「君もそうだと僕は言うけど君はとやかく言うな」

 ある命題が正しいのなら、その命題を認める人は正しい判断をしていることになります。その命題が誤りなら、その命題を認める人は誤った判断をしていることになります。つまり、それを認めようが認めまいが自由だとするにしても、まずそれが正しいかどうかの論考が欠かせません。いつもいつもそうしなければいけないということではなく、いまここで論じられている「募金しなければ間接的に殺したことになる」というのは全称命題だからなのです。当てはまる人と当てはまらない人を選ぶ命題ではない、ということ。全称命題という言葉をご存知だろうか。(全称命題 - Wikipedia)。


 この命題が真として成り立つのであれば、全ての人が当てはまるわけです。個人的に認めようが認めまいが、共感しようが反感を抱こうが、それは個人の受容の問題だということです。そこで二次的に、受容しない人にどう対応するかが論じ得るのみです。ある人は「受容しないことをそのまま放任はできない。認めるよう暴力的な強制はできないが、反発には説得し、説得してなお否認する場合には非難に値する」と言うでしょう。ある人は「それを受容しない場合でも、とやかくいうつもりはない。自分は正しいことを認めているだけだから」と言うでしょう。これまた、リアクションへの個人の受容の問題です。つまり「認める認めないは、個人の自由」と言うのは、この命題の真偽を判断してはじめて意味をなします。


 もっとも、同じ募金の件でも、「あくまで自分の極私的な見解であって他者に共有させる気はない」と言い得る場合もあるでしょう。「そこで募金しなかった私は、冷たい奴だと我ながら思う」などです。これはもう、真偽の問題ではありませんよね。全称命題でもありません。「あぁ、そう感じる人なんだ」ということです。共感しようがしまいが。そこからさらに「これに募金しなかった人は、私と同様に冷たい奴だと思う」とか「これに募金しないような冷たい奴は、私は自分も含めて大嫌いだ」でも同じですね。これには反感を感じる人も多いだろうけど、私情の話です。もしあえて真偽を問うなら、そのように表明された私情が真心か嘘偽りかというくらいなものでしょう。


 あるいは、「私の場合これこれの理由で、私がその募金に献金しないと対象の人々を間接的に殺してしまうことになるんです。もちろんこれは全ての人には当てはまりません。その理由はこれこれです」といったように明示してあるなら話は別です。これは個人的な事情の説明ですから。もしそこで真偽を問うなら、あくまで発言者の事情に対する詮索になります(良かれ悪しかれ)。


 ところが、およそ思想・学説・教義・法理などで、「募金しなかったら間接的に人を殺したことになる」とする全称命題は、私情の吐露でもなく私事の説明でもありません。その理屈は、すべての人に当てはまるはずです。そのように立論しておいて「私はこれを認めるが、ほかの人が認めないのも自由だ」と言うとします。それは単に発言者の気構えの問題、あるいは謙虚さの表明、もしくは押しの弱さ…などなどでしかありません。そう言って済ませられるなら、自己満足に終わっているわけです。そこには、自分が含めてしまった「他者」への視線が欠落しているのです。


 このことは、23mmさんが書かれた2007-04-17の後半部にも表現されているのです。23mmさんは、このエントリへの私のブクマコメント『「人殺し」という言葉の語感にも言及しつつ「間接的に」をめぐる齟齬を論考した意見。しかしそれだけに、結語で「他者の存在」が欠落して自己満足に終わっているのがいただけない』について、以下のように答えられます。

「自己満足」ですか…。それには返す言葉がないですね。僕は、「個人がそれぞれ自らに問うべきことであって、他人がとやかく言うことではありません」とも上に書いたように、僕の意見を誰かに押し付ける気が全然ないので、押し付けているように思われるのを避けたくて、どうしてもこういう風に書いちゃうんです。

 23mmさんがご自身の意見を他者に押し付ける気がないのは、そうだろうと思います。でもそれは、「そのかわり誰も文句は言うなよ」ということでしょう? なぜなら、

そういう自分を恥じるかどうかは、個人がそれぞれ自らに問うべきことであって、他人がとやかく言うことではありません。というか、とやかく言うあなたはどうなんだ、という話。

 「そういう自分」とは、どういう自分かというと、

誰かが僕に、「おまえは人殺しか?」と問うてきたとしたら、僕はなんと答えるだろうか。

「違うよ」と答えるとき、僕の中にあるのは個人の体験の記憶だけでしょう。過去にそういうことをしたことがない自分の境遇をラッキーだったな、と思っているかもしれません。

「そうだよ」と答えるとき、僕は明らかに、社会とか世界の枠組みを意識しています。戦争も飢餓もテロも犯罪も死刑制度も、個人の思いはどうあれ、結果的に容認している社会の構成員である自分というものを意識しています。

両者はどちらも正しい、と僕は考えます。

 …と、このように考える「自分」なわけですね、「自分=僕=23mm(および賛同者)」。そのうえで結語として、かの全称命題にyesと明答される。つまりどういうことになるかというと、「このように考える僕らを恥じるかどうかは、僕ら個々人がそれぞれ自らに問うべきことであって、他人がとやかく言うことではありません。というか、とやかく言うあなたはどうなんだ、という話」ということではないですか。


 確かに、何かを押し付けられているとは、少なくとも私は感じません。「僕らはこう考えるけど、あなたがたもそう考えろとは言わない。そのように強いて求めているとも思われたくない」というお気持ちは、そのとおりだろうと思います。でもその「僕らの考え」というのは、「あなたがたではなく僕らに当てはまるから、そう考えるだけなんです」なのですか?そうではないわけでしょう。「あなたがたも含め僕らはみんなそうなんだと考える」なわけでしょう。それなのに「そういう僕らを恥じるかどうかは、僕ら各自が自分に問うべきことで、あなたがたがとやかく言うべきことではない。とやかく言うあなたがたは何なのだ」と。


 これが私のいう、「他者の存在の欠落」であり、自己満足に終わっているということなのです。もっとも、私は23mmさんの論が恥ずべき論だとは思いません。瀧澤さんのも、そうです。それどころか、23mmさんのこのエントリの前半部は大変に傾聴に値する意見だと考えておりまして、瀧澤さんの論とも併せて、また別に私見を述べてみたいと思っているほどです。ただ本稿で私が23mmさんに言いたいのは、以上の理由で、恥ずべき論なりと評されることに「他人からとやかく言われる筋合いはない、とは言えない」ということです。そしてそれはもちろん、同じ理由で私の論もそうなのです。


 恥じる恥じないは私情です。自他を包括するところの自論について、恥ずべき論だと評するも評さないも、それこそが他者のなしえることであります。まったくもって誤った論にして恥ずべきなりと評された場合、恥ずべきか恥ずるべからざるかと自分に問うのも大事でしょうが、恥じる恥じないに論点があるのではありません。まして、恥ずべき論なりと評す場合、恥じよと押し付けているのではありません。恥じねば、恥知らずとの評が加わるのみです。しかしそもそも自他を含めて論じておいて、他人がとやかく言うなとは、これいかに。