「空気」を気にする日本人の精神主義的教育論

 歴史教科書における沖縄戦の記述をめぐる検定意見に、またぞろ感情的な反発が起きているようだ。一般人に対して自決するよう軍命令が出ていたわけではないが多数の集団自決があったことは史実であって、それを誤解させないように記すべしとの意見が、なぜに「旧軍の関与を否定した」ことになるのか。このような主張は、それこそ、「集団自決せよとの軍命令があってはじめて旧軍がそれに関与したと言えるのであって、そのような命令がなかったのであれば、住民の集団自決に軍の関与があったことにならない」と主張しているのと同じであろう。つまり右派がそんな馬鹿げた主張をしているのではなく、実は左派こそが主張しているのも同然ではないか。


命令もないのに人が自決したとしたら、その方が余程恐ろしいことではないか! - Munchener Brucke
 題名のとおり、そのとおりである。「命令もないのに人が自決したとしたら、その方が余程恐ろしいことではないか!」…そう、その「よほど恐ろしいこと」が沖縄で起ったことの実態であろうに。

今回の検定の論点は「集団自決に軍の正式な命令はなかった」という点だが、命令系統の正当性を争って旧軍の責任を最小化する運動にどのような意味があるのか?


 いや、そのような論点にしてしまいたがっている安直な検定批判が多いというだけであって、ほんとうの論点は、出された教科書の記述が児童が学ぶ教科書として「沖縄戦の実態を誤解させる恐れがある」というものであるかどうかを論じるべきだろう。これについては、末尾で触れたい。

 私はいっそのこと軍の命令であってくれた方がよほどすっきりする。それならばそんな非道な命令を下すような軍隊を今後作らなければいいという明確な反省ができる。


 そう、戦後の反戦平和教育とやらをひとことで言えば、まさにそのようなものであったろう。コメント欄でnoraneko7さんが言及する艦砲射撃に加え、火炎放射器というものも思い浮かべてみると良いのではないか。NHKの『映像の20世紀』の中で当時の米国側の記録映像を目にする機会があったが、人が隠れていそうな野を、洞窟を、火炎放射によって焼き払っていく映像を見て、沖縄で何があったか、その一端を見せつけられたことがある。


火炎放射器 - Wikipedia

アメリカ軍は、火炎放射器が太平洋戦域で旧日本軍が構築した網の目のような塹壕を掃討するのに特に役立つことに気がついた。深い洞窟や塹壕においては、炎自体が敵兵にとどかなくても、爆発的な酸素消費、煙や排気ガスによる窒息効果で敵を掃討することができたからである。アメリカ軍は硫黄島の戦いや沖縄戦などで頻繁に使用した。((中略))敵兵の立て篭もる洞窟や地下陣地をまず火炎放射器で焼き払い、その後に入り口を爆破する戦法をアメリ海兵隊では「トーチランプ&栓抜き戦法(torchlamp&corkscrew)」と呼び、特に沖縄戦で多用した。


 敵兵つまり日本兵が立て篭もっている洞窟というが、外から「中に誰かいますか?兵士ですか民間人ですか?」などと呼びかけたりしはしまい。兵士ではなく住民が息を潜めて立て篭もっている洞窟も多かっただろう。焼き殺された(あるいは窒息死した)住民も多かったに違いない。したがって、人口に膾炙したあの逸話…赤ちゃんが泣き出したときに兵士が殺したのを洞窟内にいた人たちみんなが黙って見ているほかなかったという話も、実話であれば、こういう状況下で起った悲劇だということを直視せねばならない。「あぁ、鬼のような日本兵!おそろしい!」「あぁ、日本人の同調圧力!そしてそれに洗脳された可哀想な沖縄の人たち!」という話になるのかどうか。


 錯乱もしくは狂乱状態になった日本兵が、猜疑心から住民を殺してしまった例も少なからずあったと私は思う。あるいはもっと多かったであろうことは、手榴弾を手渡して「いざというときはこれで…」と言った場合である。事実、もう逃げられないと絶望した住民の中では、「いっそひとおもいに、みんなで死のう」という心理状態になったことも多かったに違いない。いわば、戦場における一家心中である。無理心中のケースもあっただろう。わずかばかりの手榴弾を手渡したということは、たったその程度の武器しか与えなかったということではなく、既に当時を振り返って多くの人が語っているように、一家心中できるものを事前に手渡していたということだ。どのような戦場になるか、軍人も民間人も最悪の状況を想像できたから、そのような行為が起ったわけであろう。


 教育の影響がどうのこうのというけれども、それは余裕ある平時において語りえることではないか。だいたいが、学校で教わった思想など、極限の状況下でどれほどの影響があるというのだろう。そもそも、そうやって教育の影響を過大視する人こそが、戦時教育の影響ばかりを問題にするのではないだろうか。そして戦後主流の平和教育に狂奔する。戦前の戦時教育は人を悪魔に変え戦後の平和教育では人を天使に変えられるかのように、教育こそが人間を悪にも善にもできる、教育によって人々の行動を決定的に変更可能だと思い込んでいるのではないか。それこそが、精神主義的な教育論なのに。


 しかし、「もはや死ぬしかない」「辱めをうけたり苦しんだりして死にたくはない」「どうせみんな死ぬんだったら、せめて一緒に死にたい、バラバラになりたくない」…こういった心理状態に追い込まれた人たちが集団で自殺することは、はたして戦時下の日本でだけ起ったことなのだろうか。また、平時においても日本だけで起こりうる特異な事例なのだろうか。


 そうではなかろう。あるブログでバンザイクリフの話も出ていたが、私はあの話を聞くと、百済滅亡の逸話を思い出す。「百済 落花岩」でググってみていただきたい。また、玉砕戦と聞くと「テルモピュライ(テルモピレー)の戦い」を思い出す。日本兵のバンザイアタックなどと欧米人は人種的偏見で言うけれども、自分達だってスパルタの玉砕を高く、そして涙ながらに賞賛してきたのが史実ではないか。そして、篭城戦となった戦場で投降や退却を許さなかったといえば、スターリングラード攻防戦におけるソ連の戦法も思い起こされる。百済ギリシャソ連皇民化教育が行われ戦陣訓が読まれていたのだろうか?…このような話は、世界史にはいろいろあるとしか私は言えない。


 だからして戦争であれば仕方ない…に終わるのではなく、だからこそ戦争とはかくも悲惨なものなので(死者を悼んだり称えたりするのとは別に)、やはり戦争を起さないように、起されないように常に努力していくほかないじゃないかと、そのように反戦を説くべきではないのか。なにもかも旧軍の責任だったということにしてみたり、なんともよくわかない民族性の空気のせいにしてみたり、それで何か反戦ということになるのだとしたら、それこそ空気だけの反省気分、反戦気分であろう。


 直接に沖縄戦のことではないが、こうした「精神論を批判しているつもりの精神論」「空気の問題にしたがる空気」について、歴史事実と歴史認識 | 不思議の国ニッポンのコメント欄、告天子(ひばり)さんの論に私は極めて同感である。

「精神が歪んだからだ、軍人精神の崩壊が戦陣訓を生んだのだ」というのは、原因を「精神」に求めるもので、私はどちらかというと原因は物的・状況的側面に求めて説明すべきだという考えから「貧乏が原因」と書きました。司馬・山本の論は、逆精神論といいますか、「精神論だったからダメだ」というマイナスの精神論としては分かりますが、結局のところ「精神に原因を求める」ものではないか、という辺りに、個人的には不満を持っています。

いわゆる「空気が悪かった」では、じゃあ空気ってなんだ、という判じ物みたいな話にしかならんのではないかと。何となく分かったような気持ちにはなるが、それは別の「空気」を生み出すだけで、どこの何がどのように悪かったのかを、明白に認識させるような話ではない。


さて、要は修正意見についての賛否ではないのか。検定前の記述がどうであって、それについてどのような修正意見が出て、どちらが妥当と言えるかどうかであるはずだろう。
教科書検定での「集団自決」に関するマスコミ報道のまとめ - 愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt)

「日本軍は(中略)くばった手りゅう弾で集団自害と殺しあいをさせ」と記述した教科書には「沖縄戦の実態について誤解するおそれのある表現」と検定意見で修正を求めた。

 現時点で報じられているものを読む限り、私は今件の文部科学省の検定意見を、極めて妥当なものと解する。もし行政の責任をここで論じるのであれば、論じるべきは旧軍という消滅した機関の亡霊のような責任論ではなく、現存する文部科学省や教科書会社の教育行政上の責任ではないのか。史実と異なる表記をしたり、学ぶ児童が誤解するような表現をしたり、それを事なかれ主義で黙認したりするようでは、とてもではないが、大人の子供への責任を果たしていると言えないはずだ。


 なお、私はここでもう一つ付け加えたい。子供にはそれぞれ発達段階と言うものがある。昨年のことであるが、小5の長男が学校で聞いてきた話として、例の「洞窟の中で日本兵が赤ちゃんを…」を口にして、非常に暗い顔をしている。昔の日本は悪魔の支配する国だったかのような認識であった。そこで私は特に何も言わず、先述のNHKの記録映像を見せた。長男は「うわっ!!」と言って目を伏せた。私は、「こういう中で起きたことだ。隠れている洞窟の中で赤ちゃんが泣き出した。見つかってみんな焼き殺されるかも知れないと誰もが思ったろう。かくまった人たちを守る役目の兵隊は、その子のお母さんは、ほかのみんなは、そこでどう思ったろうね。そういうことが、沖縄で起きたんだよ」とだけ、言っておいた。


 正直、子供に見たり聞かせたりするには残酷すぎる話なのである。教育者が自身の反戦思想を教壇で語っても良いとは思うが、その年齢の子供が受け止めることができる題材かどうかくらい、きちんと見極めていただきたい。歴史を学ぶということは、時にこのような、目をそむけたくなるような話をも見つめることなのであるが、年端も行かぬ子に思想を説き伏せるだけのために、人間のどうしようもなく救われないむごい話をつきつけることには、私は反対である。とくに教えておきたいことであっても、まだ早いということも多い。成長を待つ、それも教育の大事な観点であるはずだ。