「人前」と「対人恐怖」の文化論 

http://d.hatena.ne.jp/fuuuuuuun/20070312/p1
 大変に興味深い題材だ。私も素人なりに考えてみた。
「対人恐怖症は日本に多い(固有だ)、なぜかといえば日本文化は恥の文化で…」
というのが、長い間、精神医学の場でも説かれてきたとのこと。これはいわゆる「日本特殊論」だと思う。「これは日本にしかない。そのわけは、日本の文化には云々」という日本人論での語られ方には、「ゆえに日本人の精神文化は素晴らしい」というのと「ゆえに日本人の精神文化には問題がある」というのと二様あって、これは後者に属するだろう。どうも、現代社会の病理の根源を伝統文化のせいにする…という臭いもあり。


 「対人恐怖症は日本に多いそうだ」として…実際はそうでもないようだが仮にそうだとして…それをして「日本は恥の文化だから云々」という推察について検討してみたい。


1.では、昔の日本人にも対人恐怖症は多かったのか。
2.では、外国には「恥じる」に類する意識が無いのか。
3.「恥じない」を尊ぶ文化圏があるとして、対人恐怖症に類する精神病理は起こらないと言えるのか。


 …こう考えてみた。3はちょっとわからないけど、1と2はちょっと考えただけでも「いやぁ、そんなことないだろう」と思う。何をもって恥じるかについては、お国柄の違いは出そうだけど、何にせよ「恥ずかしい…」みたいな意識はどこの国にもあるはずだろう。だから、より正確に言えば「対人恐怖症が現代日本に特有に多いのなら、それは現代社会独特の精神病理」なんじゃないかな。現代日本人の抱える、対人関係面での精神的困難さ…というものが予想されるのだけど。それが何かと言われても即答できないが、rajendraさんの、


甘えるなと言われたら - The best is yet to be.

鴎外も漱石もそいつを何とかしたくて、あれほどにもがき、懊悩したのだろう。近代人は自我に悩んでばっかりだ。

 ↑これが淵源にありそうだという気がする。西洋伝来の内向けの「近代的自我」意識と、伝統文化的な外向けの「身の立つ瀬」との乖離…とか。ここから考えてみよう。ルース・ベネディクトの『菊と刀』は名著だそうだが未読である。未読であるから直接に批評はできないけれども、盛んに指摘されていることを付記しておきたい。


1.西洋にも日本にも、罪の意識も恥の意識もある。
2.ただし西洋では、罪意識が宗教的戒律道徳にまで高められている。
3.ベネディクトはそれを良しとする立場で論じてしまっている面がある。


 ベネディクトに倣ったものか、「唯一絶対にして全能なる神の視線を意識することが行動規範になる西洋人のほうが、日本人より云々」「日本人は絶対的な規範が無いために常に対人間での相対評価を重視するから、他人の視線の無いところでは無軌道となり云々」と、しばしば目にする。それも一面の事実ではあるだろう。しかし逆に考えれば、敬虔なクリスチャンは「唯一絶対にして全能なる神」を自分の外部にあるものと信じて疑わないのだろうけれども、我々から見れば、それは彼らの内部にあるものだ。


 同じ唯一絶対神とその教えを信じている間柄であればこそ、自己の観念の中の神に誓って罪なしとすることも彼らの間では一定の客観性を保ちえる。が、彼らのその理屈は、同じ神を信じている者どうしの間でしか通用しまいと思う。彼らは、自身の言動を、彼らの心の内なる神観念に照らして正否を判断する。それがうまくいけば良いが、ともすれば独善を独善とも思わない言動にもなること、ことに異文化に対しての振舞い方にそれが多くの失敗を生んできたこと、それは歴史の証するところであろう。


 対して日本人は、「人前」を意識する。「人前に出して恥ずかしくない」「人前でするようなことか」などなど、人前ということを互いに意識しての言動である。ならば、自己の観念の中の神に誓って罪なしとする意識の持ちようよりは、他人という生々しい実在を前にして自身の言動を律しているのだから、よほどこちらのほうが実存的・合理的ではなかろうか。宗旨の有無異同は問題とはならない、人と人の間に、基準があるのである。思えば日本人のみならず、儒教にいう「仁」は「ひとがふたり」の字義であるし、仏教でいう「人間(じんかん)」とは人間世界のことである。広く東洋、ということかもしれない。その「人間」を人そのものの意味に転用して用い、「仁義」を必ずしも統治原理にのみ用いようとはしなかったところに、日本の特徴があると言えばあるのかもしれないが。


 さてそこで、「対人恐怖症は日本に多いそうだが、どうなのだろう」に戻る。どうやら似た症状は英米など西洋人にもあるそうである。やはりそうだろう、と思う。すると、問題は以下のように問い直せるのではなかろうか。「それを病的だと、世界で最初に意識化できたのは、日本人である。同じことがあっても、西洋人は病的だとも思えず、それどころかそのようなことがあるとも意識できなかった。それは、なぜか」と。


 その答えは、私としてはこうである。


「日本人は人前を気にするからですよ。人前を気にするから対人恐怖症になるのではありません。人前を気にしているから、気にしすぎて苦になっておかしくなったら、それにすぐに気づくんですよ、あれぇ自分はこのごろ変だな、と」
 そして、こうも思う。西洋人だって人前を気にしていないはずはない。ただし人前を気にしている自分になかなか気付かないのではないか。だから人前で変になっていることを「病的だな」と思えなかったのではないか。西洋諸語に「人前」に当たる言葉があるかどうか知らないが、もし無いのであれば、言語化できないことと意識化できないことに、何らかの関連があるのかもしれない。