解放区建設の情理

 前エントリのコメント欄で、samidamariさんとtasoiさんからご意見をいただいた。「住む」ということの本質にかかわる話である。そこで、あらためて整理してみる。まずtasoiさんから、国際人権規約のA規約(社会権)とB規約(自由権)について、前者は努力目標、後者は即時達成義務との定義を踏まえて、

居住の権利って、どっちなのかしら?(´・ω・`)
多分Aの方じゃないかなー?

とのご質問であった。イスタンブール宣言というものを知ったが、「居住の権利」はAのほうであろう。ここで再び確認せねばならないのだが、ここでいう「居住の権利」とは、私が先のエントリで書いたものであろう。

 そもそも国際人権規約および一般的意見7で想定されているのは、ユダヤ人のゲットーを強制撤去させたこととか、南アのアパルトヘイトにまつわるそれだとか、アメリカの日系人強制収用とか、そういった過去の人類の過ちについて、同じようなことが繰り返されないための取り決めであろう。また、開発独裁の途上国にありがちな、再開発だとか都市美観を理由にした、一方的なスラム街の撤去(および貧民の追放)なども念頭にあるだろう。また、いわゆる先進国における、劣悪な居住環境の地区を再開発するための一時的な立ち退きと代替施設の提供という場合にも、どのような基準を目標にするべきか、そういう指針の提示ではないのか。社会権規約委員会が重視するところの「強制退去」とは、そうした事象に対してであるはずだが。


それに対して、国内法であれば借地借家法に見る「居住権」とは、全く別のものである。
http://www.daiichi.gr.jp/seminar/02/kawanaka.html

【質問3】居住権というのはどういう権利ですか

【答】簡単に言えば、「契約期間が来ても家主の都合で一方的に追い出されない権利」と言うことが出来ると思います。
  借地借家法28条では、家主が契約期間満了の1年から6ヶ月前に契約を更新しない旨を通知をしても、正当の事由が認められる場合でなければ、無効だと規定しています。どういう場合に正当の事由があるかは、(1)賃貸人、賃借人が建物を必要とする事情、(2)建物の賃貸借に関する従前の経過、(3)建物の利用状況及び現況、(4)立退料の申出を考慮して判断するとしています。借家人は、ほかに家がなく、その借家を借りて生活の本拠としているわけですから、たいていの場合、家主の必要性より借家人の必要性の方が強く、家主の明け渡し要求を拒絶できます。これを世上居住権と読んでいるわけです。
  家主に正当の事由がない場合は、賃貸借契約は法律によって更新されます。これを法定更新と言います。契約の更新時に、家主が従前の契約内容より不利な契約書を持って来て、これを締結しなければ出て行けなどと言うことがありますが、そういう家主の要求は無効です。新しい契約書がなくても、換言すれば期限の切れた契約書しかなくても、賃貸借契約は継続し、住み続けることができます(これを奪おうとするのが定期借地権、定期借家権です)。
  居住権を主張できるのは、正当な賃借権を持っている場合ですから、無断転貸、無断増改築、賃料不払いで契約が解除された場合は、居住権を主張できません。


 したがって、国際人権規約周辺の「居住の権利」と、国内法における「居住権」とを、文字が似ているからといってゴチャマゼにして「公園に居住権があるのを知らないのか!?」という主張はハッタリなのである。どこの公園にも、誰の「居住権」もない。これは、固有の人の固有の土地に対する権利だ。しかし、日本国民は日本国土の中のどこかに「居住する権利」がある。今、住んでいる土地から不当な理由で追い立てられることは国際法上・国内法上、認められない。しかし、公園には、そもそもその人の「居住権」は、ない。この法理は、最低限、確認しておく必要がある。そこでsamidamariさんの、

keya1984さんの意見としてはかなり大雑把に言って「緊急避難なら公園に住むのはオーケー」ということだと理解しました。

これについての私情はコメント欄につらつら書いたのだが、法理に戻ろう。mojimojiさんの、

他人の私有地に住むのは問題があるなら、公有地に住む他はない、というのは論理的に考えるなら動かしようのない事実である。

から考える。ここで「他人の私有地に住むのは問題があるなら」というのは、支援活動家としてはどのような意味なのだろうか。自分(たち)の私有地に住まわせるのは問題があるから、公園に住むことを認めよ…ということなのだろうか。そうでもないなら、それをこれから述べよう。そこで、以下、mojimojiさんの新たなTBへのお答えに移る。なお、それにあたって、前回のmojmojiさんのエントリ中から、あらためて引用したい。引用文中の太字箇所は私による強調である。

ただ、以上のことは、「国連の委員会が言っているから正しい」という性質のものではないことは強調しておく。人間である以上、どこかには住まなければならない。他人の私有地に住むのは問題があるなら、公有地に住む他はない、というのは論理的に考えるなら動かしようのない事実である。だから、「野宿者は消えてなくなれ」と言うのでないならば、公有地に住む権利を擁護するのは当然の理。その程度には国連の委員会も分かっている、という話。


 私は、この太字強調箇所に該当するところを、言われる前に、既に書いてある。それにもかかわらず、mojimojiさんは何故、私が既に言ってあることに向けて反論するか。それは、太字強調部分以外のところでの主張を批判されているにすぎないのに、あたかも私が太字強調箇所を認めておらず、それがために「野宿者は消えてなくなれ」と言っているに等しい、正直に言ったらどうだという方向へ誘引しているのである。以下、それを論証する。


keya1984さんの「付記2」に答える - モジモジ君のブログ。みたいな。

(1)野宿者に「消えてなくなれ」(=死ね)と正直に言う。(2)野宿者の公園居住を認める。(3)野宿者の公園以外の場所での「十分な居住」を実現することを認める。誰であれ、その人が論理的に一貫した意見を口にしているのだと言いたいなら(それは検討に値する一つの意見として承認されるための最低条件であるが)、このどれかしかありえない。だから、(1)を言わない、(3)は困難とすれば、(2)を認めるしかない。(2)を認めることは、(1)と(3)を認めない人の義務である。


 mojimojiさんがそのように考えてのことであることは理解した。私はそうは考えない。理由を述べよう。
(1)野宿者に「消えてなくなれ」(=死ね)と正直に言う。
⇒粗暴な悪意。口に出す出さないはともかくそういう人もいるだろう。
(2)野宿者の公園居住を認める。
⇒「公園に居住権がある」ことと「公園に緊急避難で住むことを黙認する」こととは別である。「公園には誰の居住権もない」ことを確認しつつも「公園に緊急避難で住むことを黙認する」ことはできるのだから。つまり、「公園に当該者の居住権がある」ことを否認することは「公園に当該者が緊急避難で住むことを容認しない」ことをただちに意味するものではない。
(3)野宿者の公園以外の場所での「十分な居住」を実現することを認める。
⇒何をもって「十分な居住」とするかだが、mojimojiさんの設定では「あれこれ要求しすぎ」「賃貸の公営住宅に住んでいる人がかえって不平等になるのではないか」「商用に使える施設であるはずがないではないか」「国際人権規約の一般的規則7は別の話」と指摘済み。


 しかるに、mojimojiさんの「論理」とは、目下のところこういうものである。

『我々が要求する(3)を認めよ。それを困難だというなら、我々の要求する(2)を「公園にこの人たちの居住権がある」という合意のもとで認めよ。どちらも認められないなら、(1)とみなす。すなわち、野宿者に「消えてなくなれ」(=死ね)と正直に言えばいいのに言わないだけだとみなし、検討に値する一つの意見として承認しない。そうではない、(1)でも(3)でもないというのが嘘でないなら、我々の要求するところの(2)を認めよ。それは、(1)を嘘ではないと申告したあなたがたの義務である』


 これは「政治声明」であって「論理」ではない。「情理」である。ロジカルではなくエモーショナルだということだ。いや、もしこれを「論理」と言っていいのなら、これは「打倒すべき対象は誰か、敵か味方か、その踏み絵を踏ませるための誘導論理」なのである。私の述べてきたあれこれは、すべてこの3行の前に捨象され、この3行の枠内に収まらぬものは「検討に値する一つの意見」とはみなされない。これが、全体主義の論理ではないか。なぜなら、mojimojiさんが述べていることは、多くのホームレスの意見の総意か?そうではないだろう。


 ボリシェヴィキのやったことは、そういうものだった。貧困者を指導する者が全権を掌握する解放区を建設する、まずそのための論理。そうした解放区を全土に拡げる、その足がかりをつくる、そういう論理である。mojimojiさんにそのつもりはなくとも、この「論理」だけを追えば、行き着く先を想えばそういうことになろう。こうした暴論は、微力であるうちに芽を摘まなければおそろしいことになる…という経験知があることをふまえてなお、私のいうことを過敏なものと一笑に付すかどうかは、活動家その人それぞれの判断で構わない。なにしろ私はただの、九州の酔っ払い親父である。何ができるわけでもない。


 さて、おどろおどろしい話はここまでである。mojimojiさんの素直な疑問に、私もあらためて再考しながら、お答えしてゆきたい。『「野宿者は消えてなくなれ」と言う主張をしていると同然なのは、むしろmojimojiさんの論が内包している問題だと最初に指摘してある』と私が言った箇所が、まったく意味がわからなかったとのご質問である。それについては、今回mojimojiさんご自身が、より明快にお答えになっているのである。

keya1984
なお、この箇所はまさしく同委員会の政治思想的な偏向をうかがわせる端的な部分である。「ホームレスをなくすため」とは何事か。ホームレスは常にいるものなのだ、ということを否定しているではないか。ホームレス根絶を基準にしてしまえば、およそどんな政策を取ろうが「不十分である。ホームレスがこんなに大量にいる」という判定しかできまい。


mojimoji
100点を取ることが不可能であることは、100点を目指さないことの理由にはならない。よりよい状態を達成するために完璧な状態を目指す、という枠組み自体は、私たちの周囲のどこにでもある。悪人は決していなくならないだろうけど「凶悪犯罪撲滅」が言われるし、交通事故も決してゼロにはならないだろうけど「交通安全週間」が設定される。テロリストも決して根絶はできないとしても「対テロ戦争」は行われる。

 これらのことは、その目的設定や実効性について疑問を呈されることはある。しかし、「根絶」を目標にしている、という理由で非難されることは、普通ない。


 私は「ホームレスをなくすこと」を「100点を取ること」だとは考えない。しかしmojimojiさんはそうお考えだ。しかしそれはあくまで努力目標(究極の理想としてその実現性はともかく)としてのことだというのは、もちろん私も疑心なくわかっている。ただしご自分で書かれた論理を、よく見て欲しい。ここで、根絶は実際には無理でも少しでも減らすべきものだ…として並べられているものを。家も無く身寄りも無いこと…そのような人は、「悪い人」「交通事故(を起こす人)」「テロリスト」と同位置なのだろうか?


 ここでmojimojiさんの「論理」は、ホームレスになるという行為を加害行為の位置に置いてしまっているのだ。もちろん私は、「mojimojさんは、実はホームレスの人たちを犯罪者かテロリストのような目で見ているのだ」とは思わない。そうではないことくらい理解しているつもりだ。たぶんmojimojiさんは「世の中に本来あってはならない悪いこと」として認識されているのだと思う。インテリエリートによる、社会悪撲滅の使命感。そこで、こう考えてみよう。「凶悪犯罪」「交通事故」「テロ」には加害者と被害者がいる。なぜ、mojimojiさんは加害者の位置にホームレスを置いてしまったろうか。そこから考える。


 私の想像では、mojimojiさんの思想は「ホームレスになる人は被害者なのだ。凶悪犯罪にあったり、交通事故にあったり、テロにあったりするような、被害者なのだ」というものなのではないかと思う*1。ここが私の考えとは異なるところで、家も無く身寄りも無いことが「世の中に本来あってはならない悪いこと、根絶を目標とすべきこと」とは思わないからである。だからこそ、街の中からそうした人がいないようにしてしまえ式の発想にも反対なのだ。したがって、mojimojiさんの言葉を拝借するならば、私なら(価値的に同じということではなく論理の上でだが)、このように書くだろう。

殺人等の犯罪に巻き込まれる人は決していなくならないだろうけど「凶悪犯罪撲滅」が言われるし、飲酒運転等の被害に遭う人も決してゼロにはならないだろうけど「交通安全週間」が設定される。無差別テロの巻き添えになる人は今後もいるだろうとしても「テロ防止対策」は行われる。それらと同様、ホームレスになる人も常にいるだろうけれども、だからこそ支援救済は行われるのだ。


 犯罪の全く無い社会などありえないが、だからこそ常に治安は必要だ。貧困の全く無い社会もありえないが、だからこそ常に慈善は必要である。しかし、それは犯罪も貧困も無い社会を究極の理想とすることではない。そのような理想に向けて建設された共産主義社会が、何故あのようなものになったか。それは、人間社会の情実を机上の論理で制御し得ると錯覚したことにある。自分たちの理論をして人々を従え導けると大錯覚したところにある。まして、貧困を犯罪と同一線上の価値に置いたところに、もっとも大きな過ちがあったのである。ある人が貧しいことはその人の犯した罪ではないし、世の中の罪でもない。豊かさは時に罪によって生じることもあるが、それは貧しさもまた時に罪から生じることがあるのと同じで、豊かであることそのものは罪ではない。たしかに罪も貧しさも忌まれることだ。それは、嫌なことだ。しかし貧しさそのものは、罪ではないのだ。


 ソ連が、東欧が、中国が、北朝鮮が…共産主義はその理想とは裏腹に、どれほどの凄惨な貧者を生み出して死地に追いやったのか。mojimojiさんが共産主義者かどうかは知らない。そうではないのかもしれない。しかし、そうではないのだとしても、限りなく「それ」に近似した主張をなさっているのではあるまいか。


 貧困を撲滅しようとの思想は、将来にわたって貧民を救済することにはならないと思う。貧困は常にあり、貧民は常にいる。だからこそ今ある貧困を、貧民を、捨て置くというわけにはいかない、永劫の繰り返し、それが世の常なのではないか。


 「貧しきはその者の業なり。すべてこれ因果応報、寝泊りすらままならぬ宿無しなど、どこへなりとも失せるべきにて候」という人も常にいるだろうが、内心そう思ってるくらいであれば責め立てることでもない。しかし、そのような風潮が世に広まっては困る、「手出し手助け無用のこと」が大手を振るうような、そんな世の中になるならそれは末世というものだと私は思う。だから、表にそうしたものが出てくれば、とがめもするし、たしなめもする。対して、貧困と犯罪とを同じく並べて世から無くそうとする声についても、私は言わざるを得ないのだ。その善意の陥るところは、悪意よりなお甚だし。

*1:ちなみに私はそう思わない。もうほんとに「世の中の犠牲者だ」としか言えない人もいるだろうし、もうほんとに「好きでやってるとしかいえん…」という人もいるだろう。ただし私は、そうした個々の事情には立ち入らない。それは何故か。実は、その点でmojimojiさんがツジカドさん宛て、註で「好きでやってる人は、この文脈では関係がない」としてあることに関連するのだ。意識的に「興味本位にホームレス体験を好きでやってる」人が、この文脈で関係ないのは私にもわかる。しかし、好きでホームレスをやってるわけではないにしろ、ちょっとカネが入れば賭け事や風俗や酒に消えるとか、そういう人もいるだろう。なんだかもう、そのようにしかならない人たちも。そういう個々の人間の情実に、立ち入るべき話ではない…という意味で、もしかしたらmojimojiさんとは同じなのかもしれないが。というのも、もし公的か私的かはともかく、支援を受けるべき人かどうかの判断として「好きでやってるかどうか」を問うことにしてしまうのならば、それこそ極私的な領域に他者が踏み込むことになる。ましていわんや公権力をや。しかしこのことは、わかる人にはわかる、わからない人には絶対にわからない話であろう。mojimojiさんには、もしご存知なら、つげ忠男の漫画、そのイメージで受け止めてもらって良い。そこにしばしば登場するタイプの人と思ってもらってよい。あのような「どうしようもなさ」が私の念頭にある。それも含めて、私は「この文脈では、好きでやってるとしか言えない人も含めて考えなくてはけないので、社会の被害者という一面的な見方はしない。しかし…」と考えている。