極限ボートの現実主義

2007-04-12
 私ならまず、この病人を海に落とすことに反対し、同乗者の説得を試みます。理由は、この状況でより生存率を下げるのは病気ではなく恐慌だからです。別稿の「平等とは」という観点からではなく、「この状況で少しでも自分の生存率を下げないなら」という観点から考えました。


1.感染と発症は別物です。
2.感染力と致死率も別物です。
3.潜伏期間の長短によって異なります。


 この人の病気が「感染力が極めて高く空気感染がほとんどであり」「潜伏期間が短く」「感染すれば必ず発症し」「発症すれば自然治癒は望めず致死率も極めて高い」というものであってはじめて、この「極限ボート」問答は成り立つわけです。たとえば、「空気感染はしない」のであれば、水の回し飲みをしないなど、血液や体液などの接触感染に気をつければいいわけです。


 ところがもし、感染力が強く空気感染するほどの病気であり、かつ素人が見てもそれとわかるほど重篤な症状であり、潜伏期間も短く致死率も高いなら、このボートの同乗者は既に感染しております。そして、「救助がいつくるかわからない」とのこと。ですから、この人を海に落としても、もはや誰も助からない可能性が高い。この人を殺しても生存率は上がらないのであって、あとは時間の問題でしかありません。


 ならば、一縷の望みは「奇跡的に早期救助があって緊急治療が受けられる」ことしかないことになります。つまり、短時間で発見されてすぐに専門の治療を受けられる見込みがある場合にのみ、彼らの生存の望みがわずかでも生じることになります。ならばそれは、この病人も同じです。この人を海に落とすかどうかで、同乗者の生存率は左右されません。もう、感染しちゃってるんだから。


 ところが、何とこの問答には「医者は乗っていない」という前提があります。この前提によって「治せる人がいないから、みんな死ぬかもしれない」という恐怖心が煽られる設定になっているのです。しかしこの状況で医者は感染を防げるのでしょうか。空気感染しないなら、感染を防ぐ方法を教えることはできるかもしれませんが、その場合はこの病人を殺す必要はありません。しかし、問題はこの「医者はいない」という点にこそあります。医者もいないのに、はたしてこの人の病気がどのようなものか、いったい、誰が知りえることができたのでしょう。そのような病気だと「確認されました」というのは、誰がどのように確認したのでしょうか。そして更におかしなことに、それほどの危険かつ重篤な伝染病である人が、なぜか(おそらく一般の)客船に乗っていたというのも不思議な話です。


 つまり、この話は「パニック状態での妄想」である可能性が極めて高い。誰かが勝手に、苦しんで朦朧としている人を指して「もし変な恐ろしい伝染病だったらどうしよう」と取り乱して言い放った虚言であるとも考えられます。ですので、言い出した人に確認すれば済みます。何よりも、以上のようなことをしてみんなのパニック状態を沈静させる必要があります。そうしないと、パニック状態が次々と暴力を派生させ、ちょっと咳をしたとか熱を出したとか具合が悪くなったとかでも(漂流中に体調を崩す人くらいいくらでもでるだろうに)、次々にそうした人を海に突き落とす事態になるわけで、そうなると救助が来る前に殺し合いが起きて自滅してしまいます。


 この状況で真に怖いのは病気の感染ではなく恐慌の感染です。より多くの人の生存率を下げてしまうのは、この人の病気ではなく、恐慌が生み出す殺戮なのです。もし本当にこの人の病気が上記のような悪性の伝染病であったとしても、それが事実なら既に誰もが条件は同じです。ならば、他の人が咳をしたとか熱が出たくらいで海に捨てるよりは、寝かしておいて死ぬのを待ったほうが良い。死んで海に流すなら誰を責める話でもないでしょう。それより、気を落ち着けて、ともかく誰も殺さずに救助を待ったほうが良い。みんなで殺し合いをするよりは、そのほうが少しでも生存率が上がるはずです。自分も病死するかもしれないことを覚悟して受け入れ、そのうえで殺し合いせずに静かに奇跡的な早期救助に一縷の望みを託す。病死しないでも餓死する可能性がもともとあるんですから、死を覚悟することは折込済みであったはずです。殺し合いをしている場合じゃないでしょう。もともとそれしか希望はないはず。


 この状況で「平等とは」「道義とは」を考える余裕などないはずですから、「この状況で少しでも自分の生存率を上げるなら」と考えるほかないと思います。しかしそこでは「自分さえ助かれば」という短絡はむしろ命取りになりやすい。「感染を理由に病人を殺すほかないとみんなが合意することは、みんなで殺し合いをすることを認めることであり、結果として誰も助からない。自分が少しでも助かりたければ、誰も殺さないという結論をみんなで確認するほかない。今ここにある状況は、それしかないはずだ」ということです。


 さて、ここで別の視点からこの問答を考えてみます。「一応この前提のとおり、そういう特殊な病気を既に発症しているのは事実だった」としてみましょう。多少の設定の無理は承知で「ある特別な事情で、一般客船で患者を移送中だった。特殊な部屋に隔離して他の乗客には極秘だったのだ」ということにしましょう。すると、この問答は、実は次のような問答になるはずです。


「沈没したこの船には、実はこのような病人が乗せられて搬送中でした。だから、救命ボートのどれかには、この患者が同乗している可能性があります。さてここで問題です。あなたは、漂流中のボートを救助するべきだと思いますか。それともこの船から脱出したボートがどこかに漂着する前に、どれも沈めるべきだと思いますか」。


 つまりこの問答は、むしろ「ボート内のこの状況にいる人のほうが、落ち着いて考えないと死ぬ可能性が高くなることに気付きやすいのではないか」と言えると思います。「もう感染しちゃったのか」と気付けば、次にどうしたほうが助かる確率が下がらないかを考えるほかない。病気そのものは既成事実なのですから受け入れるしかない。おそらく、それに気付けば実際は腹がすわると思います。逆に、「まだ感染していない人々の恐怖心を鎮めるほうが難しいかもしれない」と私は考えます。
映画『アウトブレイク』みたいですね(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル