正気と狂気の道徳論

 教育再生会議から出てくる話はつまらないが、それを扱った話にはおもしろいものが多い。このたび、二つのエントリを見ながら、ぼんやり思ったことを書いてみたい。


http://d.hatena.ne.jp/Mr_Rancelot/20070330/p1

僕は教育問題しか語らない政治家を信用しない。教育問題は、往々にしてイデオロギー論争になりやすく、しかも答えは出ない。


 信用するしないは個人の信条だからひとまずさておき、近代国民国家の学校教育というものは国政と不可分のものだから、教育畑専門の代議士が議会内に存在することは当然だし必要なのではないだろうか…と、歴史的経緯を思い浮かべつつ私も考えてみた。

もちろん教育問題は重要ではあるが、それはシステムの問題である。費用対効果の問題であり、統治の問題である。心の問題ではない。


 私もそう思う。もっとも、(小選挙区など)狭い地域の代表として選出される代議士の場合、教育のことしか語らないというのでは票にならないことは既に明らかであり、もっぱら教育問題にのみ熱心な代議士は、より広域の比例区とか参院とかで選出されることが多いと思う。つまり、教育行政も国政の一大事であるのに、地域密着型の教育専門の政治家は、なかなか育たないのが実情ではないだろうか。


 「往々にしてイデオロギー論争になりやすく」というのも、近代の学制は国政と不可分だったからというところから導出されると思う。すると、教育論争をイデオロギー闘争から遠ざけるためには、どうすればいいだろうか。極端に言えば「国政は学校教育から撤退せよ」ということになるだろうが、それも目下は暴論になってしまう。


 そこで現行の教育制度の骨組みを維持するなら、「国政運営上の国家理念を明確化して、それに反するものは少なくとも公教育では行わない」とする一元化か、逆に「国家理念などは指導要領などで拘束せず、公教育における教師や生徒の多種多様な見解の自由な討議を、国政運営上に保障する」という多様化か、どちらかの管理運営方法しかあるまいと考える。ただしその場合もやはり、というかなおさら、教育畑専門の代議士議会内には欠かせまいと私は思う。


 そこであらためて、筆者の不信感に私も添ってみたい。「教育問題しか語らないから」というよりは、いみじくも筆者が指摘しているように「教育問題を制度問題ではなく、青少年の心の問題としてばかり捉えているから」ではないのだろうか。「教育問題の専門家として議会に出ているのに、自身のイデオロギーや国家観を教育現場に実現させることしか考えていないため、制度論として何の解決策も提示できず、精神論に陥ったり政争にあけくれているだけだから」ということになろうかと思う。


 ある政治家が教育問題しか語らない専門家であっても、それならそれでいいのだ。ただし信用できるかどうかは、その政治家がどこまで教育行政の専門家たりえているかにかかってくると(私の場合は)思う。精神論や政争などではなく、たとえば科学技術立国であるのに現状の科学教育はどうしたことかという問題は常に話題に上がってくるが、国政にそれが反映されるような実りある議論が国会で見られないのが残念なことだ。


 次に、道徳教育の箇所であるが、これについてはまず2007-03-30をご覧いただければと思う。そのうえで私が思うに、例えば『論語』などにみる古来の道徳であれ、あるいは近代社会で必要とされる自由や権利についての公概念であれ、守るべき規範というものがあり、なぜ人々がそれを守るべきなのかというものが確かにあるわけである。ならばuumin3さんの言われるように、やはり論じるべきは道徳・公民教育の「内容」の問題であり、こうした教育の「可能性」もまた、あるわけである。以上をふまえてMr_Rancelotさんの記事に戻るが、

道徳とは規範であり規範はすべて狂気である。狂気を道徳として流通させるには、強制力が必要である。強制的に価値観を押し付けることが不道徳であるならば道徳は不道徳である。そのようなこんにゃく問答に何ゆえに国家が足を踏み入れるのか。


 私はこの箇所について、これは文学的・哲学的な主題であろうと感じた。ここで「文学的・哲学的」というのは揶揄ではない。ここでいう「狂気」は医学的・心理学的なそれではないという意味である。というのも、私は心を病んだことがあるから「狂気」が何であるかを身をもって体験したことがある。したがって「狂気」と言えばまさに精神病理を思い浮かべる。


 そこからすると、およそ規範というものは正気の沙汰である。むろん、狂気と言って過言ではない規範のありようも存在するが(全体主義体制下の規範など)、時代や地域の偏差を越えて道徳と呼べるほどのものは、長い年月の間に濾過された、多くの人々の正気の累積にほかならない。したがって、むしろMr_Rancelotさんのこの見解それ自体が、どちらかと言えば狂気に近い。しかしそれゆえにこそ、いくばくかの狂気をはらんだこの見地に、文学的・哲学的な何かを私は感じて、目を向けずにおれなかった。


 正気それ自体が静かな狂気を内包してはいないかとか、狂気の裏返しとしての正気ではないかとか、他人をして正気にさせようとする(そしてそれが可能であると思い込む)ものは一種の狂気ではないかとか、そのようなことになるのかもしれない。これが文学的・哲学的な主題であろうというのは、そうした理由である。


 ただし他者の正気を、自身の正気をもって深くえぐることはできるだろうか。私が思うに、見せかけの正気などではなく、まことに正気なものを外においてこれをえぐるためには、狂気を内に秘めねばなるまい。正気をあちら側にしてそれを見据えるためには、こちらは狂気でなくてはなるまい。もちろん、そこであちら側にするのは、己の正気も含めてのことになる。狂気から正気を見据えるのだ。


 しかしそうでもなく、自身は正気の中に身をおいて、多少の皮肉をこめて「規範はすべて狂気なり」と言ってみるということになると、それは皮肉の域を超えまいと思う。その場の思いつきだけで、「狂気」という言葉の外形の雰囲気でもって「ゆえに道徳こそ不道徳なり」と、ひっくり返して見せただけで終わってしまうようにも思う。そうであれば、なるほど「こんにゃく問答」であろう。


 さてそこで、引用した末尾の一行であるが、これが「こんにゃく問答」に終わるかどうかはさておき、この問いかけは目下のところ提唱者と賛同者にのみあるわけである。つまり、こうした主題に「何ゆえに国家が足を踏み入れるのか」と問うけれども(この場合の「国家」とは観念としての国家ではなく、国政を担う政治家や官僚といった人員を指すのであろうが)、実際には政治家も官僚も足を踏み入れてはいないのである。もちろん、政治家や官僚の中には、私的にこうしたことを文学的・哲学的に追求している人もいるかもしれない。が、教育問題の公的な政策審議の場で語るような話でもなく、また事実、語られてもいないだろう。


 「そう、当人たちは語ってもおらず考えてもいないだろうが、しかし足を踏み入れていることになるんだぞ」…というのであれば、そちらに展開した論であってほしいようにも思った。いづれ芥川龍之介の向かった先の話になるのではあるが。私?…私自身は、ちょっともう、あちらの世界はこりごりであるので、足を踏み入れたくはない。


■参考■

 道徳は便宜の異名である。「左側通行」と似たものである。
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 道徳の与へたる恩恵は時間と労力との節約である。道徳の与へる損害は完全なる良心の麻痺である。
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 妄(みだり)に道徳に反するものは経済の念に乏しいものである。妄に道徳に屈するものは臆病ものか怠けものである。
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 我我を支配する道徳は資本主義に毒された封建時代の道徳である。我我は殆ど損害の外に、何の恩恵にも浴していない。
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 強者は道徳を蹂躙するであらう。弱者は又道徳に愛撫されるであらう。道徳の迫害を受けるものは常に強弱の中間者である。
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 道徳は常に古着である。
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 良心は我我の口髭のやうに年齢と共に生ずるものではない。我我は良心を得る為にも若干の訓練を要するのである。
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 一国民の九割強は一生良心を持たぬものである。
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 我我の悲劇は年少の為、或は訓練の足りない為、まだ良心を捉へ得ぬ前に、破廉恥漢の非難を受けることである。
 我我の喜劇は年少の為、或は訓練の足りない為、破廉恥漢の非難を受けた後に、やつと良心を捉へることである。
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 良心とは厳粛なる趣味である。
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 良心は道徳を造るかも知れぬ。しかし道徳は未だ甞て、良心の良の字も造つたことはない。
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 良心もあらゆる趣味のやうに、病的なる愛好者を持っている。さう云ふ愛好者は十中八九、聡明なる貴族か富豪かである。


          芥川龍之介侏儒の言葉』より


 これが真理かどうか、これに賛同できるかどうかはここでは問題ではない。私が言いたかったのは、これは正気ではなく狂気だということなのである。