恵まれない人を見殺しにすると言うけれど

 マスメディアも発達していなかった頃には、自分の知らないところで多くの人が死んでいても知りようがない。ではその頃は、そうした恵まれない人たちを見殺しにすることが現代人より少なかったということになるのかな。現代では、テレビや新聞を見て、世界中の悲劇を見る機会が増えた。だけど何もしないで見ているだけだから、見殺しにしていることになるんだ間接的な人殺しなんだと言うけど、そしたらそれは、情報が発達したから間接的な殺人者が増えたということになる。何の話なのだ。こういうことじゃないか、テレビや新聞を見て「何もできない…見殺しにしちゃうしかない…間接的な人殺しなんだ私たちは…」と感傷にひたる人が増えましたよ、みたいな話でしかないだろう。


どうも変な自己満足的感傷が多いな、この話題は。ただの感傷ならまだしもだけど。
http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20070416/p2

人の命を死に晒すような極限状態のたとえを持ってこないと倫理って語れないもんなのか? 生死に関わるような話じゃないと倫理について考えたことにならないのかなもしかしたら。


 別にそんなことはないだろう。そこにそういう話題が出て、そこそこ注目を集めてて、「募金しなかったら死なせたことになることを自覚せよ」とかいう意見に、私らは「そうではないでしょう」と言ってるの。あなたも先にこの話題に参加したくせに、「間接的な人殺し」論が論駁された後になって、何を言い出すやら。

そこで募金をしようがしまいがそもそも「私は生きているだけで間接的に人殺し」。このことを私は認めて生きていこうと思います。


 これはただの自己陶酔な論点ずらし。誰も「生きているだけで間接的に人殺し」にはならない。というか、その「間接的」が無内容で無意味。論点は何よ、「そこで募金をしようがしまいが」じゃないだろ。そこが論点だろ。募金をしなかったことが間接的に人殺しになるかどうか、そういう因果の事実はあるかどうかだろ。それを間接的な殺人とは言えない、そのような因果の事実もない、だから「募金をしなかったことは死なせたことになると自覚せよ」というレトリックは詐術だと論証されているわけ。


 画面や紙上にある人々は、実際ははるか遠くにいるのである。手を出せない遠くにいる人に手を貸すことは、できないのである。「しない」のではなく「できない」のだ。自分が手を貸す代わりに、実際に手を貸している人の手伝いをささやかながら行うことはできる。募金を「できなかった」のではなく「しなかった」のだと言うべきなのだ…まぁ修辞としてはそうも言える。が、それは手の届くところに募金箱があるからだ。手の届く範囲内のことだから、言えるのはそこまでであって、手の届かないところにいる人の生死には、募金しようがしまいが、手を貸すことはできない。つまり募金しようがしまいが、その人たちを殺したことにはならない。

世の中には金がないとかその他理不尽な理由で死んでいく人や「もうちょっとたすけがあれば」死ななくてすんだかもしれない人ってのが大勢いるけど、その人たちの死を阻止するために間接的にでも私は何もしてないんだからな。間接的に見殺しにしているってこった。


 いいえ、それをして「間接的な人殺し」とはいいません。だってそんなもん、全世界のそういう人を助けることができるかどうか考えてみればいいじゃん。誰もできないでしょ、そんなことは。誰もできないことを、できないがゆえに「見殺しにした」だなんて、無茶苦茶だよそれは。


 アホか。そういうのは、もっと実際の場面で考えるべきことだ。たとえば「刃物を持った暴漢が人を傷つけていたのに、自分は逃げるだけで精一杯だった。刺された人は死んでしまったそうだ。私は、あの人を見殺しにしてしまったんだ…」と心を傷める人がいる。そういうときにあなたは、「えぇそうですね。あなたが見殺しにしましたね。でも私も同じですよ。世界中にいる恵まれずに死んでいく人を見殺しにしてますから。私もあなたも間接的な人殺しです。その暴漢と同じようなものです」と言うのだろうかね。


 あなたが自分で言ったその考えを自分で認めるのは当たり前だろうけど、偽悪のポーズを気取った偽善、己の罪の告白に見せかけた他人の責めというのは、卑怯なだけなんだよ。論点を掻き消して、倫理の問題が無意味であるかのように見せかけて、しかも「ひとが認めたくないことを自分は認めて生きていきます」と宣言する。ええ格好しい。で、そういう人間が「教育基本法改悪反対」?道徳教育義務化反対?支持されるわけないだろう。


 だいたいさ、「倫理について考えるたび、我々は頭の中で人を殺す」として、そんなの何の皮肉にもなんないよ。頭の中で飯を食ったら腹が膨れるか?想像と行為は違うだろ。いい齢こいたオバサンが若気を気取って恥ずかしくないか。



ついでにyukiさん。

ですよね。なにもそんな極限状態を例に出してくるまでもなく「間接的に人殺し」だよわたしたちは。「たち」とか書くとまたあれだけど、わたしたちはわたしたちだからなあ。


 たとえば、ある殺人犯の死刑に賛成する人は、「その人殺しを殺せ」と言ってるわけで、その意味において自分も間接的に殺人者でしょう。でも、それは誰が誰をという因果がきちんとあるわけじゃないですか。「その者を殺せと言ったから、もちろん私もその者を殺したことにはなるだろう。こんな奴が生きているのは許せない、殺してやりたいと思ったから、そのとおりですよ」と。それを認めない人は、ちょっとどうかと思うけど、あまりそういう人はいないと思う。


 そういう意味で、ある件について「えぇ、私も殺人犯の殺害に賛成する意味で殺人者ですよ」というふうになるのであって。それに対して、「募金をしなかったことは死なせたことになると自覚せよ」とか「誰をも救えるわけではなく誰かを見殺しにせざるを得ないから、人は生きているだけで人殺し」とか、「殺人」をそんなふうに考えていいものか。いいわけないでしょう。


 これ見て思ったのですが、じゃぁyukiさんが言ってた「わたしたち女はみんな売春婦」ってのも、これと同じノリで言ってたんですかね。だとしたら、これに怒る女がいるのも当然だと思いますよ。売春を蔑視しているからとかじゃない。「あなたのその考え方と一緒にしないで」という意味で怒る、ということはあるだろうと。


 「ある女がある局面では、直接にではなくても、売春しているのと同じだということもありえるだろう」というのと、「わたしたち女はすべて生きているだけで売春していることになる」というのとは違う。yukiさんはどっちの意味で言ってたのかな。というか、この二つの違いがわかるなら、殺人の例でも同じでしょう。殺人と売春が等価ということではないですよ、「殺人はいけません!悪です!」「売春はいけません!悪です!」みたいな建て前が多いけど…と論じた場合の、同様の形という点で。