「反石原的なもの」とは反動的な卑俗のことか

2007-04-09
 全く同意見。民主党はただ単に負けたというより、「次につながる負け方もできなかった」と見ている。どうも民主党は、このごろは社民党や変な応援団とくっついたりして、何を考えているんだろうと非常に疑問を感じる。あれで、本気で政権を取りに行く気があるんだろうか? あれよあれよというまに、かつての社会党のポジションに近づいて行っているのではないか。


 そりゃ現職は強いに決まっている。反対勢力がどうとかよりも、それなりに実績があって特別に不祥事でもない限り。だからどうしたって、今回の石原氏には勝てっこなかっただろうとも思う。だけど、左派でなくても「石原さんは、ちょっとねぇ」「石原さんは、やりすぎではないか」と思っている有権者だって、それなりに多いはずなんだ。たとえば、国旗国歌問題。「ヒノキミ闘争やってる先生たちや支持者には全く共感できない。しかし石原さんのやり方には、非常にキナ臭いものを感じるので反対だ」という人も、少なからずいるはずだと見える。だけど浅野陣営は、あろうことかそういう人たちに対してではなく、ヒノキミ闘争を支持している側の人たちを応援団につけてしまった。そして、こういうのも…



 永六輔氏と中山千夏氏のコンビと言えば、これです。
http://d.hatena.ne.jp/Mr_Rancelot/20061205/p1
 私自身は尊皇だけど、天皇制批判であるとか皇室批判であるとか、あってしかるべきだと考える。だからこの件についてはMr_Rancelotさんの意見に同意する。ただし私はここでそれを言いたいのではない。跡取りの兄の家に男子が生まれても、弟の家で先に生まれていた男子が「いらない子」になるわけないだろう。ある人の存在する意味は、そんなことにあるのではない。弟宮家に生まれた男子が皇位を継ぐのだろうが、後に東宮家に男子が生まれたなら、それがその子に移るまでのことだ。悠仁親王は、新たに皇位継承者になった従弟を年長の親族として見守ったり負担を肩代わりしたりする存在に変わるのであって、彼が「いらない子」になってしまうわけがない。跡取りではないからといって存在意義がなくなるはずもない。「跡取りでなければ、いる意味がない」という考え方をこそ批判するべきなのに、実際に「跡取りでなければ、いらない子」と言い切って笑っているのは、彼らではないか。


 安倍夫婦に子がいないことを嘲笑のタネにしている人を批判者の中に見るが、それと同じことがここにもある。生まれた赤ちゃんを、家柄を口実に「いらない子」にして笑いものにしているのは誰か。「子もいないくせに、家族の大切さなどと」と失笑したり、「本家に男の子が生まれれば、おまえなんかいらな〜い」と投げ捨てて爆笑しているのは誰か。左翼だろ? 「家族イデオロギーを批判する」と称して、子宝に恵まれない人を嗤う。「天皇制の家父長制を批判する」と称して、跡取り息子であるかないかだけで存在意義を口にする。その政治思想が凝り固まれば、こうやって子がいないことを嗤ったり、いらない子だと嘲ったりしてすることも後ろめたさがなくなる。それが正義にさえなる。子がいないことや跡取り息子ではなくなることを、何の引け目もなく嘲笑するのは、実際には左翼であるという現実がある。


 左派の全てがそうだなんて言わない。しかも私はこの件について、とくに腹も立たなかった。あまりにも低俗愚劣なので、とくに取り上げて論じる必要すら感じなかった。別に、永氏と中山氏らがこのような芝居を演じていたところで、好きにすればいい。左翼左派の論には他にもいくらでも見るべきものは多い。だから、今回もこの芝居の件を論じたいのではない。かような人々を応援団につけて嬉々としていた反石原陣営のことを言っているのである。石原再選によって左派の反省を…という意見が見られるから、あえてこの件を出したのである。浅野陣営は福祉を連呼したが、どの口で「福祉、福祉」と言うのだろう。あなた方のいう福祉とは、子宝に恵まれない人を嗤ったり、跡取り息子であるかないかで「いる、いらない」と決め付けて嘲ることを、福祉と言うのか。自分たちの政治思想や制度思想に敵する存在だとみなせば、そんなことで笑うことも正当化することが、あなた方のいう「反石原的なもの」なのか。


 いったい、どういう了見なのだろう。これでは、得られる票も得られまい。期待できたはずの石原批判票の中で、棄権した人は多かったろう。「石原さんに批判票を示したいから、あえて浅野さんに票を入れた」という人もいたかもしれないが、その人たちも次回、石原氏が出馬せず他の穏健保守の人が立候補したら、そちらに流れるだろう。もちろん、その人たちの票がどれほどあるのかはわからないし、有権者の多くはこうしたことをもっとも重視しているわけでもないだろうから、その人たちの票が上積みされたって今回の浅野氏は石原氏には勝てなかったろうとは思う。


 しかし、「次を見越す」ということが大事なのではないだろうか。石原氏が次回も出るなら4選を目指すということになり多選を嫌う票も期待できる。石原氏が出ないなら、全くの新人と争うことになる。「前回でそれなりに、ノンポリの保守層だが石原都政には批判的だという人に広く訴えかけることに成功していた候補」であれば、かなり有利にはなるだろう。いや、浅野氏でなくてもよい、民主党が支持する候補がそのように善戦しておれば、同党への好ましさ頼もしさというのは上がるはずである。


 しかし、かようなものが声高な「反石原的なもの」を代表している現状では、「石原的なもの」に是々非々であるほうが「反石原的なもの」であるよりずっと望ましいと人々に思われて当然である。「石原的なもの」は実はリトマス試験紙にすぎず、そこに染め上げられて強酸性を示している「反石原的なもの」は、どんどん見放されていくはずである。私はそう考える。