女性ハ神聖ニシテ侵スベカラズ

痛いニュース(ノ∀`) : 【政治】 女性=「産む機械、装置」 柳沢厚生労働大臣が発言…自民・島根県議の決起集会 - ライブドアブログ
はてなブックマーク - 北海道新聞 社会 - 女性は「産む機械、装置」 松江市で柳沢厚労相
 ニュースそのものより、コメント欄のほうが痛い。これはあれだな、「天皇機関説糾弾事件」の時の怒号と同質だと思う(程度が違うだけで)。
天皇陛下を機関だなどとはけしからん!不敬である!」
「女性を機械だなどとはけしからん!失礼である!」
 美濃部達吉憲法論議の中で、機関という言葉をどのような意味で用いていたかにおかまいなしに、「機関とは何だ!天皇陛下を何だと思っているのだ!」「こういう機関呼ばわりをするところが、この学者の認識の度合いを表しているのだ!」「かような認識の人間を帝大に在籍させるな!」と飛び交った怒号。…それと全く同じ反応ですね。


 まぁ、まさかここでいう「キカイ」が「機械」ではなく「機会」だったとか、そういうオチはなさそうだということで考えてみる(「装置」というのは文字通り繁殖器官を指していそうだから)。その場合、男は種を捲く機械だとしてみてもいいわけなのだ、この文脈なら。で、そのように機械的に解釈してだ、この話を男に対する要求として述べていたらどうだったか、そこから考えてみたい。


 「少子化対策をいろいろしていくつもりですけどね、一人一人にも考えて欲しいわけです。種を捲く機械としての男に考えてほしい…機械なんて言ってご免なさいだけど…対して産む機械、装置としての女の数…女が一生に生める子の数も繁殖適齢期の女の数も決まっているから、あとは一人頭で頑張ってもらうしかない」


 このように男へ呼びかけていたら、それこそ女に失礼じゃないのかな。でもさ、いろんな場合があるけど極限的には、産む産まないは女の権利じゃなかったのかよ。ならば、柳沢大臣のものは男に対して呼びかけているものではないようだし、産む産まないは女の最終決断、そう受容しての発言じゃないのだろうか。違うかもしれない。でも、引用された部分しか知ることのできない読者としては、今んところ、そのようにしか解釈できないのだが。


 つい先月には「子どもを持ちたいという若い人たちは多い。その希望に応えられるよう、できる限りの努力をしていきたい」とも述べていたそうじゃないか、そしたら何だね、こういうことじゃないのか?「子を持ちたい女が実は多いことも知っているから努力したい、努力はするけど、女が一生に生める子の数も繁殖適齢期の女の数も限りがあるから、産まない権利を行使した人には、あとは一人頭で頑張ってもらうしかない。政府としては、まさか産みたくない女に産めとか言うことはしない」ってことじゃないのか。もしそこで「えぇっと、それはそれでちょっと」と思えるとしたら、産みたくても産めない人のことを失念してないか?という方向性での、もっとこまやかな配慮、それだったらわかるんだが。でもそういう意見、ほとんど無いな。


 天皇陛下を機関だなどとは不敬である!ばっかりじゃないか…。女は現人神なのか?少し冷静になって、考えて欲しいと思う。女が不愉快なのは仕方ないが、男のこういう反応は困りものだ。
2007-01-28

何だか、同じ「男性」として、とても恥ずかしい発言だ。不愉快に思われる女性の方々に申し訳ない。

 「女性にあんな失礼なことを言う男は、同じ男として許せない。しかし女の人たち、男はみんなあんなだと思わないでね。俺はそんな男じゃないからね」ってことだ。しかしあなたがウェブ上で公開するその申し訳なさとやらは、男の下心でしかないのだよ。女が女として、産む機械という言葉に直情的に反発して「もういい!とにかく嫌なの!」で終わるとしたら、それは仕方ない。嫌なものは仕方ない。なるべく嫌な言い方をしないほうがいいのは、これは知恵だから。だが、嫌がるのは仕方ないとして、その政論はおかしいぞ、間違ってるぞ…あるいは、あぁそれでいいのか?女はそれでいいのか?と男として聞くことも大事ではないのかな? いやさ、立場が逆ならこういうことだってあるだろう。男が「馬鹿にされた」と直情的になっているときに、女が横から「うーん、男としては頭に来るかもしれないけど、そういう話かなぁ」と指摘してくれたら、嬉しくないか?


 言いたいことはわかるが政治家ならもっと言葉を選べ、女性を機械にたとえること自体に見識がない…という意見もあるが、そういう問題でもないような気がする。それなら美濃部だって、「学者たるもの、天皇陛下を機関だなどと主張すれば、どういふ反応が起こるか予見すべきだった。その見識の無さを問われる」という問題だったのかな、と。元ネタの北海道新聞ほかを見てみたけど、柳沢大臣の講演要旨が全く載っていない。どういう文脈でそう言ったのか、全くわからない。「へっ、女は子を産む機械にすぎないんだよ」という女性観の持ち主であることが暴露されたかのように怒号が飛び交っているけど、そうなのか?根拠となる材料が全く無いのだが。それより、どういう文脈だろうがかまうもんか、とにかく「女なんて産むための機械だ」と言ったことになるんだ!とか(しかしそうは言ってない)、勢いに乗って「はいはい美しい国とはそういうことですね」と鬼の首でも取ったみたいに、そればっかり。

いい加減字引き的解釈で人の言葉を批判するのは止めたらどうか。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。

これははてなブックマーク - 痛いニュース(ノ∀`) : 【政治】 女性=「産む機械、装置」 柳沢厚生労働大臣が発言…自民・島根県議の決起集会 - ライブドアブログのIpsychicさんのコメント。このひとことにつきる。けれど、こういう真っ当なひとことが怒号の中でかき消されていきそうなので、私は更に続けよう。


 人間を機械や機関や装置にたとえることが、ものすごい憤激を買うことは致し方ないと私も知っている。それは、こうしたウヨサヨする話じゃなくて、科学の話で頻繁に出てくるからだ。あまりに生命工学的な話を聞くと、人々はギョッとしたり怒ったりする。それ自体は悪いことじゃないのだし、生命科学と倫理という深い主題にも繋がるだろう。科学の暴走や誤用悪用というのも現実にはあるわけだから、そういう直覚的な嫌悪感も、無碍に否定してはなるまい。ただし、「いや、その反感はわかるけど、ちょっと待って」といいたいこともあるのです。


 一例として、ドーキンスへの反発を挙げてみる。彼は何故に、猛反発を覚悟で「利己的な遺伝子」と言い、「人間は遺伝子の乗り物」と言ったのか。結論から言うと、それまでの進化論の通説として「群淘汰説」というのがあった。これは、「種はみずからを保存させるべき本能を個体に持たせており、種の保存のためには自己犠牲を選択する本能がどの種にも備わっている」というものだ。その誤用として「レミング集団自殺」というものが頻繁に引き合いに出され(Chapter 3-14ほか参照)、その悪用の最悪形態がナチズムである。ドーキンスは、これが全く誤った説であることを科学的に論証するために、あのような扇情的な語句をあえて選択した。そのあたりは私なりにもう少し詳しく述べたことがあるので引用しておく。興味のある方はご参考にしていただけたら幸甚。これは私の掲示板で、その道の人が一介の素人である私を相手にして対話してくれた、かなり嬉しいスレッド。
newSpeakBBS


 もちろん私は、柳沢大臣が、美濃部博士に匹敵するとも、ましてやドーキンス博士に肩を並べる見識だとも、全く思わない。件の発言それ自体は、レベルははるかに下だろう。だから柳沢大臣をかばいたいのではない(本人は弁明しまくっているらしいし)。しかし私のここでの批判は、柳沢発言批判そのものへの批判なのだ。美濃部やドーキンスへの怒号と、性質が同じではないのか?ということだ。私は美濃部説は批判されて仕方ない中味だった思っていて(その説は日本の憲法解釈としてはドイツ法学に偏しているとか、博士がリベラルだったこととは裏腹に国家主義と相性のいい学説だったことなど)、評価問題はまた別に考えてはいる。しかし…というかなおさら、真っ当な批判が粗野な怒号の中にかき消されたまま、戦後もずっと「機関説糾弾事件!あぁ恐ろしい!」で終わってしまっていることにも、忸怩たる想いがある。つまり、柳沢発言にしても、中味をこそ問え、中味も知ることなく直情的な政治的糾弾はおそろしいのだぞ?と言いたいのである。禍根を残しますよ、と。


 さて、以上は「ごく普通の感覚で反発した人」に向けて書いてみた。その反発自体は、無理もない面はあるから。しかし最後にこれは指摘しておこう、フェミニスト諸君、君たちは鬼の首でも取ったように狂喜乱舞しているが、じゃぁ、上野千鶴子はどうなのか。子産み子育てを「再生産」と呼び、恋愛を「発情装置」と言っているが、糾弾してみてはどうか? 世間一般の人が上野にも柳沢にも不快感を持つのは当然だ。しかし君たちは、なぜ同じ表現を用いる上野を糾弾せぬ。かつて同じ理由で極右が美濃部博士をそうしたように、極左の君たちも、今、君たち自身が柳沢大臣の罷免を望んでいるように、同じ理由で上野博士を東京帝国大学から追放してみたまえ。それをできないどころか口にもしないとは、ダブスタにもほどがあると思うが如何。上野だけじゃない、大沢真理も以下のように言うので猛反発を受けてたのだが、それを悪質な曲解だプロパガンダだと言い張ってきたのは、フェミニストではなかったのか?いい加減にしたまえ。

女で妊娠したことがある人だったら自分がメスだと言えるかもしれないけれども、私などは妊娠したことがないから、自分がメスだと言い切る自信はないし、男にとっては、あなたの子どもを生んだことになっている女の人しか、あなたのセックスについて断言できません、こう言ったら、もう男は立つ瀬がないというか。


 上野千鶴子の対談集『ラディカルに語れば』の中で、大沢はこう発言して上野と笑い合っている。子を生みたくても生めなかった男や女は、自分が男や女であるかどうか断言できないそうだ。男の場合だと、女を孕ませた男だけが、その女によって男だと認められるそうだ。柳沢の失言の比じゃないだろう、なぜ、これを糾弾しない。こんな人物が中心になって推進する男女共同参画社会、なぜ、批判せぬ。せめて、大沢はその任に適さぬと、罷免を要求すべきではなかったのか?どうせ含意や文脈などどうでもいいのであろう?ならば、そのルールを自らにも課すべきだ。君たちは今まさにそうしているように、上野や大沢を許して柳沢を許さない。だからフェミニズムは、そしてジェンダーフリーは叩かれたのだ。まだわからんか阿呆が。


恥を知れ。