責める人と責められる人の力関係

 ここんとこ硬い話題を硬い文体で書いてばかりいたので、いきなりだけどカジュアルに戻ります。takisawa(瀧澤)さんとterracaoさんのお題にお答えしていこうと思う。お二方とも、私から見てだけど、元の話とは別にすごく大事なこと言わんとされていると思うから。で、本稿はまず、メガネのおじさん(フーコーおじさん)ことterracaoさんのお題から。


http://d.hatena.ne.jp/terracao/20070421/1177181170
↑これですけど、「サバイバーズギルト」って言葉は初めて知りました。「生き残ってしまった罪悪感」「助けられなかった自責感」のことですよね。この点については恵まれない人を見殺しにすると言うけれど - Backlash to 1984で私も触れました。殺人が話題になっているので殺人事件の場合で書いたわけです。そしてこれは、殺人事件以外の人災や天災にも広く見られる。terracaoさんの例示した福知山線の事故もそうだし、阪神大震災の遺族にも見られる。


 で、福知山線の事故や阪神大震災の場合、「あなたが殺したんじゃないでしょ?自分を責めちゃダメ」って言えるわけですが(事実そうだし)、だけどご当人たちだって「それはわかってます、でも…」ということが多い。事実としては、間接的に殺したなんて事実そのものがないんだけど、事実に反した罪悪感や自責感がべったりと貼り付いてくる。


 こういうときに「殺してなんかいないと事実を認めろ!おかしな考えを捨てろ!」なんて言って責め立てたりしたら逆効果だろうし、その罪悪感や自責感に寄り添うのが心療的なケアだと思うんですよね。政治の話じゃなくて、実際にそういう人に対面して支えるなら、です。でもまぁ、その人たちの心的外傷による歪んでしまった認知を責める意味ではなく、ごくごく事実として言うなら「殺してない」としか言えないでしょう。


 殺人事件に遭遇してしまった人の行動については、ケースバイケースで考えるほかないんだけど、明らかに「助けけなきゃいけないのに逃げて見殺しにした」と責を問われる場合もあれば、「逃げるだけで精一杯だったんだから見殺しにしたとは言えない」という場合もある。だけどどっちにしても、「その場の状況」と「その場におけるその人の立場」との関係で判断されているわけですよね。それに、どっちとも言いがたい場合もある。


 例えば「ネオむぎ茶」のバスジャック事件での人質となった人たち。頭が変になって刃物を振り回している少年に対して、刺し違える覚悟で挑みかかれば、大人の男が何人かで飛び掛れば、おそらく短時間で制圧できますよ。だけど「自分が死ぬかもしれない」も怖いし、「少年が手元に置いて盾に取っている幼女が刺されるかも」も怖い。後者が怖いですよね、男たちは後部座席に移動させたわけで、「近づいたら、この子を刺すぞ」って言われてるんだから。ほんとに刺しかねないし。で、何人か殺傷されるのを見ているほかなく、男は出て行けと言われて逃げ出せた。これ、出てきた男たちには、ずいぶんな非難もあったわけで、すごく悩ましいケースです。「逃げ出した男たちは情けない」と気軽に言える人は、よほどマッチョな男(マッチョが好きな女)なんだろうか。でも非難するとかじゃなくて、男たちが何人かでやってれば倒せただろうことも、やはり疑いないわけで。


 マッチョを常識化すれば「あんた、男なんだから死ぬ覚悟で戦って誰かを助けないよ」ってことになるし、ヘタレを常識化すれば「あんた、赤の他人が殺されても自分だけは生き残らなくちゃいけませんぜ」ってことになる。でもさ、どっちにしても「あぁ、あの子は殺されたかもしれないけどね」ってことだ。この場合、世の中の仕組みや慣わしとして、どのような常識だったらいいのかな。わからないんですけど、「助けられたかも知れない命を助けなかったら人殺し」ってな理屈が通用しないことだけは、はっきりとわかるわけでしょう。誰が助かって誰が殺されるかの違いはあるけど、誰かの死は折り込み済みでモノを言ってるんだから。助けようとしようがしまいが人殺し、みたいな。



 それを、ヴァージニア工科大学の事件を例にとって言えば、こういうことだと思うんですよ。危険が迫っていることの周知が遅れた大学当局の対応の責が問われる要素と、銃社会を容認している社会的責任と。どっちにしても「見殺しにした」というケースではないんですが、「死なずに済んだかもしれない人が殺されてしまったことへの責任」について問われるケースです。


 この場合、「逃げ出した学生の責が問われるわけがない」ということと「逃げ出した学生も含めて社会的責任の一端がある」ということが重なってくるでしょう。そこで「間接的に殺したことになる責任の自覚」という理屈が、宙に浮くんじゃないでしょうかね。だってそうなると、「殺害された犠牲者も間接的な殺人者だ」となる。「彼らが自分達で自分達を間接的に殺害させた」みたいな。これじゃぁ、実際の犯人の犯行声明を、間接的に承認するみたいなものではないかな。犯人は銃社会のことは主張していないんだけども、そうやって無限に責任をかぶせていくなら、犯人の「こうせざるをえないように俺をしてしまったのは、おまえらだ」というのだって「うん、そうだ」となりませんかね。


 私やuumin3さんと、瀧澤さんやterracaoさんの論が、今んとこすれ違っているのは、そこんとこなんですよ。銃規制についての社会的責任を自覚させる論はね、それはわかるんですけども、だからと言って「だからして誰もが間接的に人殺し」と言っちゃうと、気分はわかるけど理屈として変なことになる。「賛否はあれども結果的に容認されている銃社会、そこで起きる殺人事件には社会全体の連帯責任がある。間接的に誰もが殺人者だ」という理屈が、実際に個々の殺人事件に当てはめた途端に、犯罪を追認するものでしかなくなる論理になっちゃう。事実にも反するし理屈としても変だ、と思うわけですよ。


 でね、こういう場合、「できなかったのではなく、しなかったのでしょう?」という問いを発するならね、そう問う人は何を問うているのか、ということになるじゃないですか。自分だったら「できた」と言いたいわけ?そうじゃなくて「しろとは言わんよ、でも、できないわけじゃなかったじゃないか、しなかったと言わせたい」じゃないのかな。「もちろん私も、できるとは言わない。でも私なら、できなかったと誤魔化さないで、しなかったと言いたい。だからほかの人にも、そう言わせたい」みたいな話でしょ、気分としては。


 気分じゃん、それは。でも実際の場面で、「できなかったのか、しなかったのか」なんてさ、どちらとも言えるしどちらとも決めがたい…なんてことは多いわけじゃないですか、こういう殺すの殺されるのという場面ではさ。いや、殺すとかじゃなくてもね、介護後問題とか、常にこういうことがある。ホームレスの問題だってさ、じゃぁどこまで言い切れる?「働けないんじゃなくて、働かないんでしょ?働かないと言わせたい」と、どう違うのか。


 働きたくても働き口が無い…というのもさ、実はその人の主観による場合もあるわけじゃないですか、そこへ「どんな働き口でも探せばあるはずだ、体が動かない人は別だが、どんな仕事だって選ばなきゃあるはずだろう」って言えちゃうわけでしょ、食えてる奴が。自分の培ってきた技能や職能にかけるものがあって失業状態の人もいれば、どんな仕事だってやりたいのに働き口が無いって人もいるだろう。で、後者には同情論は出ますわね。でも人生の中で何の努力もしないで職にあぶれているのかもしれない。それに対して前者を選り好みだと言えるかどうか、自分がその立場だったらどうよ、みたいなことを私は考えるよ。できるの?しないの?なんてさ、他人がその人を知らないで、どう言えるのさ。


 で、あー、全然おじさんの言いたい話とズレたかな。結局は自分の言いたいことを引きずったかも。だけど、わたしゃフーコーの哲学は生噛りなんだけども、たぶんあの人は、こういった「言う、言われる」という人間関係のさ、そこんとこの「力関係」を凝視してたんじゃないの? なぜか「権力関係」とか「権力構造」と翻訳されて「反権力」の人たちのバイブルになってる印象があるんだけど、あの人がいう「政治」とか「権力」とかいうのは、演繹じゃなくて帰納だよね。


 人間関係全般のこういう「力関係」が、社会構造の上下組織の究極形態となって政府機関とかの権威付けになっている面があるわけだけど、何て言うかな、反政府理論とかじゃないわけじゃん。ね、その種「国家=政府=悪」の政治思想じゃなくて、人間社会というものへの哲学的視線。


 「何らの力関係の無い人間関係って、あるのかな。ないと思うんだけど。そしたらさ、言う言われるということ一つ取ったって、正しいか悪いかよりも強いか弱いかとか、そういうことが根っこにあるんじゃね? でさ、そういう力関係の強弱ってさ、ほんとに個人の能力の優劣強弱かな。ほとんど立場から来てないかな。その人のその場の属性とか。男女の色恋の話をしているときに、男色の話がヒョッと出てきたらさ、面白おかしく言われるか嫌がられるかじゃん。そういう力関係があるわけだしさ、それが制度になってて増幅されてもいるじゃん」ってことだと、私は勝手に思ってる。


 うわぁ、話がすげぇズレた。ズレたけど、私の言いたいこともズレた中に含まってますよ。おじさんが「これを言っちゃ酷だ」というのを「政治的に正しくない」と表現するのは、お手盛りのPCじゃないわけでしょう。そこでいう「政治的」ってのはパフォーマティヴのことではなくて、単に心情論だけでもなくて、「そう言えちゃう自分と、言われちゃう人の力関係」がすごくあるから、「これを言うのは重い」と。でもさ、ぶっちゃけ福知山線の事故でのサバイバーズギルトの例だって、心的外傷による歪んだ認知の話でしょう。「死んだ人がクッションになった」からと言って「自分が殺した」わけじゃないじゃん。


 おじさんが重い気持ちで言いたい「事実」ってのは、ここでは「間接的」じゃなくて「直接的」でしょ、即物的に言うなら、圧死した人を圧したのはその人の体重だという。でもさ、その体重が加速された状態で物理的圧力として働く作用と言うのは、列車の暴走と脱線衝突による急停止における慣性の法則での作用だから、もし比喩として「間接的にに殺した」と言うならば、その物理的作用を発生させた仕組みというほかないよ。事実としては、その意味においても、生き残った人が殺してはないんだから。ほかにどうも言いようがないよね。


 次回は瀧澤さんのお題に戻る。おじさんの言うポロロンガの話です。請うご期待(誰が待ってなくても勝手に書く)。