原則禁止と絶対禁忌(殺人篇)

 「なぜ人を殺してはいけないか」と問う人がいたら、「あなたは何を聞きたいのか」と問い返せば良いと思う。たいてい、何か思うところが胸にあってそれを相手に問わせる…自分の言いたいことが先にあってそれを相手に問わせる、そのきっかけづくりとしての問いかけだろうと思うからだ。だから、この種の質問者には自分で答えさせたほうが、話が早いだろう。


 自分や自分の大切な人を殺されたくないと思う人がほとんどなのだから、いつどこの世にも「人を殺してはならぬ」という約束事が原則として定められる。およそ原則に例外は付き物だ。「人を殺すことはいけない」というのも原則として定められているわけで、当然に例外規定もある。いかなる例外も認めないというのは絶対禁忌と呼ばれるもので、原則禁止とは極めて異質なものである。例外を認めることと、例外を認めないことの間には、ものの考え方として大きな隔たりがある。


 価値評価ではなく、ごくごく事実の話として。軍人が任務上の戦闘行為で敵兵を殺傷したり、警官が任務上の治安行為として凶悪犯を射殺したりすることは、法律上に容認されている。その訓練もしている。だけど、軍人が戦地や占領地で、無力化した敵方の人員、たとえば捕虜となった敵兵や民間人を殺すことは禁じられている。任務中の殺傷とはいえ戦時犯罪として罪を問われるケースもある。警官が束縛可能な犯人や拘束した容疑者を現場や取調室で殺すことも禁じられている。これを犯せば犯罪である。


 彼らをここで便宜上、「武官」としておこう(現行制度上の正しい総称ではないが)。武官の任務の主たる目的は、敵人や罪人の殺戮にあるのではなく制圧にあるとする論は、正しいのであって苦し紛れの詭弁ではない。目的論だから。もっとも、こうした例外規定は武官にだけ認められた特権なのではなく、不可抗力や正当防衛や情状酌量など、不問責もしくは減刑の価値判断のための例外規定は、すべての人にある。要するに、彼ら武官も「人を殺してはいけない」という原則論の中にいることは変わらず、「このような場合には殺してやむかたなし」という例外規定があるのみである。


 武官は「殺傷を職業にしている殺人集団」なのではなく「任務上の殺傷行為を限定条件付で公認されている職業」のであるから、他の人々との違いは「職種の違い」でしかない。殺人について絶対禁忌ではなく原則禁止としている社会において、武官もそうでない人も私的な殺人は原則禁止であって特に変わるところがない。職務の一環として公認された殺傷行為があるかないかという違いにすぎず、それが公認されているのはもちろん社会的合意としてである。だから究極的には、武官を「人殺し」と呼んで良いのなら、他の人々も同じだ、とも言える。


 ただし無条件でそう言えるかとなると、この例外付の原則禁止を認めている人ならばそうだ…ということは確かだ。武官の職務を認めて、限定条件付の殺傷行為を含めて治安上や国防上の任務として行わせているのだからというのが一つ。そして武官ならざるとも、正当防衛などやむにやまれぬ殺傷行為も公認させているのだからということが一つ。なのに、武官のみを「人殺し」と呼ぶならば、語感の問題ではなく欺瞞である。*1


 このことは、私的信条としては絶対禁忌論者でありつつ、社会制度上の原則禁止論を承認している人にとっても同じだ。対して、同じく絶対禁忌論者でも「自分は絶対にあらゆる殺人を認めない、そうした制度も認めない、個人的な正当防衛も認めない、自分が襲われても相手を殺傷するほどの抵抗はしない」という信条の人のみが、他者を「原則禁止を認めている人は、みんな人殺し」と呼ぶことができようか。山奥に隠遁したほうが良いとは思うが。


 古来、漢語では「暴を征するのが武」とされた。「武」とは「戈(ほこ)+止」である。英語なら「violenceを征するのがforce」といったところだろうか。おもしろいことに和語には、これに相当する語の使い分けがない。だから外来語をそのまま借用語として用いるか翻訳語を用いる(欧米語の翻訳語はほとんど漢語で代替される)。


 武人が戦闘行為の中で敵を殺傷することは古今東西、いづこでも認められている。当然、武人の務めとして、日常に殺傷の訓練もする。殺傷の訓練だけじゃないというのは、この際は言及しなくていいと思う。あと、「人殺し」というのは非難する語感の言葉だからとか、「殺人」というのは現行法の罪状名だからとか、表現としての悪影響を重視する論は当然に出てくるだろうし大事な観点なのだが、ひとまずそれもさておくとしよう。


 「殺人はいけない」という原則と例外規定、またそのための言葉の使い分けには、人間の歴史と同じだけの古い由来があろう。またそれと同じくらいに古くから、「いかなる殺人をも絶対禁忌とすべき」という主張もあるだろう。偏頗なものはともかく、こうした主張の真の眼目は、それが人間の理想とすべきものであるとか、それが人間存在の真理なのだといったことには無いのだと思う。その目的は、極論としてのカウンターなのだと思う。


 およそ例外を認めない原則というものは無いのであるが、次々と例外を認めることにより原則そのものが形骸化することがある。あるいは、例外の適用の仕方(ある殺傷行為が例外規定に合致しない犯罪であるかどうかの判断)が恣意的に運用されて、これまた原則が無効化することがある。それらの乱用の場合、もはやその武力は、それを掌中に収めた強者の暴力としてしか発動しない。これまた、人類の歴史と同じくらいに古くからあることだ。


 どれが乱用でありどれが適用であるか、その明確な線を引くことは、理念の上では紙に書くこともできる。しかし乱用が行われる現場というのは、そもそも紙に書いてあることが行われないからそうなっているのである。何をどうすれば乱用に当たらないかということは、実際には無数の悲劇惨劇の集積知としてなら、全体像としては明瞭に見えるように思えるが、個々に見ようとすると茫洋として見えなくなることも多い。


 そこで、もっと明快に言い切ってしまおうとするのが絶対禁忌論だ。武(force)だろうが暴(violence)だろうが「殺す(kill)という行為」には変わらない、という一点を凝視するわけだ。これを例外なく悪だと指弾することになる。このように、人を殺す行い全てを絶対禁忌とする観点からは、あらゆる例外規定、とりわけ武官のそれもふくめて認めないことになる。また、いかなる犯罪者であれ、これを殺す罰則も認めない。


 私は原則禁止論者である。人を殺してはいけないという原則を支持する。例外の存在も認める。正規の例外の中で行われる殺人を悪行だとは思わない。何をもって正規の例外とするかという議論は価値あるものである。いかなる例外も認めないという絶対禁忌論を支持しない。論として支持しないが、絶対禁忌論の存在は価値あるものである。原則論による完全な不正防止も、絶対禁忌論による完全な不戦不殺生も、実際にはどちらも実現不可能である。人間が人間を完全に制御するなど不可能だからである。不可能だからといって原則容認論や無原則論を支持することはない。それは制御の放棄であって、また別のものである。


 しかし絶対禁忌論がカウンター以上のものにならないのには、また別の理由もある。たとえば、学校に侵入して刃物を振り回して児童を殺傷しようとする暴漢に、徒手空拳で立ち向かう先生は賞賛されるが、われ先にと逃げ出す先生は非難されるだろう。仮に、もし椅子か何かで、暴漢を打ち据えて死なせるとする。警官のような訓練はしていないから、殺さずに制止させ束縛する技能はない。その場の勢いで力任せに殺すのである。それも明白な殺意のもとに「打ち所が良くて死なずにすめば犯人の幸運、自分としては殺すつもりで渾身の一撃をした」とする。


 これを刑法でどう扱うかという法律論としてではなく、道義的に善悪として考えた場合にだが、悪行と言えるだろうか。言えはしまい。どう考えても善である。「人殺しと呼んでいいかどうかという問題とは別に、事実として、人を殺したことには相違ない」とは、もちろん言える。でも、この殺人は明らかに善である。つまり、殺人も悪とは限らず善と考えるほかない場合もあることは、これまた単なる事実である。


 絶対禁忌論の立場から「いかなる殺人も悪である、悪を行っていいとは言えない」とした場合でも、「しかし現実には、治安や国防のことで、必要悪としての殺人を容認せざるを得ない現状は認める」とは言える。政治的な判断としてである。しかし、この先生の殺人は、職務上の規定にも無く、刑法に触れることを免れない。単に事実として殺人であり、単に事実して善行であり、単に事実として法に触れる。


 そして、言葉の背景にある語感で言えば、この暴漢は誰を殺すにいたらなくても「人殺し」であって(法的に殺人未遂とは立証され得ない可能性がある)、先生は「人殺し」とは呼ばれない(法的に殺人罪として立件される可能性がある)。言葉の字面の語義だけでは、どうにもならない識別がそこにある。ちなみに、死刑廃止論には様々な論拠が錯綜しているが、その中で「人殺しは絶対悪だから、凶悪殺人犯だからといって殺すことは許されない」というものも見るように思う。それについては、以上のことからすると無効であろう。その論理は、こうした行為をも許すべからずとしてしまうものであるからだ。


 必要悪として消極的あるいは政治的に容認するのではなく、善行として積極的あるいは道義的に賞賛すべき殺人というものが、現にありうる。これはなにも、先生はこのようにせねばならぬということではない。われ先に逃げ出すのは論外だが、必ずや暴漢を殺害すべしということではない。だから「殺すべき」ということではないし他の方法より最善ということでもないが、暴漢を殺して児童を守るのは、道義的に善である。


 このようなことはいくらでも考えうるのであって、「殺人は絶対悪」との説は、元来が成り立たない。また、われ先に逃げ出した先生は誰も実際には殺していないが、見捨てた児童に犠牲者が出れば、「見殺しにした」とは言われるだろう。「間接的な殺人」と言う人もいるかもしれない。職務上の責任論にはなるだろうし退職に追い込まれるかもしれないが、刑法に触れるとも思われぬ。法律と倫理は必ずしも重ならない。刑法においては法律と倫理は深く結びついているが、それでもズレることはある。そういうものであるし、そうであることが望ましい。


 してみると、事の善悪の見定めは、殺されるかどうかなのであって、殺す殺さないに善悪の見極めがあるわけではなかろう。それでも、一般論として「人殺しは罪悪」との原則は変わるまいと思う。暴漢の殺傷行為がそれに該当し、暴漢を無力化する際に殺すことはこの罪悪の例外の一つであろう、少なくとも倫理的には。「人殺し」という言葉に罪悪感が貼り付いていて価値論以外での用い方が困難なのは、こうした理由からだと思う。


 だから例外を認めつつ原則的に罪悪として禁止する。人を殺すことが誰にとっても無条件に罪悪と感じられるから原則禁止とされている…のではない。無条件に罪悪なら絶対禁忌であるはずだ。誰もが殺されたくないから原則的に罪悪として禁止しつつ、殺していい場合の例外規定を設けている。誰にでも殺意がありえるからであり、その殺意の発動が正当である場合があることも知っているからである。


 なお、「人を殺してもいい」が原則として採用されないのは、先の例で言えば「咄嗟の判断で暴漢を殺すことも良いが、そもそもこの暴漢も児童を殺して良い」になってしまうからだ。そのように原則容認としておいて「人を殺して良くない場合」という例外規定を設けようにも、例外範囲が無限と言うべきで、原則論として意味を成さないからである。無意味であるうえに、約束事として守られない。有限に例外もある禁止原則は守りようがあるが、無限に例外ばかりの許可原則は守りようがない。誰からも守られない約束事は、淘汰されるので残らないまでの話である。


■参考
2007-04-17
本文と※欄のyukiさんaozora21さんのご意見も含めて
人殺しの位相 - REV's blog
言及先を含めて
「君もそうだと僕は言うけど君はとやかく言うな」 - Backlash to 1984
本文ではなく※欄のJosefさんのご意見
http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/20070416#1176725123
本文ではなく※欄の瀧澤さんのご意見

*1:おそらく23mmさんや瀧澤さんが言っておられる「事実」というのは、このあたりのことを含んでのことだろう。それは充分にわかっているのだが、それが「募金をしなかったら間接的な殺人だ」というのが「事実」になることになるわけでもない。ことの分別はつけてほしいものだと思う。まして、「人殺しと言われるのがそんなに嫌なのか」というのは単なる見込み違いだ。