お返事

 昨日のエントリ「空気」を気にする日本人の精神主義的教育論 - Backlash to 1984のブクマにいただいたコメントの中から、疑問意見あたりにお答えしたと思います。

(mahalさん)
基本的には、自決手段を与えたことについて「戦陣訓の民間人への不法な適用」だったのか「アメリカ兵が民間人に暴虐を尽くすと考えたため」かの意図なんてのは記録に残るものではなく、歴史の闇の中なのかなぁ。


うーん、意図ですか。手榴弾を与えた意図はおおむね「いざというときは、これで」だったと思うのですよ。つまり意図を問うなら「アメリカ兵が民間人に暴虐を尽くすと考えたため」ということ。だからこそ、住民も「あぁ、いざというときはコレを使えってことか」と受け止めたわけでしょう。もっとも「意図はどうあれ」として、「戦陣訓の民間人への不法な適用と解釈すべき性質のものではないか」というのであれば、それはひとつの史評ということになるんじゃないでしょうか。


ただし東条英機の戦陣訓は法じゃないので不法もへったくれもないので、法でなくとも東條に巨大な精神的カリスマがあれば別ですが、たいしてありません。ですから、そこに書いてあることが切実に感じられる戦況が事実として眼前になければ、心理効果などたかがしれていたんじゃないでしょうか。「戦陣訓なぞがあったばかりに…」というのは、戦後の歴史評論家が誇大に言い過ぎのように私は思えます。作家さんは生業からして書かれたものにものすごくこだわるというのはわかるんですが、でもそれは平時の机上の上でのことでしょう。


まして、仮に戦陣訓という東條の言葉に心酔していた軍人がいたとして、艦砲射撃や火炎放射の中で、「これは本来は民間人向けではないが、是非ともここで東條さんの言葉を伝えて守らせたい」だなんて、ちょっと考えられません。というか、軍紀も崩壊するような凄惨な戦線において、紙に書いてあることの拘束力など、誇大に考えるほうが不自然だとしか思えないのですがどうでしょう。

(mescalitoさん)
ただ「扶桑社の歴史教科書沖縄戦の記述たった64文字」の厳しい現実に比べればこんな問題ミミズみたいなものにみえてくるけどね。


へぇ、そうなんですか。あれかなぁ、「わたくし岡崎、反米の部分はバッサリ切らせていただきました」と関連あるかな。でもなんにせよ2006年の採択率は0.4パーセントで「厳しい現実だ」というのが、つくる会の声だったと思う。

(yuubokuさん)
(*前半省略)/ただし最後の「子どもには残酷に過ぎる」の部分は留保が必要かも。
(kmiura さん)
グリム童話とかって残酷なんだよなあ。


お二方がそれぞれ別のことを言われているかもしれないとは思いつつ。少し語弊があったかもしれません。私も、一般論で言えば、「子供には残酷なものを見せるな」式の見解にはあまり頷けません。童話とか民話とか、残酷なものも多いが、昨今やたらと甘々な内容に改変されたりして、あれはかえって良くないと思っています。


ただし童話や民話における残酷さは、メルヘンとかファンタジーというものにくるまれてもおりますよね。その中に、残酷なものがヌッと出てくる。おぞましさ、こわさ、うらめしさ、やりばのない哀しさ…。それはもちろんそれでこそいい。


しかし戦争の凄惨な実話というのは(集団自決などはまさにそれでしょう)、ファンタジーではくるめない…というか、ファンタジーでくるんでしまってはいけない、と思うのです。「ひどい日本兵が、泣く赤ちゃんを…」みたいな語り口は、ある種、その兵士を悪魔と見立てたファンタジーではないかということです。それが実話であれば、実際のその場はもっともっと筆舌に尽くしがたい「誰もが死にたくない、助かりたい中で、泣いた赤ちゃんが…」という状況であったわけで。


すると、年端も行かぬ子供には耐えられない、あるいは受け止めそこなう、そういうむきだしの暴力になってしまう恐れも大きいと考えるわけです。より直裁に言えば、トラウマになって教条的な反戦思想家になるんならまだしもいいのであって、妙な具合に殺戮に魅せられてしまう可能性も考えちゃいます(幼少時に暴力を見せつけられると、そのような心理防衛が働くこともあるわけです)。私が言った、成長を待って題材を選んでほしいというのは、そういう意味でした。