政治ヲタクの不募金殺人説が欺瞞である理由

 ある人のある行為の責任を問う場合、通常は「その行為を行ったことで悪い結果をもたらした責任を問う」のである。一方、なにかをなさなかった責任を問う場合もある。この「AのBについての不作為の責任」という場合を考えたい。これはそもそも「AはBをなすべきである」との前提がある。AがBをなすことによって悪い結果が起きないようにするためである。ところがAがなすべきBという行為をなさなかったとき、そのことによって起こると予測されていた悪い結果が起こる。それについて「Aは本件において責務であったBという行為を行わず、そのためにこの結果が生じた。Aには不作為の罪を問わねばならない」となるのである。


 ここに明らかなように、そもそも「AはBをなすべきである」との前提があっての話である。今回の論争で言えば、まずは介護問題。通常、自活能力のない人の世話をする責任は親族にあるとされている。ただし、「認知症の親や知的障害の子を持つ親族も、どうあっても介護責任を放棄してはならない」とは、誰も考えないのではないか。というか、そういうわけで社会的分担も考えられ、その分担内容に応じて個々に責務が設けられていたりする。そのような合意が背景にある。安易な責任放棄とみなさざるを得ないケースではなく、当人たちの責任だけに帰すわけにはいかないというケースもあるからだ。


 ただし後者のケースでも、「部屋に閉じ込めて食料も与えないで餓死させた」等の場合、同情論とはまた別に、当然に責を問われることになる。またあるいは、このような虐待を防止する社会的責任(特にその執行権限者としての行政責任)が問われる場合もある。この場合、それぞれ何をなさなかったと問われているか、明らかだろう。何が何でも親族だけで介護・養育しなければいけないわけではないとしたうえで、代行者に世話を依頼するでもなく死なせたことの責、虐待を察知する機会があったのに防止策を取らずに死なせたことの責。それぞれ、「なすべきと課されていることを果たさなかった不作為の責」を問われているのである。


 対して、募金の例ではどうだろう。そもそも世の人々に「募金に応じる責務がある」とはされてはいまい。アフガン募金の例で言えば、「アフガニスタンで家族4人が何とか生活できる費用は、日本円に換算すると日額200円ほど」だとして、日本人にアフガン人を扶養する責務があるかどうか、考えてみればよい。そのような責務があるはずもない。したがって、募金しなかったことにより「不作為の責任」などは生じない。アフガンだろうがソマリアだろうが、同じことである。


 重度の障害を持つ子の海外での手術費用への募金活動、その場合も同様である。その費用を募金でまかなう活動に協力する責務があるわけではない。あくまで、その件につき心動かされた人々の自発的な善意による協力の話である。社会的負担で補助できるようにするかどうかを、医療保険制度の運用問題として論じることはできよう(是非はともかく)。ただし、これらを仮に、広く国民の責務とすべきとの社会的合意がなされるなら、それは保険料などの納付義務を課された公租になるということである。未納に対しては公租の滞納という次元での対応となる。担当機関が滞納を放置するなら、行政の不作為である。責任の取らせ方が変わるのである。


 そしてこれら制度運用において、困った問題が出てきて政治的に論じられる場合には、有権者としての意思表示の責務が、なにがしか生じよう。意思表示しなかった人は、その問題に白紙委任状を出したとみなされているのが間接民主主義における議会制度であるから、意思表示をしなかったことの「不作為の責」は問われない。制度問題における社会的な責任論としては、まずはそういうことである。次に、因果論に移る。「募金しなかったら、対象者を殺したことになるか」である。


2007-04-17
 sivadさんのこの論に、屋上に屋を架す形になるが、「募金することは責務ではないので不作為の責は問われない」「募金しないことで誰かの死期を早めることはないから死亡したことの原因とはならない」のである。前者については直前に述べたとおりである。後者について述べよう。


 死ぬというのは、その個体の生命現象が終了するということだ。殺すというのは、その個体の生命現象を他の個体が終了させることだ。殺す殺される関係というのは、異なる個体間に、死をもたらすものともたらされるものとの関係のことである。なかんずく、生を終了させる意図をもってその行為を行うことである。したがって、ある種の群生する昆虫や霊長類など「殺意を仲間に伝達して殺させる」という能力を持つ動物を別にすると、通常、殺す殺されるというのは当該個体間の直接的な行為を指していわれる。「あの狼が、この羊を殺して食った」とは言う。「その羊が殺されて食われるのを遠くで見ていた他の羊たちは、その羊を殺したことになる」とは言わない。「その羊が食われたらいいと他の羊が狼に差し出した」なんてことはないからである(寓話での話ではない)。


 人間の場合に、なぜにそのような間接的な因果が問われるのか、それも実際に即して考えれば、基本的には「殺害の意図の存在」を認識するからである。つまり「自己の殺意を他者に伝達して、間接的に殺害を遂行することがある」という事実を重視するからである。したがって、この場合でも、他の個体の生命現象を終了させる原因の発生源であるということだ。その個体の生命現象を終了させるには、いろんな手段があるだろうが、何らかの手段を採用させて、そうでなければ続いていた生命現象を終了させる。さて、では「募金しなかった」場合に、このような作用が生じるのであろうか?誰が考えても「否」であろう。


 誰か死にそうな人がいるとして、それを救うためには食料や医療が必要だとする。その食料費や医療費は多額になるので支援活動のための費用を募集する。多くの人々の募金が集まれば、たとえそれぞれはわずかの金額でも、塵も積もれば山となる。その大きな金額により、たとえ世界のすべての人ではなくとも、その募金活動が対象とする人の生命現象が続くように作用することはできうる。そこには、小銭を投じるという個々人の行為がめぐりめぐって、終了しようとしている生命現象に作用してその終了を阻止する可能性がある。そこには、個々としてはごくごくわずかでも、何らかの因果が生じる。


 しかし、募金をしなければ、生死に関わる因果はもとより生じない。募金をすればその死を防ぐ作用は生じるが、募金しなければその作用は生じない。だからといってその死をもたらす作用が生じるわけでもない。別の先立つ原因で死にかけている人が死ぬのであって、その人の死の原因を新たに生じさせたのではない。もし仮に、募金をしない理由として殺意(「殺してやりたい」でも「死ねばいいのに」でも構わない)を抱いていたとしても、その意図は、募金する行為を起こさないという自己の想念の中で完結し、外部へ伝播することがない。生死の現場への殺意の伝達経路が無いからだ。なにも生じていないので、なんの作用も起こさない。


 殺意があるかどうか、あったとしてそれが伝達して作用するかどうか、事実論としてはそれを見なければならない。たとえば雷に打たれて死んでも、普通は「雷に殺された」とは言わない。落雷に殺意はないからである。しかし西暦930年6月26日、京都で藤原清貫らが落雷で死んだ件につき「殺された」と感じた人が多かった。これは、菅原道真の怨霊が雷神となって祟り殺したとの観相であった。世にいう怨霊信仰である。菅原道真が藤原清貫を殺したと言いうるためには、このように信仰のレベルで言わないといけない。


 あるかないか確かめようもないが、それは目に見えなくともきっとあるに違いない…と信じるレベルでの話である。菅原道真を讒言で左遷していなければ後日の行動も変わり、その日に落雷地点には立っていなかっただろうと考えることならできる。そういう意味で因果をいうのであれば、それは理解可能な推論だ。しかしその場合でも、「菅原道真が藤原清貫らを殺害したのは事実」とはならない。それと同じである。近代の民主主義がどうの、フーコーがどうのと、別にそれはそれでいいけれども、だからして「募金しなかったら間接的に人を殺したことになる。この事実を突きつけられて誤魔化すな。そんなに怖いのか」というのは、はたから見ていて「この怨霊の働きが見えないのか」という水準のものでしかない。