血税一揆

 大阪長居公園でのホームレス排除について。私から見ると、行政側が用意した代替施設に不備ないし不満が強くて公園に戻っていた人々が強制排除されたのだから、こと問題はもっと具体的なことように思える。この公園でなくてはダメなんだ、ほかのいかなるところでもダメなんだ…ということじゃないと思うから、やはり代替施設の問題が大きかったのではないか…とか。ホームレス側だって、公園に替わるいたれりつくせりの場所を欲しているわけでもあるまいに。何か、問題があったのではないか。当事者だけが語りうる真相といったものが、あるはずだと思う。行政側にしても、彼らだけが語りうる事情とか、ないのかな、とも思う。それこそ住民側(一般の公園利用者)にしても同様だ。


 その公園が公費で運営されている以上、納税者サイドが「利用できなくなっています。何とかしてください」というところまでは、私は当然の要求かと思う。ただしそれは、代替施設を公費で作って運営していくことになるわけだから、そこでの合意は必要だろう。私が思うに、「うん、そういうことに税金を使うのは当然だと思う。明日は我が身とも言うし、恵まれない人に税金の一部で最低限の生活を保障するのは大事」という納税者と、「そんなことに税金を使うなよ。勝手に野垂れ死んだらいいのに」という納税者とでは、全く意見が合うまい。今回のものは、もう少し具体的な情報があってそれが一人歩きしてしているような印象が強い。「税金で最低限の生活を保障するのはいいよ、だからそれをやってやってるのに、それを拒否して公園に戻って権利だとか何だとか、何様のつもりだ?」というものが強いように思う。たぶん、それが「権利と義務」論の大きな背景にあるのではないか。個別具体の話から、より観念性の強い一般論への飛躍、というか。


人間らしく生きる権利に対して、いかなる義務を要求するというのか - good2nd
 私はここで、good2ndさんの怒りにも、彼が紹介するサイトの主の怒りにも、それぞれ共感できるところもできないところもある。彼が紹介するサイトの中も、よく見てみれば最底辺の生活困窮者(いわば漂白の困窮民)への情け容赦無い意見と、そうではなくて人権団体(いわば困民救済に励む教団信徒)の方策への怒りと、混然としているように見える。good2ndさんは、やや怒りにまかせて、それらの腑分けができていないのではないか…という気もした。この腑分けをしないと、「漂白の困窮民を何だと思っているのか!人道にそむく者どもめ!」という義憤の中で、「困民救済を食い物にしているだけではないのか?」という疑問まで含めて却下してしまうおそれなきにしもあらず、という感がある。その点では共感しきれないところがあるのだが、おおまかに言えば、彼の不快感そのものは私も同感であることが多い。そこで、私の見た過去の同様の議論を挙げてみる。


★姫板ウラ
 この議論もまた、投稿者のウヨサヨといった政治的な立ち位置ではわかれていない。その中で、私がもっとも強く惹かれたのは、「自己責任論」に対するtpknさんの意見である。

というか、「アメリカ式」にするのであれば、少なくともホームレスに対してはもっと公的な支援を増強しなければいけません。アメリカでは日本よりずっと前から法律でホームレスを保護していますし、いろいろと対策もとられていますね。それに、キリスト教のバックグラウンドも関係していると思います。

アメリカの「自己責任」という考え方は徹底した個人主義から発しているものなわけですが、その根底にはキリスト教とかピューリタニズムとかががあるわけでしょう。当然それは博愛主義も兼ね備えていますから、まあ少しはバランスがとれるわけですが、日本にはそういうバックグラウンドがないので、経済的な側面のみを見てアメリカのマネをした場合、単に殺伐とした社会になるんじゃないかな。誰も個人主義で動いてなんかいない以上、これは日本においては単なるモラル・ハザードです。そういういびつな「自己責任」の社会が経済的に破綻した場合、悲惨なことになりますよ。

 一方、この話題にさほど語る口を持たない私は、それこそ一般論でしかないのだが(しかし極端な一般論には正論で返してよかろうとの想いから)、以下のようにレスした。

私はホームレス問題は不案内なので、現状の福祉行政の是非といった具体的な議論はできないのですが・・・

まぁ、何て言いますか、困民救済っていうのは古今東西を通じて政治や宗教の最重要課題の一つでもあったと思います。これに向き合わない、そういう状態が続けば、そのような政治や宗教は破綻していったと思うのですが。


>パリッと家庭を持ち、立派に勤めて、人の道に外れないように生きてから、ものを言うべきです。


「パリッと家庭を持ち、立派に勤めて」いるのは単に「定職に就いて家族を養っている」ことであって、そうしながらも「人の道」にはずれたことしてる人だっているんじゃないですかね。「パリッと家庭を持ち、立派に勤めて」いる人が、そうできないでいる人を(個々の事情も無視して)一律に蔑むのは、むしろ人道にもとる考え方ではないかと感じます。


 そこで今回は、これをもう少し敷衍して(背伸びして)自分の考えを述べてみたい。まず、歴史的に見て、困民救済は統治者ないしは宗教者の務めの最たるものであった。ことに、我が国では治者のそれが極めて重視されてきた。「貧民への施しは、お上がなさるべきことだろう」というものである。これには大きな理由が二つある。ひとつには、儒教的な「仁政」と仏教的な「慈悲」とを、治者が体現せねばならぬという至上命題があったからだ。治者みづからがこれを放棄するとき、その治者は「仁慈を己には課さぬ者」に成り果てる。「率先垂範」という言葉があるが、百姓町人にしてみれば、まずもって治者がなすべきそれをなさないのであれば、もはや「ご公儀」に服する道理そのものがない。


 そしてもう一つの理由は、治安維持である。およそ古今東西を問わず、貧民が国内にあふれかえるような状況というのは国家としては末期の症状で、早晩、そのような国家は崩壊する。大量の貧民が暴徒と化して動乱の世になるからである。このような状況になって武力で鎮圧しようにももはや手遅れなのであって、治安を維持したいのであれば、常に存在する少数の貧民について治者は施しをせねば世を保てない。したがって、治者の側にも二つの動機が混在することになる。ほんとうに真心から、使命感や道義心から困民救済に力を入れようとする人も、損得打算から実利的な理由でもって困民救済を怠ることなきよう勤める人と。


 我が国でも、寺社が困民救済に大を成した時代も過去にはあったが(それこそ治者がそれをなさないときには寺社こそが力を入れたということもあったが)、近代以降、そういったことは主に行政の果たすべき領分となった。大戦後は、更にそれに一本化された。ここに、tpknさんが言われるように、自己責任論と教会の保ち合いというアメリカ型のやり方が日本では通用しそうにない現状がある。では、ただちにお寺さんやお宮さんが、いきなりそれをなしえるようになるかと言えば(そういう方向に寺社が目覚めるのは悪くはないが)現状では法制面も含めて、とてもそうはいきそうにない。今でも「貧民への施しは、お上がなさるべきことだろう」というものがコンセンサスに強力に残っていると思われる以上、やはり行政の領分なのである。


 すると、このごろ噴き上がってくる「自己責任論」や「義務を果たしてから権利を主張しろ」という言説は、何を意味しているだろうか。このことについて過去のエントリで少し言及したのだが、関連箇所をここに再掲すると、

これらの意見には共通したパターンがある。「きちんと働いて自分の稼ぎを得て一人前」という認識が非常に強い。そこで税金の話になり、「自分もわずかな稼ぎの中から少しばかりの税金をちゃんと払っている」となる。そこまではもちろんよいのだが、ホームレスの話題になり「税金も払えないほどに落ちぶれてしまったのであって、そうした税金も払わない者に税金を使う前に、ちゃんと税金を払っている者に還元すべきだ」となる。またあるいは、彼らにとって「生活保護者」とは「働きもせず税金で食ってるやつら」であるらしく、この制度は「働こうとしない者に我々が納めた税金を与えて食わせている制度」であるらしい。そこまで露骨な表現を目にしたわけではないが、そう思っているのでなければおよそ出てこない論理に出会うのである。


 つまり、このような要求するのは納税者として当然の権利である、義務も果たさない者よりは義務を果たしている者の権利をより重視するのが行政の義務である…という主張と言ってよかろう。要するに、国家社会全体の中での権利と義務を考えているのではなく、自分たちだけの権利と義務を主張しているのだ。なんでもかんでも、自分達だけの権利を、自分たちのなしえただけの義務でもって、当然のごとくに主張する権利亡者。それは彼らなのである。戦後民主主義の行きすぎだとか、個人主義の行きすぎだとか、国家社会全体の公共性もなにも考えていない…という批判は、こうした見解の持ち主にこそ当てはまるであろう。



 ただし、冒頭にも書いたが、今回の騒動での意見の中、人権団体への疑義を強く前面に出した論も多いようだが、見ていて、具体的な指摘はあまり見えない。個別具体的に、支援者の主張に異論があるなら、どこがどうおかしいと批判すべきであるように思う。私なぞ、詳しく事情を知らないので、今回の支援者がおかしいのかおかしくないのか、それ自体には言及できない。


■付記■
 good2ndさんへ送られているTBを読んだが、http://d.hatena.ne.jp/irvine_eddie/20070211には、私の信条的には共感できる部分が多かった。とは言え、それは「自分がそうなったら」という想定での話であって、自分が現に生活できている中ではそういう覚悟があるにすぎないと言えばそうだし、もともとそういう人間だからといって、多くの漂白民に自分の信条から見た敷衍はしたくない。どのような事情が漂白民にあるのか、もう少し、想像の幅を持てないかという気がしてならない。というか、これでは浮浪者の心性を一般化しすぎではないだろうか。どうも方向性が偏っているように思われる。


 また、good2ndさんが紹介した中では金吾庄左ェ門さんの汝の隣人のブログを愛せよ | LOVELOGの前半部分が、私にはもっとも重要な問題提起であるように思われた。後半はやはり、金吾庄左ェ門さん個人の信条が前面に出すぎて敷衍してしまっているという印象が強い。むしろ前半じゃないのかな、と。世界陸上大会があるから、なんでしょ?すると、金吾庄左ェ門さんが言うように、実は権利義務の話というよりは、外国人の目を気にして目立つところから浮浪者を排除したかったのか?という疑念が私には出てくる。北京五輪を機会に、貧民街をブチ壊していく中国共産党のやりかたを「当然のことだね」とは思えない私なので、なおさらそう思うだけかもしれないが、やはり時期の兼ね合いからして気色のいい話ではない。


 都市にスラムはつきもの…くらいに私は思う。みすぼらしい汚らしい臭い人たちを住まわせない、たむろさせない都市。潔癖な衛生観念都市。すごくおぞましい気がするのだが。猥雑さや不浄さも含んでの都市なのではないかな。いやらしい歓楽街も、きたならしい貧民窟も、都市の中にはあって当然なのではないだろうかと。