収容所列島

 ホームレスと「権利と義務」の話題を、もう少し考えてみた。私は先述したとおり、「義務を果たしてから権利を言え」式の意見を、この問題にただちに当てはめるのは誤りだと考える。ただしそれは、返す刀で「権利を振りかざす」式の意見についても同様である。そこで今日は、そのことを書きたい。


野宿者の居住権──不法なのはどちらか - モジモジ君のブログ。みたいな。

公園は公共の場であり、そこに住まう権利がそもそもないのだ、と、よく言われる。これもまた、物を知らない、ということに起因する典型的な反応である。野宿者に対して同情的であれ批判的であれ、責任を持って物を考えたいならば知っておかねばならない基本的論点について無知であることを意味する。


 出し抜けに、居住権というものがあるのを知らないのか!という高飛車な振りかざし方であるが、こういうことをするから反発されるのである。なんぴとにも基本的人権として居住権が保証されている、というけれども、それは「誰がどこに住もうが構わない」というものでもないはずである。誰かの私有地に勝手に住み着くのは所有者への権利の侵害であろう。私有地であっても公共性の高い空間ならばどうか。たとえば私鉄の駅の構内に住み着けばどうか。では公有地はどうか。市役所だとか公立学校の敷地内や建物の中に住み着くのはどうか。誰が考えても、否、であろう。…つまり、ことここへいたって、「公園」という空間に固有の性質を考えねばなるまい。さもなくば、「公園には誰にでも居住権があるのか?あるはずもない」で終わってしまう話だ。その点では、このエントリのブクマコメント欄よりNOV1975さんの意見、

うーん、お互い暗黙的に触れないことで何とかやってきたところを片方が原理的な部分を主張しだすと仕方ないから原理的な反論をせざるを得ないと言う構図かなあ。原則論って行政が強そうな気がするな。

私もそう思う。また、私がもっとも賛同できたのは、下記の意見である。
【大阪市による行政代執行】: 小論時評


 居住権に限らず、「権利」というものは排他的な私権としての性質が強い。邪魔立て無用のこと、という私権である。したがって、「公園には誰の居住権もありませんよ」というのは、この公有地が誰に対しても排他的ではないということである。ところがその公園内に、誰かの居住権を持ち込むのであれば、すなわち野宿者の居住権が公園にあるんだという言い方をしてしまうなら、当然に多くの公園利用者は排除されてしまう。広く誰にでも使用されるべき空間が、特定の人たちによって目的外に占有されてしまうということである。このような主張は、法理としては認めがたいもののように思われるがどうだろう。


 そもそも、ホームレスは「自分たちの居住権が公園にある。それは憲法で定められた基本的人権であって、なんぴとも侵害しえない権利である」だなどと、主張しているのであろうか? 私はそのような主張をこそ当事者たちの多くが主張しているとは、聞いたことがない。もしかしたら、そのような人もいるのかもしれないが、いたとしても認められる主張ではないだろう。ところが支援者側が、かような主張を掲げる声があるのを非常に奇異に思う。誰による、誰のための主張なのだろうか。


 また、そこでいう居住権とは、永続使用権のような権利を主張しているのだろうか? そうではなくて緊急避難的なものが多いのではないか? 生活再建が困難な状況にある人の、せめてもの緊急避難場所として公園に「家を追われた人、家を失った人」が身を寄せるわけであって、公園に居住権があるから住むわけではないだろう。そういう緊急避難の場所すら与えないということが、古くからの人道上、あるいは近代的な権利概念上、許されるのかということではないのだろうか。


 私は思う。現代の近代化された都市の中で、公園のほか、どこに身を寄せられるというのだろうかと。これが昔なら、代表的なものは河原といった空間があったわけだが…すなわちそこは「園」でも「苑」でもなく、誰の土地というわけでもなく、誰が住みたがるという土地でもない。大水が出れば溢れたり流されたりするような、およそ居住には適さない土地に多くの漂泊民・落伍者・賤視された人々が集まって暮らす。そうした空間も、近代的に整備されて占有が許されない土地になっている現代都市の中であっては、公園のほかに野宿できる場所は無いように思う。だからといって「公園に、居住権があるんだ」などといって、仮に法廷闘争などしたとしても、「公園に居住権は認められない」とする法理しか適用できまいに。法理だけで言ってしまうなら、「はい、ですから公園に住まないでね」という冷たい原則論しか呼び込まないのではないか。


 したがって、mojimojiさんが紹介して自説の補強にしているサイトもまた、阪神大震災の罹災者についてのサイトであって、広くホームレスが一般論として、法理として、公園に居住権があるのだというような主張ではないはずである。緊急避難的な時期は過ぎた…との行政の判断のもと、住居喪失者のうち諸般の事情でいまだ再起できない人へ支援打ち切り(公園からの締め出し)があるのかもしれないが、私はその辺はよく知らないけれども、そうした問題があってのことではないかと推察する。これを一般論化するのはおかしいだろう。その点では、これを引用して「啓発された」とするgood2ndさんの論には、義憤に任せた偏りがあるのではないか。「ホームレスは被災者なのだ」は、乱暴な一般化である。mojimojiさんの主張に戻るが、

適切な居住を確保し、それを改善するのは基本的権利である。それを制約できるのは、他者のそれと同等以上の権利である。公園の通常の利用形態を想定するとき、居住以上の切実なニーズに関わる利用などありえない。公園で遊ぶ自由も、そこを通行する自由も、景観についての好悪の権利も、それらは一切合切、すべて、居住の権利の後に来るべき権利である。である以上、野宿者の公園への居住は、彼らが代替的な住居を提供されない限り、公園の適切な使用法と認めるというのが本筋である。


 ことこの部分(および後の部分)にいたっては、呆れて開いた口がふさがらない。弱者の政治利用も窮まったり。このような論法から言えば、都市に公園など作れまい。公園にするくらいの土地があるならホームレス用の無償無賃の住居を与える敷地にせよということになるであろう。公権力は全国民に、mojimojiさんが要求する程度の居住施設を提供しなければならない。しかしそんなことが、財源はもちろんのこと、原理的に可能かどうか、少しは真面目に考えたらよかろう。これはいったい何なのだろうか?万人が飢えもせず住む家にも困らない理想の共産主義国家を前提にした発想でしかないのではないか。およそ不可能な架空の前提から発して現状を批判するのは、理屈としては造作しやすいだろうけれども、「ためにする批判」でしかあるまい。現行憲法でも、そんな古臭い共産主義的な解釈に立って成文化しているわけでもあるまいに。


 そしてこれがもっともmojimojiさん(および賛同者)に欠けている点であるが、もし万一、そうすることによって一人のホームレスもいないことを行政府が誇示できるという状況とはどういう状況か、考えてみるべきである。それは、ただ一人の落剥した浮浪者も路上にいない、河川敷にもいない、公園にもいないということなのだ。路上生活者のいないピョンヤン、貧民街のない北京…そういうものではないのか? つまり、家も無く身寄りも無く、道に野に伏して空の下に過ごす、そのような人々を街から辻から消してしまうという発想にほかならないのではないか。共産主義的なディスユートピアを私は思い浮かべてしまうのだが。