そのようなことはありえない。このことについては後でも触れることとするが、「男は強く女は弱い。強い男は弱い女を守るべし。男が守りたくなくなるような女は女たりえず、女を守れないような男は男たりえない」という近代市民社会にありがちなマッチョなコードは存在したろう。しかし「男は社会的強者、女は社会的弱者」なるフェミコードは、そうした近代市民原理へのアンチでありつつ、それに寄りかかった男女観でしかないのである。


単行本『バックラッシュ!』所収の鈴木謙介論文『ジェンダーフリー・バッシングは擬似問題である』は、そうした「しかし社会的弱者の男性もでてきたし社会的強者としての女もでてきた」といったような、いわゆる「弱者男性」論のとばっちりを喰ってしまったように思える。これは、当該論文が宮台論文のすぐ後にあって同じ流れの中で読まれてしまうという、執筆者の意図にはなかった効果かもしれない。あるいは執筆者のcharlieさん自身が、「鈴木の言ってることは官僚主義的エリートの発想だ」とか言い出す人が出てこないことの方に驚いていた…と言っていることからして、ご本人が言うようなことを感じる向きもあるかもしれない。事実、私とmacskaさんとの間で、発売当初に以下のようなやりとりがあった。
http://principle.jp/bbs5/c-board.cgi?cmd=one;no=183;id=keya1984
私もmacskaさんも、宮台や宮崎あたりがいう「非モテ」「性的弱者」の文脈で鈴木論文を受け止めていることがわかる。そうしたこともあってかmacskaさんのブログmacska dot org » 鈴木謙介氏論文「ジェンダーフリー・バッシングは疑似問題である」と「弱者男性」論への疑問においても当初から記述の混乱と訂正があったわけなのだが、「赤木さんと宮台さんと私の距離がものすごく縮められていることには若干(以上)の違和感を表明します」として執筆者本人が説くコメントを読むと、はたして鈴木論文はいわゆる弱者男性論を述べたものだろうかと思い直した。いわゆる「弱者男性論」からは距離を取る意図があってのことだと思うとのmacskaさんの訂正の弁ではあるが、もっと根本的に違うのではないかと思うのである。

バックラッシュ」の内実が「サヨク」嫌いのだとして、その要因はどこから生じているのか。バックラッシュといっても多様な論点を含むので、ここでは「ジェンダーにとらわれない多様な生き方を選択しやすくする」ための施策に対して反対する言説に限定して論を進めたい。

とするcharlieさんは、

あらゆる性差が社会的構築物であるという主張には科学的根拠がないとする反論が予想される。しかしながら、ジェンダーと生き方という観点からすれば、これは奇妙な対立である。問題は、生物学的な根拠があろうとなかろうと、男か女かという区別が、なぜ特定の生活様式とリンクされて理解され、それ以外の可能性が排除されているかという点にあるはずだ。

と問題点を整理する。そのうえで、こうしたことが資本の要請としてだけではなく、そうすることで世の中を支えていることでもあるという私的な幸福感とも結びつけられていたこと、「男の甲斐性」と「女の幸せ」との相関関係にも言及したうえで、こうした体制は一方的に男性が利益を得ているとも資本制の維持にとって「効果的」とも言いがたい、とする立岩真也という人の弁に同意しているのは当然と言えよう。私はここで一歩進めてこのように思っている。たとえば従来の企業社会における男尊女卑の名残りというべき旧習にしても、それはその中では女がマイノリティであるがゆえにまかりとおってきたのものであって、企業社会の外においてまで女が社会的弱者だというわけではない。企業社会で軽視されたにしても女が社会全体の中で軽視されていたわけではないのである。企業社会の中で評価されないといっても別に評価されるものがある女に対し、企業社会の中で評価されないことがイコール社会的評価の低落を招く男の立場と、同日の談ではなかったはずだし、そのような男の位置づけや役割を期待したのは、ほかならぬ女でもあったからだ。こうしたことは、ホームレスやリストラ自殺やフリーターを余儀なくされる若い男性層の問題が、声高に叫ばれる「女性の社会進出」の大合唱によってかき消されているのと同じことなのである。


鈴木論文における結語として、

手当を必要としているのは、自由で多様な生き方を選択できないがゆえにサポートを求めている人びとだけではない。自由で多様な生き方を選択させられているがゆえに非寛容になっている人びとにこそ、サポートが必要とされているのである。ジェンダーの問題に関していう限り、前者が継続的な労働市場から排除されている女性だとすれば、後者はいずれ家族を支えることを期待され、市場原理に基づく自己責任を求められ、見通しも立たないのに必死で働かなければならない男性のことになるだろう。

とあることをmacskaさんは批判をするわけだが、鈴木論文においては、そもそも「誰が弱者であるのか」といったことに全く触れていない。これは「社会的弱者のカテゴライズ」そのものに距離を置いたと見るべきかもしれない。これとmacskaさんの赤木さん宛ての言葉を併せて考えたい。

わたしたちの誰もが「ある側面で強者」であり、「ある側面で弱者」なのだから、自分が強者である側面についてはそのことを自覚して問題是正のために努力しつつ、自分が弱者である面については正当な権利として是正を要求していくべきだと言っているのです。
どの運動を見ても、後者の主張ばかりはするけれど、前者は忘却しているというケースがあります。赤木さんも、現在までのところそうした類型どおりの言動をしているわけで、既存の反差別運動の一番ダメな部分のマネをしないで欲しいなぁと思っているのです。

私も同感なのであるが、なるほど赤木さんへの反論としてこれは正しいけれども、ならばmacskaさんのcharlie(鈴木)さんへの批判は型にはまり過ぎていないか。

そもそも、この「男性」という括りに疑問がある。鈴木氏によれば、ここでいう「(弱者)男性」とは経済構造の変化による流動性の暴走におびやかされる存在だとされるから、逆に言えば経済構造が変化する前の時代に生まれていれば一人で家族を養うだけの収入を得られる「強者」――と当時は描写しないだろうけれども――となるはずだった人たちのことだ。そこには何故か、在日コリアンの男性やアジアや南米から出稼ぎに来ている外国人労働者の男性、被差別部落出身の男性、障害のある男性、ゲイやバイセクシュアルの男性など、わたしが「弱者男性」と聞いてまず思い浮かべるような人たちの存在がまったく想定されていない。鈴木氏の論文は最初から最後まで一貫して「日本人で、部落出身ではなくて、健常者で、異性愛者の男性」が新自由主義が猛威を振るう前と後でどうなったかという点にしか関心が示されていないのだ。

しかし、鈴木論文は執筆者本人が論文中でも説明し、コメント欄にも寄せているように、マイノリティ差別を論じたものではない。というか、差別論でもないといったほうが適切であろう。「無責任なお題目を書いて非難されるくらいなら書かずに批判される方がマシだ」とするcharlieさんの反論は、真っ当だと思う。私も、charlieさんが部落問題その他に言及する必要があったとは、全く思わない。そのような持ち出し方は、お約束的なサヨクジャーゴンでしかないからだ。そのことは、macskaさんの以下の批判にも鮮明である。

鈴木氏が「強者もしくは強者になれたはずの層」だけしか思考の対象に含めていないという点では、男性について書かれた部分だけでなく女性についての記述にも一貫している。鈴木氏の文中に登場する女性は、経済力の男性と結婚して専業主婦となることを希望する安定志向の女性(以前ならば強者になれたはずの女性)と、「継続的な労働市場から排除されている」ために「自由で多様な生き方を選択できないがためにサポートを求めている」キャリア志向の女性(現代的強者女性)のみだ。しかし現実には、性別だけを理由に不安定な職しか与えられず、かといって専業主婦になれるだけの経済的余裕を持たない女性が、多くの男性の地位が流動化するより何十年も前から存在していた。かれらに対する手当てはずっと後回しにされてきたのに、いざ(日本人/非部落出身/健常者/異性愛者/etc.の)男性の一部が同様の苦難を抱えるようになった途端に大きな社会問題としてあれこれ議論されるようになった。かれらへの手当てが必要ではないと言いたいわけではないけれども、あまりの扱いの違いに唖然とする。

charlieさんのいう「継続的な労働市場から排除されている女性」について「性別だけを理由に不安定な職しか与えられず、かといって専業主婦になれるだけの経済的余裕を持たない女性」は従来から多くいたじゃないかとmacskaさんは言うのである。しかしcharlieさんは、そうした女がいたことを無視して良いだなどという趣旨のことはどこにも書いていない。それどころか逆に、旧来の社会通念としての男女観およびそれにもとづく社会制度の問題としてこれを述べているのである。さらにmacskaさんの批判がおかしいのは、同じくcharlieさんのいう「家族を支えることを期待され、市場原理に基づく自己責任を求められ、見通しも立たないのに必死で働かなければならない男性」についてである。そうした男もまた旧来から多くいたわけだし、経済基盤が変化しつつある現状においてもさしたる変化はない。そうした期待される男性像とジェンダーロールの問題において、部落であるかないかは関係ない。なぜなら、被差別部落当事者における男女観や家庭像は、そうした男性像を求め求められていなかったというなら話は別だが、そうではないからだ。ただし、そうした役目についてそれを果たしえないことによる問題が、被差別部落により多く存在していたであろうことは部落問題としては考えられるが、それはcharlieさんの小論の中におのづから含まれる問題である。あえてことごとしくこれ見よがしに言及する必要は、全く無い。


それともmacskaさんは「部落でも在日でも障害者etcでもない男」は、「家族を支えることを期待され、市場原理に基づく自己責任を求められ、見通しも立たないのに必死で働かなければならない男性」に該当しないとでも言うのだろうか。それを「強者もしくは強者になれたはずの層」などと言うのであれば、ありがちな「男性=強者、女性=弱者」というフェミニズムセントラルドグマに抵触したから赤木さんを批判し、それと同様ではないかと鈴木論文を批判しただけにすぎないことにならないだろうか。「基本的には男性は社会的な強者であり、女性は社会的な弱者である。ただし男性であっても社会的な強者であるとは限らず、部落や在日など社会的な弱者もいる。それに触れないのは不当だ」という意味にしかなるまいと思う。そうしたフェミニズムの男女観にはずれかたらフェミニストとして批判するというところまでは当然かもしれない。が、このような文脈で出てくる「部落に言及しないのはケシカラン」という言説は、ただただ記号としての「部落差別」でしかないのだ。「あなたの男女論には社会的な弱者である被差別部落に関する言及がなく、それを無視しているものだ」などと、まるで一昔前の糾弾集会の文句のようではないか。そうしたフェミニズムとしての批判の文脈の中における見当違いの部落問題の利用の仕方を、私は似非同和的だとすら思うのである。それに、これでは赤木さんに対するmacskaさんの反論との整合性が、全く感じられないのである。このことを含めて、引き続き次回に述べることとする。


そのことを述べるにあたって、ひとまず『バックラッシュ!』所収の上野千鶴子のインタビューにおける、いわゆる「弱者男性」への言及箇所を引用しておきたい。インタビュアー(北田暁大および編集部)から、若者のフェミニズムバンシングに目を向けることはひとつのヒントになるのではないか、「不安の陰にあるもの」をつきとめたとき、どのようなケアの方法が考えられるかを、ぜひ聞かせてほしいとの質問への上野の回答である。

何でフェミニズムが、彼らの不安のケアをしなければならないのですか? 女にケアを求めるのは筋違いでしょう。そういう人たちがフェミニズムの妨げになるかもしれないので、降りかかる火の粉は振り払い、じゃまなものは足蹴にしなくてはならないから、対策は必要だとは思いますよ。


文中でスルッと「フェミニズム=女」になっているが、フェミニズムそのものは男の思想でも女の思想でもあるのだから、これは当たらない。しかしそのうえで、私も、フェミニズムがケアしなくて良いと思っている。女が女であるがゆえに弱者におかれるケースだけをケアするのがフェミニズムだ、として何が悪かろうと思うからである。ただしそれは、男が男であるがゆえに弱者におかれるケースのケアは他の人がやってくれ、というのとセットであればの話である。もちろん「そんな古いフェミニズムではダメだ」という立場もあろう。それでも良いのだが、どちらにせよ、「男が男であるがゆえに弱者におかれるケースなど認めない」というのであれば同じことでしかないだろう。


いや、より単純に言えば、こうなのだ。医者の娘として生まれ育ち京大を出て東大教授になって社会的にも名声のある女によって、「赤木的なもの」が足蹴にされている、まさにそれが「赤木的なもの」の一定の正しさを証しているのである。こうした意見がフェミニズムの大御所の見解としてフェミニストおよびシンパは誰も批判しないどころか、「赤木的なもの」は彼らから嗤われるというまさにそのことにより、それについての正しさの証明を得ていると言えるのである。