我をば何地に具して行かんとするぞ

 沖縄戦の語り継ぎ方として、(表面的な政治思想的なことではなく根っこの情感としては)尚古右派的なものも進歩左派的なものも、どちらも必要であると思います。ただし左派の語り口は「時を得て奢りを生じた」と思わざるを得ないものも多いです。右派的な語り口は白眼視にさらされながら、時に人目をはばかって押し殺すような呻くような、そういったものも掬い上げてはきたわけですが、左派的な語り口は非常に言いやすいから好きなだけ言えてしまったという面はあるだろうな、と。


 ただしそれについては先のエントリのコメント欄で、たんおさん宛てに書いたレスの一部をここに再掲しますが、今はまだ、現に多くの遺族の方々の巨大な恨みが残って、かつそれが政治利用的に増幅されているという一面がありますから、いたしかたないとは思います。私はその状況があることについて、戦後の誰を責めるでもないと思います。個々の言論の当否ではないですよ、そういう当否の論はもちろんあってしかるべきものです。だけど、この状況を到来させたのは誰彼のせいだ、誰彼が悪いからこうなっちゃったんだ、そう軽々しく言えないじゃないか、と。戦前の戦犯探しに輪をかけて戦後の戦犯探しでは、魔女狩りが続くみたいな話でしょう。


 直裁に言うと、これが敗戦国なんだ、と。でも、戦勝国では戦勝ゆえに掻き消されてしまいがちなものがある。敗戦国だからこそ声を大にして言える、ということもある。戦の勝敗は厳たる事実であって今さらに覆せない以上、敗戦国ならではの情のあれこれの中から、今後ということを考えていっていいんだと考えます。


 そして今は、まだ数十年しかたっておらず、そして先の戦争についての語りも現在の政治とあまりにも直結しています。当然ですが。すると、どうしても右派的なもの左派的なものというのは、ずばり政治を論じて対決調にならざるを得ない趨勢があります。これも仕方ないな、と私は最近、思うようになりました。


 風化して誰も口にしなくなるのはしのびない。少しでも多くの人々の間で語り伝えられていってほしい。だけど、あまりにも大きな悲史ですので、一人の人間があれもこれもと語り口は持てないと思うんですよね。だから、自分が語り得る語り方というものには限りがある。自分が語り得ない、拾い上げられなかった語り口は他の人の口にまかせる。私は、そのように考えています。もちろん左右ともに変な語り方はあるし、変なものは変だと言っていいわけですから。


 思うに、語り伝えられるためには言葉に力がないといけない。そのように語り伝えられる言葉には、人間の情実の真をとらえたものがある。しかしそういう言葉は、手前の小さな頭を捻り回して出てくるとは思えない。そういうものは、おそらく天才的な個人が独創で練り出すのではなく、多くの人々の語り伝えがひとつの物語へと収斂していくようなことだと思うんです。


 たとえば平家物語のような。あれは必ずしも史実とは言えないものも含んでの物語ですが、こまごまとした史実以上の人間の真実味があります。源氏と平家の攻防戦を、たぶん直後の数十年くらいの間は、まだどちらが正しかったどちらが悪かったというような当時の政治と直結した語りだったと思う。それが次第に、平家の政治も源氏の政治も過去のものとなっていく中で、人間模様としてのどうにもならない悲喜や美醜や賢愚や勇怯や、そういったものが語り伝えられていく。源氏や平家の人々に託して。たとえば、安徳帝やその祖母である二位局(にゐのつぼね)こと平時子に託して。

二位殿は日頃より思ひ設け給へる事なれば、鈍色(にぶいろ)の二つ衣被(かつ)ぎ、練り袴のそば高く取り、神璽(しんじ)を脇に挟み、宝剣を腰にさし、主上を抱き参じて、「我は女なれども、敵の手には掛かるまじ。主上の御供に参るなり。御志思ひ給はん人々は、急ぎ続き給へや」とて、静々と舷(ふなばた)へぞ歩み出でられける。主上、今年は八歳にぞ成らせおはします。御身のほどより遥かにねびさせ給ひて、御形いつくしう、あたかも照り輝くおもとなり。御髪黒う、ゆらゆらと、御背中過ぎさせ給ひけり。


主上、あきれたる御ありさまにて「尼ぜ、我をば何地(いづち)へ具して行かんとするぞ」と仰せければ、二位殿、いとけなき君に向かひ参らせ、涙をはらはらと流いて「君はいまだ知ろしめされさぶらはずや、先世の十善戒業の御力によりて、いま万乗の主とは生まれさせ給へども、悪縁に引かれて、御運すでに尽きさせ給ひさぶらひぬ。まづ東に向かはせ給ひて、伊勢大神宮に御いとま申させおはしまし、その後、西に向かはせ給ひて、西方浄土の来迎に預からんと誓はせおはしまして、御念仏さぶらふべし。この国は粟辺散土(そくへんさんど)と申して、もの憂き境にてさぶらふ。あの波の下にこそ、極楽浄土とて、めでたき都のさぶらふ。それへ具して参らせ給ふぞ」と、様々に慰め参らせしかば、山鳩色の御衣に、鬢面(びんづら)結はせ給ひて、御涙に溺れ、小さう美しき御手を合はせ、まづ東に向かはせ給ひて伊勢大神宮正八幡宮に御いとま申させおはしまし、その後に西に向かはせ給ひて、御念仏有りしかば、二位殿やがて抱き参らせて「波の底にも、都のさぶらふぞ」と慰め参らせて、千尋の底に沈み給ふ。


 これを私はここで、サイパンと言わず沖縄と言わず、落命されたすべての無数の「安徳帝」および係累の方々にこの一節を捧げて、ここにあらためて追悼のお祈りを申し上げたいと思います。


 沖縄戦はじめ先の大戦のことは、まして武人どうしのみの盛衰記ではないわけで、これが後世の人々の心をとらえて離さないようなものになるには、なおさらに長い年月を経ることになるのでしょう。私たちの目の黒いうちには出てこないかもしれない。だから私にできることは、自分の語り得る語り方を折に触れて、さしあたって声の届く人に語るほかないだろうなと、そう思っています。


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本稿は、バジル二世さん、たんおさん、id:fuku33さん、id:kikori2660さんからお寄せいただいたコメントやTBを主に、そしてid:mojimojiさん、id:inumashさん、id:noraneko7さん、id:kechackさん(およびその※欄のtasoiさん)のご意見やそれへの他の人のコメント等を拝見しながら、思い浮かべたところを述べたものです。