人民の、人民による、人民のための同調圧力(1)

 私はちょっと尚武なところがあって(本人はフニャフニャしてるんですが)、国防というものも非常に大事だと思っている。私の中では、医療・看護・介護・教育・治安・防災・国防という職務については尊びたい気持ちがある。そんな私だけど、たとえば非武装中立論とか反軍思想などについて、一笑に付すかといえばそうでもない。今回はinumashさんから送られたTBを読んで触発されたことをもとに、kechackさんによる「同調圧力」への問題提起にあらためて添ってみたいと思う。


自殺を強制したにせよしなかったにせよ、軍隊が「その国の国民を守らなかった」ことは事実。 - 想像力はベッドルームと路上から
 これは反軍思想なんだろうけれども、inumashさんの思想の中でどうなってるのかよくわからないので、直接的にどの箇所がどうという言及は避けたいと思う。とりあえず、ダダッとラフなスケッチからはじめたい。


 まず、既にコメントが入っているように、守らなかったのと守れなかったのとは違う。そしてinumashさんはここで世界史大のことを述べて「軍隊とは」と言っている訳で、そのスケールで事実としていうなら、守らなかったことも守ったこともあるというのが事実だろう。守ろうとして守れなかったか、守ろうともしなかったか、それもどちらの事実もあるわけである。守ろうとして守りきれず滅ぼされてしまった国家や文明は世界史の中で数知れず。したがって、今とりたてて滅びるかもしれない差し迫った状況にない日本という国の中で、自由と権利を謳歌しながらこの種の反軍を語っても、気分だけとのそしりを免れまい。


 もちろん、武人個々人の「守りたい、守ろう」という意志や行動の有無ではなく、軍隊という組織の本質を総体として言っているというスタンスもあるだろう。ただしinumashさんがどうなのか、このエントリしか読んでないので不明である。また、inumashさんはリベラルを自称しておられるが、近代市民社会におけるリベラルは反軍思想とは相容れまい。ひとまずそこからアプローチしてみる。


 西洋史を振り返ってみよう。近代国民国家というものが、それまでの絶対王政の国家に替わって成立する際、軍隊というものは不可欠であったし、その性質も大きく変わった。それまでの国家は王朝国家であり、その軍隊も王朝を守る軍隊である。傭兵であったことも多い。要するにそれまでの西洋諸国においては、領土領民は領主の私有物との考え方であった。したがって王家の軍隊も王家の私兵である。近代国民国家は、とりわけ市民革命などを経て成立した国家は、王家の私兵に対抗するため、あるいは革命に武力介入する近隣諸国の王家の軍隊に対抗するため、国民軍という理念のもとで編成した軍隊を必須のものとした。


 近代国民国家の軍隊とは、基本的にそのような成立事情の延長線上にある。以上のことからすると理想的な軍隊ではないかと思われる方々もいるかもしれない。しかし、徴兵制による国民皆兵を義務付け、国民をして国防意識を高めることになるが、それはそうでないと反革命勢力および敵対する異国の攻撃を防げないからである。その結果、国内の同胞にも反革命勢力であるとの認識から国民軍が攻撃することも多発した。フランス革命におけるヴァンデ村の虐殺事件や、ロシアにおける赤色テロなど、すでに初期からこの問題は深刻な一面をのぞかせる。すなわち、政府とそれを支えるマジョリティの軍隊が、マイノリティの同胞に牙をむくのである、自由平等の名において。


 もちろん初期の市民思想やその後の共産主義思想の反省のうえに今日があるわけで、同じことがすぐに起きるというわけではない。しかし、「国家というものを国民全員が作るんである、自由や権利を国家が保証するというのは国民の政府に保証させて国民みんなが相互承認するものなんである」という基礎は変わっていない。したがって、現代日本の左翼はしばしば「国家=政府」として国家を敵視する語り方をしたがるけれども、これについて保守派が「左翼はわかっていない」というわけだ。ただし、わかっていない左翼もわかっている左翼もいるというのが実情だろう。この「国家=政府」という単純化そのものは共産主義思想の遺物であるが、それも含めて。


 共産主義の革命思想においては、国民国家ブルジョア市民国家と位置づけてプロレタリアート階級の敵としてとらえた。そこに「国家=現体制=我々の敵」という図式ができるのである。共産主義国家が成就すれば晴れて「国家=我々の共同体」となる算段であった。その算段は成就しなかったけれども、これを同じく共同体主義的な右翼の国家観と比べてみると違いが鮮明であろう。旧来の右翼の国家観は民族文化的な紐帯を何より尊んでいたから、浪漫主義なのである。そこでは近代国民国家のもつ「全国民を自動的かつ半強制的に構成員として義務を課し権利を授ける体制である」という面が見落とされることが多かった。


 その点では確かに左翼が見つめたところの近代国民国家という体制は、浪漫主義的な右翼が想起する国家観では捉えきれない実態があり、それを左翼は把握していたわけである。そして彼らは国民概念を乗り越えるはずであった。国境によって区切られた紐帯ではなく、国境を横断した階級によって区切られた紐帯を考えた。しかし実際に革命によって共産主義国家を成立させるべきものとする以上、そのようにして誕生した国家は国民国家以上の強制参加型国家として現出することになる。


 「階級的紐帯の敵」となるものを国内外に求めてこれを殲滅せんとする体制になった。左の全体主義である。そして名は同じ右翼といっても、共産主義の国家観に学びつつ反共運動の旗手として台頭したのが国家社会主義、すなわち右の全体主義である。共産主義が、浪漫主義的な民族的紐帯心なども格好の「階級的紐帯の敵」としたことに対抗することとなる。ここでは国境内部の民族的紐帯が更に強調されると同時に、「民族的紐帯の敵」となるものを国内外に求めることとなった。超近代としての全体主義が左からも右からもやってきた歴史的経緯は、ざっとこのようなものと言えよう。


 ここで、kechackさんの問題提起に移ってみたい。kechackさんはこれを、いじめの問題にも通じるものとして考えているようだ。私はここで、「同胞に対し国防上、命をかけることを要請する同調圧力」についてのみ取り上げていこうと思う。kechackさんの今回の問題提起には、私が見たところ、近代日本におけるそれと、人間社会全般におけるものとが混ざっている。どちらも問題提起として重要だと思うので、次の稿で引き続き私見を述べてみたいと思う。