女性ハ神聖ニシテ侵スベカラズ(2)

 先のエントリのコメント欄で、kmizusawaさんから以下のような指摘を受けた。

柳沢発言の解釈がなんか違うように思うんですが。「産む側の女性の数は決まってるから、あとは一人頭何人生むかにかかっている」って意味だと思ったんだが

 なるほど、そうかもしれない。ただそうなると、話はもっと簡単であって、いよいよ何の問題もないのではなかろうか。個人主義(ことに個人還元主義)の観点に立てば、政府の大臣が政策上のことにからめてこのようなことを言うのは「大きなお世話だ」となろう。しかし少子化対策を講じることは政府の責務とされており、また、男女共同参画社会理念は個人還元主義を斥けて、「個人が産む産まないを決める意思決定も、社会制度の影響を強く受けて左右されるのだから、社会制度を柔軟にすべき」とする社会学的なジェンダー論を下地にしている。ならば、柳沢大臣の先月と今月の発言は、少しも不整合などないであろう。


1.子を持つことを望む若い人が多いことも知っている。子を産みたくても産みづらい状況を変えるべく努力します。
→そんなものはその若者の好きにすべきであって政府は何もしなくていい、というのは誤り。
2.産む側の女性の数は決まってるから、あとは一人頭何人生むかにかかっている。
→政府にできることは限りがある。産みやすい社会にするよう政府は努力するが、あとは多く産んでくれることを期待するだけだ。


 とりあえず、現時点で報じられた要点だけ見れば、ご無理ごもっともな話であって、可もなく不可もないといったところか。1と2に矛盾を感じる人は、何を言いたいのであろう。1を良しとしながら2を糾弾する人は、何をしろと言っているのだろう。わけがわからないのだが。ことに、フェミニストでこの間の論理展開を知っているはずの立場の人間がこれをなす、フェミの二枚舌は珍しいことではないが、悪質にもほどがある。「個人が産む産まないを決める意思決定も、社会制度の影響を強く受けて左右されるのだから、社会制度を柔軟にすべき」という社会学ジェンダー論のイロハの部分を、経済政策にも取り入れているのが現在の政権与党だ。しかし、それにも関わらず、フェミニストがこうした非難をするのは何故か。


 それは、「女が子を産むのだ」という観念そのものへの非難なのだ。いわく、それを「家族イデオロギー」と言うらしい。だから、それが出てくれば、必ず叩くのである。個人還元主義を斥けるにとどまらない。「子を産むのは女だから、女が産みやすいようにしよう、しかしそれもこれも女の意志だから、制度を変えるところまでは政府の責だが後は自助努力していただかなくてはなりませぬぞ」…フェミニストはこれを認めない。これに対し、一部の保守派は1も2も論難する。政府のなすことではない、というのだ。行財政政策の今後のあり方をめぐる政論として正しいのかどうかは別だが、少なくとも筋が通っていよう。


 さて、これとは別にkmizusawaさんのエントリに投稿したところ、以下のようにお答えがあった(http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20070128/p1。)そこで、発端となった北海道新聞の元記事を再掲して考えてみる。

女性は「産む機械、装置」 松江市柳沢厚労相  2007/01/27 21:33
 柳沢伯夫厚生労働相は27日、松江市で開かれた自民県議の決起集会で、「産む機械、装置の数は決まっているから、あとは一人頭で頑張ってもらうしかない」と女性を機械に例えて少子化問題を解説した。

 柳沢氏は「これからの年金・福祉・医療の展望について」と題し約30分間講演。出生率の低下に言及し「機械って言っちゃ申し訳ないけど」「機械って言ってごめんなさいね」との言葉を挟みながら、「15−50歳の女性の数は決まっている。産む機械、装置の数は決まっているから、あとは一人頭で頑張ってもらうしかない」と述べた。

 厚労省は昨年12月、人口推計を下方修正。この時、柳沢氏は「子どもを持ちたいという若い人たちは多い。その希望に応えられるよう、できる限りの努力をしていきたい」と話していた。


 この短い記事の中、どこにも柳沢大臣の講演要旨が載っていない。他者の報道でもそうだ。どのような文脈で「その用語」を使ったか、全くわからないのだ。ここに見て取れるのは柳沢大臣の話していた文脈ではなく、引用した北海道新聞の文脈だけである。したがって、はてなブックマーク - 北海道新聞 社会 - 女性は「産む機械、装置」 松江市で柳沢厚労相の、


youarai

厚労省は昨年12月、人口推計を下方修正。この時、柳沢氏は「子どもを持ちたいという若い人たちは多い。その希望に応えられるよう、できる限りの努力をしていきたい」と話していた」口から出任せだった、と。


 これが普通の読解であろう。講演の文脈ではなく、この記事の文脈からすれば、そのように読める(記者は読者にそう読んでもらいたい)という文脈である。しかし読者は、いったいこの記事から、記者が誘導する文脈どおりのことを柳沢大臣が語っていたかどうか、どうやって確かめたらいい? この記事は、これだけでは印象操作、情報操作と言われても仕方ないレベルの記事なのだ。もっとも、youaraiさんとしては「そう言いたい記事なんだろうが、それを確認できるソースも付けない報道姿勢」に唖然としているのか、記者に導かれるまま、記事の文脈を講演の文脈だと断定して唖然としているのか、そこまではわからないが。その意味で、私の先のエントリに対するブクマのコメント欄はてなブックマーク - 女性ハ神聖ニシテ侵スベカラズ - Backlash to 1984の中、


oono_n

同じ「用語」でも「どんな立場」で「どんな文脈」で使われるかによって「意味」や「内容」は変わってくるものなのだが、それをゴッチャにして論じている時点でアウト。論外。


 oono_nさん(以下、大野さんと表記)はそう言われるが、それはご自分のことではないか。いったい大野さんには、ご覧になった記事の中から、どうやって講演の文脈を知ることが出来るのだろうか? 記事の文脈を、記者が導くとおりに大臣本人の文脈だと「ゴッチャにして論じている時点でアウト。論外」であろう。大野さんからは私のTBへの返信として新たなエントリをTBしていただいたが、それについては別稿としたい。


 そこで、もっとも多く目にするのは「政治家としての資質を問われる」である。これは、確かにそうであろう。まず問題にされるべきは「報道機関としての資質を問われる」ことだと私は考える。しかしそうは言っても、これは報道の悪弊の常のこと、こういった場合にもどう対応するかで、「政治家としての資質を問われる」ことにはなろうか。また、そんなに難しく考えずに「失礼と思われかねない言葉をヒョイヒョイ口にしたり、そのことで弁明に追われているような政治家は、大臣などのような要職にふさわしくないのではないか」などである。


 しかし、ならばそれはそれで追求すればいいだろう。が、根底怪しげな記事を垂れ流して世論を誘導し政敵を貶めようとする行為は、報道機関としてどうなのか。そのような報道に煽られて扇情的になる世論のあり方はそれでいいのか。それもまた問うべきだと私は考えたので、それもあって先のエントリを書いたが、いまひとつそのことは書けていなかった。ご指摘くださった方々、ありがとうございます。以上のことをふまえて、「政治家としての資質を問う」というときの、その「問い方」を考えたい。


1.報じられた内容の鵜呑み。
2.そう言ったのなら、こういう考えのはずだ。
3.こういう考え方の政治家は許さぬ。その資質を問う。


 このような問い方は、OKなのだろうか。それは何かを問うているのだろうか。いや、何も問う気はないのではないか。叩きたいところへ叩ける口実が出てきたから飛びついただけだろう。あるいは確信犯で「ほら!こんな人ですよ!徹底的に叩きましょう!」と扇動しているだけであろう、運動員が。権力者の誘導で世論が誤る場合もあるが、活動家や報道の扇動で世論が誤る場合もある。歴史には、どちらもあるであろうに。


 同じような表現を用いても、あるいはもっと確信犯的にひどい表現を用いていても、それがフェミニズム運動の側から出てくるときには不問、あるいは悪乗りして大歓迎。しかしこの程度のことでも保守与党から出てくれば、真意も問わず文脈すら明示せずに世論を誘導して糾弾。そもそも柳沢発言、さほどに悪質なものか?そこで問われる「資質」とは、どのような「資質」なのか?


 それをあたかも、女性に対する不敬罪だと言わんばかりの中傷。男女共同参画社会とやらを、あくまで自分たちの男女観、自分たちのイデオロギーによってでしか運営させまいとする、政敵の追い落とし活動。このような薄汚いやり方が非難され、その批判に請合おうともしない連中が政策現場から放逐されることは、理の当然である。