「迷惑かけまい」と「嫌われまい」とは違う

 我が家は団地住まいなので、夜間、子供の室内での大暴れには「近所迷惑だからやめなさい」と口にして躾けてきた。ドカーンバターンギャーッって、小さい子だからやるんだけど、でも夜にはするな、と。けれどそれは、隣近所に嫌われまいとのことではない。たまに顔を合わせて挨拶する程度の間柄であり好かれる必要もない。そのわけは、ひとつには集合住宅の常識として、そしてとくに、我が家の階下に住んでるのは老夫婦で、夜も早いだろうし…ということだ。「下のお爺ちゃんお婆ちゃんが早く眠りたいと思っているのに、上でドスンバタンとうるさかったら眠れんよ?どう思う?」…それを幼い頃から言い続けて、やがて「こらっ、今のは近所迷惑」と言うだけで「あっ」と気付くようになり、そのうちに自分たちで控えるようになりつつある。


 電車や店の中で走り回るのとかも同様だ。社内や店内の見知らぬ人に嫌われないようにしよう、というのではない。まして、ただ単に「不快感を与えまい」でもない。迷惑をかけられたら不快に感じるのは当然だろうが、迷惑な行為とは、ただ不快になることをいうものではないはずだ。


 迷惑駐車とは、そこに止めてあるその車が嫌いだからとか、ここに止めてある車の持ち主が嫌いだからとか、そうではない。どの人のどんな車だろうが、そこに止めてもらっては困るから、迷惑駐車なのだ。好き嫌いの話ではあるまい。


 迷惑とは、結果として不快や嫌悪を呼ぶこともあるだけであって、不快や嫌悪を呼ぶから迷惑なのではない。「迷惑かけまい」は「嫌われまい」とは違う。「迷惑をかけているのでもなく、自分でこうだと思ったんなら、嫌われてもやりぬきなさい。ひとに嫌われるのが怖くてやめるんなら、それはひとのせいじゃない」…亡き母は、私にそう教えた。もちろん、あまりそればかりでは角が立って、行くものも行かぬようになることもあるが、それはまた別の話だろう。


妊婦の一番大事な時期である妊娠初期は、まだお腹が出ていないんだよね。 ..
 私もこの人と同じかそれ以上で、むかし子供が嫌いで、泣いたりむずかったりしているのに出会うと不機嫌になっていたことがある。泣きやましたらいいのに、黙らせたらいいのに、と思ったりしたものだ。自分も幼少の頃はそうやって親の手を焼かせていたんだろうに、いい気なもんだったな。


 今ではそうではない。この頃は、車内でも店内でも、泣いたりむずかったりしているのを見ると、思わずこちらがあやしたくなる。親御さんが申し訳なさそうに四苦八苦しているのを見ると、あまり気にしなくていいですよ、と言いたくなる。迷惑なことじゃないですよ〜。たまに向こうの親御さんと目が合ったりして、こちらがニコリと微笑んで、先方もホッとしたように笑顔を返されると、温かい気分になれて幸せだ。


 団地の夜。どこかの家で、お風呂に入っているのだろう、元気よく泣く声と笑いながらあやす声とが聞こえてくるときがある。我が子のその頃を思い出して、なにやら鼻頭がツンとする…おおよしよし、いい子だ。


 赤ん坊は泣くものだ。幼な子はむずかるものだ。映画館だとか、静謐さが求められる場なら別だけど、場をわきまえたら済むことだ。そうでもない場所で、たとえ子の泣く声むずかる声が耳障りだくらいで、何が迷惑なものか。だいたい、赤ん坊が心地良い声で泣いたら、その声聞きたさに泣くままにまかせ、赤ん坊は育つまい。みんなそうだったろうに、手を焼かして育てられ、手を焼いて育てて、喉もと過ぎれば熱さ忘れて迷惑そうにするなんて、ずいぶんな薄情だ。


 こないだ車内で、こんなことがあった。眠たいのかご機嫌斜めな赤ちゃんが、フギフギとむずかり出した。あぁ〜泣かないでね…という感じでお母さんがあやしていると、乗り合わせて横に立っていた高校生くらいの男の子が、赤ちゃんと目が合った。彼は、おどけた顔をしてみたり、目をクルクル回したりして、気を引いていた。ふと携帯を取り出した彼が、画面をいろいろ変えて小声で「ホラッ」と見せたり引っ込めたりしていると、赤ちゃんはキャッキャと喜び出した。お母さんから「どうもありがとう…」と言われた彼は、照れ臭そうに顔を赤らめながら、赤ちゃんをあやしていた。私が彼の年頃には、こうはできなかったと思い、彼をすごく好ましく感じるとともに、こんな古歌が頭に浮かんだ。

遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動(ゆる)がるれ。
梁塵秘抄


 これは遊女の歌ったものだとも聞く。「親にならないとわからないことがあるよ」というのは、なかば正しく、なかば誤りであろう。親にならなくてもわかる人もいれば、親になってはじめてわかる人もいて、私は後者だった。今のこの気持ちを、後々まで忘れないようにしたいと思う。