「間接殺人派」の自己満足的な誤謬

 介護問題から募金問題になり民主主義理念の問題になり死刑制度問題が出てホームレス問題に及ぶ。「できないのと、しないのとは、違うでしょう」という観点から広がったもので、いづれも「それをしなかったことは人殺しと言えるか」が論点の基調になっている。もちろん、そうやっていろいろ広がっていくことは、今件のような話題の場合には避けられないだろうし、広がった先々で別の人が語り合いながら考えるのは悪いことではなかろう。その一方で、「話がどんどん広がってしまって元の話がどこかへ行ってしまっている」という声がある。私もそう思う。そこで、私はあくまで元の話に白黒をつけたい。他の関連話題は、その後にすることとする。


 元の話は倫理の話として出されていたものだ。この段階では介護問題である。「できないのと、しないのとは、違うだろう」という問いかけも、「しようと思えばできることをしないのは、しようとしないということだ。それを、できないと言うのは言い訳だ、嘘だ欺瞞だ」とする文脈で出された。要介護者を介護施設に預けたままにすることを非難する…ということではないらしい。それはそれでいいらしいが、そうした場合に、ただひたすら「嘘をつくな、正直に言え」というものである(認知症の親や知的障害の子などが該当しよう)。なかんずく、そういう倫理的な非難を同情論で封じるなとの主張であった。そこで「そうした同情論は論理的に通らない」と示す意図で提示されたのが、募金問題であった。「募金をしなかったら間接的に対象者を殺したことになる」という理屈である。


 論者はここで、助ける責任を果たすべき人が果たさないことの例として、介護問題と募金問題を例示している。要介護者を施設に預けるのも困窮者への募金に応じないのも責任放棄だ、強制的に責任を果たさせることはできないが、少なくとも責任放棄だという自覚くらい持てとの論である。「しなければならぬとは言わないが、できなかったのではなく、できることをしようとしなかったと自覚するくらいはすべきだ」という理屈で並べられたものである。


 ここで妙な現象が起きた。後者の募金問題での理屈に賛同した方々は、個別にはこまかな異同もあるが、総じて言えば「社会全体の連帯責任として認識すべし」ということである。私自身は、この種の政治的な連帯責任論は全体主義でしかないと考えるから否定的なのだが、それについては別稿としたい。ともかくおおむね、賛同者はその立場からこの理屈を肯定した。国内外を問わず、眼前にいるかいないかを問わず、「助かる人を、助け得る人が助けなかったのなら、程度如何はともかくその責を感じるべきだ」とする。ならば、元の話はどうなるのだろう。


 論者が言うように、「認知症の親や知的障害の子を介護施設に預けたままにすることは、できることをしようとしなかったのだ。しろとは言わないが、できなかったというのは言い訳だ。しようとしなかったと自覚すべきだ」という主張をも、認めているのだろうか。だとすると、介護問題について、自分たちが唱える「社会全体の連帯責任」は崩れ去る。自分で提唱した論を自分で棄却することになる。これでは、何をやっているのかわからない。


 そうではなく、論者とは異なり「助けられるべきは認知症の親や知的障害の子を持った人も含む。その家族を助けるのは社会全体の連帯責任だと認識すべし」ということなのだろうか。その場合は、介護施設にて第三者が要介護者を助けたり、そのことで家族の負担を肩代わりしたりすることは評価すべきことになる。そのように肯定的に評価することも「社会全体の連帯責任だと認識すべし」ということになろう。ただしこの場合、論者の主張は否定される。


 違うだろうか。同一論者の同一の理屈に賛同しておいてその主張を斥けることになるのであれば、何が論じられていてそれに自分が何を言っているかわかっていないということだ。まして、論者の主張を批判している人に対する反論や反批判を見ていると、この間の消息がさっぱり見えていないと言わざるを得ない。見ているのは、国際問題と内政問題の関連における自分たちの政治信条に、合いそうな論か否かというところだけであろう。


 なぜこのようなことになっているか、私なりに述べたい。ひとことで言えば、味噌も糞も一緒くたにして、通り一遍の理屈で語り得ると勘違いしているのである。元の話は、できることもしないで預けっぱなしの人もいるだろうけど、疲労困憊してやむなくの人もいる。そういうごく当たり前の生々しい現場も考えないで、ひとことの理屈で済ませようとしたからいけない。これは既に他の方々から、あくまで介護問題の事実論として言及されているから私が詳説するまでもない。ところが論者は自分の貧相な理屈を守り通そうとして、募金を例に妄想の因果を彼我の生死に結び付けようとしたのだから、いよいよ話がおかしくなって当然だろう。


 募金の件での賛同者は、おそらく「アフガン」に触発された。平素の自身の政治信条に、見事に合致するがごとく幻惑されてしまったのではないか。こういう幻惑作用のある言辞を、私たちは「詐術」と呼んで強く批判しているのである。しかし幻惑されたことまで非難しているのではない。元の話に触発されて別の話を述べることも非難されることではない。「アフガン」から国際問題と内政問題の関わりを連想して、この機会に平素の自身の政治信条や社会観などを述べて世に問いたくなったのであれば、もちろんそれはそれでいいだろう。しかしその場合には、元の話との整合性を明らかにすべきだ。自分なりに、元の話に白黒をつけていただきたい。


■付記■
サルトル的「責任論」 - G★RDIAS

ここから、どのように「責任論」を組み立てていくか。

 あなたの責任論からすれば、以下のようになるだろう。『たとえウェブ上の小さな日記とは言え、そこに主張している内容と読者の言動との間には、ごくわずかでも因果関係を生じ得る。介護問題について、漫然と「しようと思えばできたでしょう?できなかったというのは嘘でしょう?できなかったのではなくしなかったのだと言わせたい」とあなたは言う。「そうだ、そのとおりだ」と思って安易にそれを口にする人が出てきて、そのことにより、介護に疲れ果てた人が追い詰められたり、募金活動そのものを胡散臭く感じて拒絶的になる人が出たりする可能性は、皆無ではない』と。

 つまり、あなたの「間接殺人説による責任論」が成り立つなら、あなたや賛同者こそが殺人者であり責任者である。自分の文責をどう果たすか、そこから組み立てるべきだろう。その段で、「自分の行動は自分だけの問題だ、という個人主義を否定している」という言葉を、自分の文責を自分で果たさないことの言い訳にしてはなるまい。それは「間接殺人は容認されるべきで、無問責とされるべきだ」と主張しているのと同じなのだから。


 また、あなたの間接殺人説が正しいものと世に認められるのであれば、その主張による犠牲者が出ないように禁じられるのは当然の成り行きと言って良い。すなわち、あなたが当初に「責任放棄への倫理的な非難を同情論で封じるな」と主張したことと乖離する。すなわち、自分の主張を自分で封殺しているまでのことである。自分の主張を自分に当てはめたらどうなるか、少しも考えないからこんなことになるのだ。要するに、あることにつき他人を責めたいばかりで自分は責められまいとするからである。


 「募金をしなかったら相手の人を殺したことになる」と言うのは、そのことをわかりやすく示す例とされる。ふざけるな。コンビニのレジにある募金箱に小銭を入れるかどうかと、日々の介護を一緒くたにするな。なるほど、コンビニのレジで募金箱に小銭を入れないのは「できなかったのではなく、しなかった」でいいだろう。単発の行為としては。あなたは、介護が「できるか、しないか」を、店頭の小銭入れと同列に見ているのか。言葉の表面だけか、あなたが見ているのは。