「自虐現代観」あたりのこと。

 最近、はてな内で「自虐現代観」なる揶揄の言葉がそこそこ人気を博しているらしい。いわゆる「はてなサヨク」の人たちの間であるが(はてなブックマーク - 自虐現代観という言葉を知る - opeblo)。しかしこれは危うい。「今の世の中、おかしいじゃないか。何が悪くてこんなになったろう…」と過去を探ると、自虐的なんだろうか。というか、「はてなサヨク」って実は保守なんだろうか。そうかもしれない。私の子供二人、小学生だが、ふと思った。この子たちが受けている教育は、彼らの祖父母も、両親も受けた教育である。「教育基本法改悪反対」というのを、団塊世代の人で「全共闘運動以来、自分はずっと左翼ですよ」という人が言うんならまだしも革新の残り香があるんだろうけれど、若い人でそれを言う人は、たぶんすごく保守的な人なんだろうな、と思う。


 「ふん、何が自虐史観だ。そういうあんたらこそ、自虐現代観じゃないか」…じゃぁ、そう言ってる人、そんなに現代に肯定的なのかと問われたとき、「えぇ、そうですよ。今あるものを大事に、生まれ育って覚えたものをまず大切に思う。祖父母も父母も大切にしたそれを受け継ぐ、そこからですよ」と即答できるのだろうか。そう即答できるのであれば、それが保守的ということなのだ。復古革新など認めるものか、そう言えばいいのであって、「保守派は云々」などと、さも自分は進歩派のように言うのはやめたほうがいいだろう。


 だがしかし、年代的に言うと、昭和十年代生まれで就学期に戦後教育に当たった人を祖父母に持つ人が、戦後教育三世である。江戸に三代住めば江戸っ子という習いに合わせれば、今の小中学生が、そろそろ三世だろう。しかしブログの「はてなサヨク」の人たちは、もう少し世代が上だと思う。この辺で少し、無理があるのではないか。保守的なのに保守派を自認できず、既にある保守派が復古革新に期待するのに不安で不安でたまらない…そういう二世の悩み、そういうことなのかもしれない。


 いわゆる「自虐史観」なる揶揄が登場して広まりだしたのはいつごろだったろうか。私の記憶では、確かこれ、「サヨク」という言葉と同様に呉智英氏が自著で用いた造語が初出ではなかったか。そこらへんがおぼろげになってしまっているのだが、小林よしのり氏が「実は自虐ではなく他虐」と喝破したあたりから、いよいよ広まったように記憶している。「自虐」には言い得て妙であった面もあるが、戦時犯罪や政府の失策無策を批判するのが何で自虐なのかという反論にも、力があったはずだった。ところが「他虐」と喝破されて以降、どうも失速していったように思う。結局のところ、反省反省というけれども少しも自省ではないではないかという指摘が見事すぎて、返す言葉を失ったままのようだ。戦後すぐ小林秀雄が「利口な奴はたんと反省するがいい。僕は馬鹿だから反省などせぬ」と言って当時の反省家たちの顰蹙を買ったらしいが、当時ほんとに反省の仕方を自省していれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。


 自虐史観と言うなら、あんたたちは自慢史観だ…そういう反論があったように覚えている。あれはどこへ消えたろう。自虐現代観?なるほどそうだとして、するとどうなのか。小林よしのり氏が揶揄したように、所詮は他虐であって、要するに我こそサディストだったとカミングアウトかね。「あはは!おまえら俺たちをマゾヒスト呼ばわりしやがったが、おまえらこそ真性のマゾヒストじゃねぇか。あぁそうとも、俺らはほんとはサディストだよ、見てりゃわかるだろう、今ごろ気付きやがって。真性のサディストとは、こういうものだ。よく覚えておけ、サド気取りのヘタレマゾが!真のサドはマゾを演じることが出来るんだよ、知らなかったのか?」…そういうものかもしれん。被虐快感をマゾヒズムというのだから、実は自虐史観ではなかった。加虐快感をサディズムというのだから、自虐史観のほとんどは実はサドだった。その証拠に、現代社会の世相を憂える意見を聞くと罵倒と嘲笑で悪ふざけ。あぁ、そうか、やっぱりそうだったか…ということでFAなのか。


自虐現代観という言葉を知る - opeblo

道徳心がない」「醜い自己本位の世」と今の日本を悪く言う「自虐現代観」を押し付けられたら、子供達が愛国心を持てなくなるよ!…って誰か言わないのかな。


 言うわけないだろう、そんな皮肉で何か言ったつもりになるならただの阿呆だから。「愛国心を持つのは大事だ、しかし憂国や厭世の情ばかり大人に言われたら、子供は自国を愛せなくなるじゃないか」…という方向性で言うんならわかるが。あるいは現代社会に強く不満があって何か革新を企図している人間が、「動機は同じでも問題視するものも結論も違います」と言うならわかるが。しかし「自虐現代観だ!」と来るかね、するとあなたは現代社会にそんな深刻な問題はないはずだとの認識なのかと思うに、なるほど現代にそんなに問題はないと思っているらしい。それなら話は簡単で、つまるところ、問題意識を共有していないだけのことなのに自虐呼ばわりか。要するに守旧派じゃないか。愛国心と聞けば軍靴の足音が聞こえる式の守旧派じゃないのか、違うかね。


 SM大喧嘩にはウンザリだが、tonmanaanglerさんが歴史感覚 - 国家鮟鱇の中で書かれている以下の部分に、私は同感なのだった。

俺が一番気になったのは、「鎖国状態」の日本に価値を見出した発言の後に、諸外国と比較して自国の子供が劣っていることを嘆いているところ。日本の子供には日本の子供なりの良いところがあるから、それを育てようという「国風文化的」方向に向かわないのが不思議といえば不思議。


 思うにこれ、長所と短所のどちらが気になるのか…ということとすごく関係しているように思う。常々、日本人の子育てや教育の傾向として言われていることに、次のようなことがある。得点主義ではなく減点主義、良いところを伸ばそうとするより悪いところを矯正しようとする…つまり、人にはないところではなく人並みに仕上げようとする、ということだ。この点で保革左右、復古派も進歩派も、どうにも欠点矯正主義の印象が強すぎるように私には思える。


 その点で件の藤原氏http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/column/seiron/34073/は、この国の個性的な良さをこそ伸ばそうじゃないかという方向性を私は感じる。いったいこれに反発するサヨクは、日頃の個性尊重論はどこへ行ったのか。またしても口ばかりのお題目だったか、との印象を持つのであった。なるほど藤原氏の昔語りには粗が多い。年配者の郷愁による、思い出の中の美しさ、それもあろう。だから何なのか、事実の誤認についてはそれはそれで正せば済むこと。やみくもに粗を探して揶揄し、針小棒大に木を見て森を見ずの罵倒をして、それで何になる。産経新聞に載っていることは本旨がどうでも非難せねば気が済まないか。よくそれで個の尊重などと言えたものだ。藤原氏のものは、日常のささいな礼儀や気遣いなどを今一度、その大事さを見直そうとのものである。


 ただし、それをして世界に誇るとかまで言われると、私は白々とする。なにも、よその国の人と比べて誇らんがために、こうした日常のことがあったわけではないだろう。世界に誇るとか、そんなことを気にして何になるかとは思う。だけど、そういう異論はあるが、彼がここで訴えたい内容の大筋は、そんなに嘲笑の対象になることとは思われない。嘲笑している奴は、何のつもりなのか、さっぱりわからない。叱られた子供が、「けっ、年寄りの昔話かよ」と毒づいているだけの話だ。いい年した大人が「あー、でもボクのアタシの読んだ本では、昔にもこういうことがあったと載ってるけどね」と読書自慢をしているだけではないか。


http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20070111
 実に痛快な文章である。しかし痛快ではあるが、それ以上のものではない。なりより、せっかく痛快なのに、くどい。ヒステリックだ。途中で嫌になる。要するに、藤原氏の文にインスパイアされて、それとは別に見事な風刺を書いたとは思えるが、それまでのことだ。藤原氏があのように言わねば、この風刺も生きてこないのだが、結局のところ藤原氏の言うことを裏返してやったというにとどまっている。藤原の明子がせっせと、ちゃぶ台に昔なじみのメザシご飯と大根の味噌汁を盛り付けたら、星一徹よろしく威勢よく引っくり返したということだろう。小気味いいかも知れないが、明子がそっと片付ける不憫さに涙する人の心は動くまい。


 対して、同じく産経紙上であっても社説http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/column/shuchou/34145/のほうは、個人を尊重するからいけないんだと言わんばかりの口吻である。「個人の尊重はいいが、ほんとにその個人の個性を尊重していたことになっているか」とか、「尊重と放任は違うんじゃないか」とか、そういう主張ならわかるのだが、どうもそうではなさそうだ。底が浅い意見だと私は思う。たとえば、

数学者の岡潔は、幼少時に祖父から「自分のことは後回しにしなさい」という戒律を与えられたという。


 誰が個性的と言って、岡潔ほど個性的な人もそうはいまい。祖父からそのように言われたからあんなに個性的になったのでそれがよくなかった、とでもいうのだろうか。あんなに個性的で、個人として屹立している人が、「自分のことは後回しにしなさい」という祖父の戒めを大切に守っていたことと、個人の尊重とは、背理ではないだろうに。続けて露伴の言葉を引くけれども、産経新聞社として戦後の風潮を難じたいのはわかるが、個人を尊重するからこんな風潮になったのだという文脈に岡潔露伴のような独立気概の人士を持ってきては、矛盾もはなはだしいだろう。こうやって自説の主張のために、安易に世の中の風潮のせいにすることこそ、批判されるべきだろう。なんでも世の中のせいにして、自分の言いたいことも自分の意見としては言えないような人になってしまってはいけませんよ!とかね。