差蔑ではない差別

 「差別」という言葉はもともと、「区別」や「選別」の類義語であった。この用法は今でも「無差別大量殺人」等というときに残っている。ここでは選別しないという意味だ。「誰も蔑視せずに殺しまくる」という意味ではない。もともとは「差別する=蔑視する」ではなかった。昭和のはじめころの文章に「あらゆる主義も教義も差別せずに論じてしまって云々」という表現があるのを見れば、ここでは「区別せずに」とほぼ同義である。「分別なく味噌も糞も一緒に」のニュアンスも帯びているようでもある。いづれかの主義や教義を蔑視すべきなのに…という文意ではない。


 それが、いつの時代頃からかはわからないが「蔑む、卑しむ」と同義に使われるようになっている。おそらく戦後の平等教育で、「職業・出身・性別などによる差別をなくしましょう」というとき、それが「職業・出身・性別などで蔑んだり卑しんだりするのはやめましょう」というのと同義であったことと、深い関係があると思う。おそらく「差別なく=わけへだてなく」という語感もあったのではないか。戦後の教育では、この延長線上に「差別なく」が用いられはじめ、そこへ既存の男女観や部落問題などで蔑視というものが色濃くあったため、その払拭が重なったものと推測している。だから現代社会では、多くの人は「差別している」と聞くと「偏見をもって蔑視している」のだと思うことになるのではないだろうか。


http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20070317/p1


A「それこそ差別だ!」
B「差別していないのに、その言い方!
A「差別する人ほど差別していないと強弁する!」
B「そういう決め付けこそ差別じゃないか!」


…という応酬がある。するとこれは、


A「見下された!蔑まれた!偏見だ!」
B「見下してない!蔑んでない!偏見なんかじゃない!」
A「偏見で蔑んでいる人ほどそれを隠して言い張る!」
B「そういう決め付けこそ人を見下した言い方じゃないか!」


…という応酬になる。少なくとも、見ている人の多くはそのように見るだろうし、なによりBさんにとってはそうとしか思えない。ところが、現代で「差別」というときには、もうひとつ別な用法があるのだ。「不公平・不公正」である。と言っても、ただ単にある個人のある場面での人の扱いが、社会通念の中の公平さ公正さに照らして不公平・不公正だというのではない。ある人々に対する多くの人々の扱いが、世の中のならいによって、とくに不公平だとも不公正だとも思われないようなことが社会通念上まかりとおっている…そういうことが世の中の仕組みになってしまっている…それを「差別だ」という用法である。


 この場合、ひとまず個々人の内面の偏見や蔑視ではなく、世の中の仕組みの不公平を、問題にする。ある立場の人々が、その立場ゆえに、世の中の仕組みの中で常に損な役回り、いやな目に遭っても泣き寝入り…ということを余儀なくされるとする。「あぁ、気の毒だけど、○○なんだからそれはしょうがないんじゃない?」で済まされがちだとする。かような不公平がどのようにまかりとおるのか、そこに偏見や蔑視が根ざしていることも、もちろんある。しかし、その偏見や蔑視を人々がことごとく内面化しているとは限らない。


 「あぁ、自分はそういった偏見はその人たちに持ってないよ」「えぇっと、自分はその人たちを見下したり蔑んだりはしてないんだけどな。そういう眼差しは大嫌いだもん」…これが嘘ではなく、ほんとにそう思っている人も、それを偽り無い信念にしている人もいるだろう。だが、世の中の不公平な仕組みそのものは残っていて、それを訴えているのに「いやぁ、それは仕方ないじゃないか」と言うとすれば、それはどうなのだろう。ここに、先の例を再掲する。


A「それこそ差別だ!」
B「差別していないのに、その言い方!
A「差別する人ほど差別していないと強弁する!」
B「そういう決め付けこそ差別じゃないか!」


…という応酬がある。するとこれは、こうなるのである。


A「それだったら不公平はそのまま残ってしまう!」
B「偏見も蔑視もない相手に何てものの言い方を!気をつけろ!」
A「不公平に目をつぶる人ほど公平さを装った言い方をする!」
B「そういう決め付けこそ人を見下した言い方じゃないか!」


…どこで食い違っているか、おわかりになるだろうか。えてして、このような食い違った応酬が多いように私は思う。


 差をつけて蔑むから「差蔑」という。…嘘である。そんな言葉は無い。だから標題は私の造語であるが、おそらく現代では多くの人が、「差別」という言葉に「差蔑」の語感をもって用いていると思い、それを標題にした。