公明党もブーメラン

 菅直人氏も別にそんなおかしなことは言ってない。おかしいのは、中川秀直氏が言うように(http://www.nakagawahidenao.jp/pc/modules/wordpress0/index.php?p=440)、菅氏は自分の糾弾が自分に返ってくる滑稽さがあるのみである。それよりむしろ、これを糾弾している公明党の主張がおかしい(http://www.komei.or.jp/news/daily/2007/0207_08.html)。しかもその理由が、

この発言は、子どもを産む崇高な行為を経済的な生産と同列視したもので、菅氏もまた、女性を“子どもを産む機械”のように認識していることをはしなくも露呈している。


 「産む」ということへの崇敬は、まったくないよりはあってもいいと私は思うし、それが宗教的なものになっていっても不思議はない。だけど、そうした崇敬にそむく表現だから…なんて言い出したら、経済学も生物学も立ち行くまい。はっきり言えば、「経済的な生産と同列視」したって、かまわないはずなのだ。創価学会ではどういう教義になっていて、どういう女性観があって、「産む」ことへのどういう崇敬があるのか私は知らないが、これは露骨に「宗教による学的表現への糾弾」だろう。そして、これぞまさしく「宗教の政治への介入」だろう。これだから、創価学会はカルトだと言われるんだよ。


 そしてまた、こういうことでもある。中川氏が2月6日に述べている内容について、連立与党が翌日に公然と異を唱えたわけである。「言葉狩りはやめよう」と民主党に呼びかけた自民党幹事長が、そのために出した材料をして「いや、言葉狩りではないんだぞ」と言っているに等しいのだから。しかしここまで言うなら、公明党は「柳澤大臣を罷免しなければ、我が党は教義的に連立与党から離脱せざるを得ない」と主張するべきではないのか。「他人ばかり攻撃する公明党のやり方こそ、不見識と言わざるを得ない」。