神話とテキスト

 私が最近、あらためて注目しているのがアイヌの神話である。これは主に近現代に入ってから採集されたもので、本来は口伝であり、それを文字によって書き記したものがテキストになっている。最初は和人によって、後にアイヌ人みづからも手がけるようになったものだ。ただしアイヌ人は自前の文字を持たなかったので、実際のところ、近現代に採集されたものが古代そのままの神話である確証は、ない。アイヌ神話と日本神話(ここではいわゆる「記紀神話」を指すものとする)の比較には興味深い点が多々あるのだが、ここで注意しなくてはいけないことがある。両者のテキストの間には(成立年代において)千年以上の時間差があるということだ。


 このことを常に頭の片隅に入れておくように私はしている。近年では「アイヌ人はほぼ縄文直系」という有力な説の影響もあって、ややもするとアイヌ文化にダイレクトに縄文文化を見出そうとする向きもあるが、安易な投影には危ういものがある。和人とアイヌ人の共通の祖先として縄文人があるとは言えるが、ともに他の異なる民族との混血、他の文化の受容や混交もあって、別々の民族形成があったというほうが適切であろう。それをおくとしても、西暦20世紀にアイヌの古老が語り伝えていた神話が、縄文時代そのままであるはずがない。和人が経験したのと同じだけの時間が、アイヌ人にも流れていたのだから。*1


 以上のことをふまえてなお、アイヌの神話には、具体的に日本神話に類似する話が多い。天地開闢の様子とか、日と月が姉弟であることとか、日の女神が閉じこもる(閉じこめられる)話とか、男女の営みをセキレイが教えるとか、国土造成神が活躍する様とか。縄文以来というモチーフは意外に多く残っているのかもしれない。もちろん基本的には、より後世に確立されたものが多いのだろうが。アイヌ神話について非常に読みやすく紹介しているサイトがあったので紹介しておこう。
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 アイヌに限らず口伝の神話は、深く祭祀や信仰にかかわることとて、その「語り」には厳密な正確さが要求されてきたのが通常である。アイヌ神話にも、文字化され記録に残るようになったのは極めて新しい時代という面があるけれども、国家の祭祀や国政上の要求課題などからの変質を免れていたという面もある。とは言え、当然に話者のその場の創意や、神懸かって新たな託宣の類を口にすることだってあったろう。また、語り違えなどもあったろう。それに、たとえば釈迦や孔子やイエスが語ったことと違い、そもそもが「もともとは、ひとつだけのオリジナルがあるはず」ではないのである。ある時代において同時代的にもヴァリエーションがあり、そしてそれらは時間を経るごとに変わりゆくものでもある。そもそも口伝の神話や伝承というものは、それが生きた姿だと言っていい。心理学者の林道義氏の言葉を借りると、神話伝承を文字化するということは、その時点でカメラのシャッターを押すということである。


 確かに古文献は貴重な記録であるが、もし記紀等の古典をもって聖書か経典のように考えるのであれば、それは神話の伝承について本来の姿ではない。*2ここに「本来の」というのは、何か唯一のオリジナルがあってそれが「本来の」だということではない。もちろん祭祀や信仰のうえでは、極力「自分勝手な創作」は慎まれるであろうけれども、だからといって「ある時代に文字化されたテキスト」は、たとえ内容が極めて同時代的に正確な採集であったとしても、教祖や聖人の言行録とは異なり「そもそもいろいろあって、それぞれ伝えられるごとに変わりゆくもの」であるのが本来の姿だ。その点で、『古事記』にあるような一本化ではなく、本文として採用した以外の多くの異伝を採録した『日本書紀』神代巻の編集方針は、もっと再評価されるべきだと私は思っている。なぜなら、神話伝承に「唯一のオリジナル」を求めず多くの異伝があって当然のように採録していること、そのことで編集当時の同時代的な各伝承について、『日本書紀』は同一テキスト内においても比較論考を可能にしていることがあげられる。もちろんこの書が採録していない伝もあるのではあるが、それは他の史料に求めるべきであろう。*3


 その点では、おそらく国政上の影響といっても国家祭祀のうえでの影響はあるであろうが、すべて編者が机上に創作したのであろうとの説は成り立たない。それをするなら一本の物語を創作すればいいのであるから。正史に編纂の記事が載っていない古事記はさておき、国家事業であった日本書紀編纂において、なぜあのように異伝の多くを採録しているのか。なにやらお手盛りの正当性や美化の類で物語を造作させようとしたのであれば、「案がいっぱい出て、とうとうまとまらなかったので、出た案は全部、載せることにしました」などと史官が奏上して裁可されるとは、到底思えない。それどころか編者による「ここまで調べたがよくわからなかった。後学に期待する」という風な注釈すら散見される。もちろん現代のような自由な研究ではなかっただろうし、学問の進展による成果をふんだんに享受できる私たちとは違って多くの制約はあっての編纂ではあったろう。このようなささやかな一文を目にすると、私なぞは歴史学徒の一人として、はるか千三百年前の先輩に労をねぎらい感謝の念すら覚える。


 実際には、彼らが採録した神話群の多くは、周辺諸民族のものと比較して不自然なものはあまり見られない。それは王権の由来を語るような政治的要請の強い神話であっても、後世に謂う満蒙の地や朝鮮半島諸国のものと比べて、発想や構成が類似していることが挙げられよう。しかしそれだけなら、当時において普遍的だった観念を為政者が移入して用いたものにすぎぬとの判断もありえようが、しかし内容の素材そのものには極めて南方色の強いものが多いことも考えなくてはいけない。漢土や朝鮮半島から伝来していそうなものばかりであればともかく、編纂に当たった宮廷の史官たちは国家的な通商の無い南島方面や北方海洋方面などをもあまねく調査して、日本列島には見られないものばかりを採集して机上に造作したとでもいうのだろうか。そんなことはありえまい。


 たとえば「なぜ太陽神が女神なのか」とよく疑問に出され、「女神なのは不自然だ」と思われることがある。そこで「元は男性の太陽神に仕える巫女神が日神そのものになったのであろう」とか「女帝の時代に、政治的に改変されたのであろう」との説が唱えられ、意外に人気がある。しかし、既になされた先行研究からすると、「日の女神」というのは日本唯一なのではない。太平洋の西海岸一帯に幅広く存在している。そもそも日神(あるいは光明神)が男神なのは、西からいうとエジプトのラー、ギリシャアポロンペルシャアフラ・マズダ、インドのスーリヤ…というラインである。なにしろ名うての古代文明圏であって、これが目立つのは無理もないが、地中海〜インド洋北岸というこの「日の男神ライン」とは別に、西太平洋沿岸には「日の女神ライン」があって、ちょうどカンボジアあたりが融合地点である。古代のカンボジアの国王の名にはスールヤヴァルマンなどバラモン教に由来する名が見られる。日本列島はそのはるか北方に位置し、記紀をはじめとする古典文献であれ、アイヌの古老の語りであれ、太陽が女神なのは不自然でも何でもないと考えられるのではないかと思う。


 神話研究の第一人者であった故・松前健博士は多くの優れた論考を残し、私も大変に学ばせていただいているが、博士は「日本にも日の男神があって、もともとはそうだったのではないか」との論を変えなかった。松前説は多くの目立たない古伝から考証されたもので考課に値するのであるが、どうも終世、「女神なのは不自然だ」との先入観をぬぐうことはなさらかったように思われる。それより、天照大神男神説は、古くから何度か立ち現れては一時的に流行するものの、やがて下火になった説だということに私は注目している。1度目は仏教の影響(中世)、2度目は儒学の影響(近世)、3度目は西洋近代思想の影響(現代)によるものである。この天照大神男神説についての論考は、いずれ書きたいと思っている。

*1:上記では近年の研究成果の副作用を書いたが、「日本列島の先住民はアイヌ人だったが日本民族が征服した」との言説そのものは戦前からあって、海外の史家も何気なくそう思っていることがある。たとえば優れた史論を残したブローデルにもこの種の表現がある。しかし、縄文時代から弥生時代への転換期に、「日本民族」も「アイヌ民族」も「朝鮮民族」も、すでに後世のごとくに成立していたかのような見方は適切ではないだろうと考える。なお、この件に関しては小熊英二単一民族神話の起源』を参照。同書には、戦前に「混合民族論」が好まれ戦後に「単一民族論」が好まれた経緯について重要な指摘がある。私の上記のことも、今なぜ縄文ブームでありアイヌ憧憬かということについてのことと関連するものであるが、ここでは最低限の指摘にとどめる。

*2:なお、現在の神道でも、記紀等をもって神典とする立場と、あくまで貴重な史料であるとする立場と、二通りあるようだ。私は後者の立場である葦津珍彦・上田賢治・近藤敬吾の先賢の著書から学ばせていただいた。信仰のありかたのひとつとして神典視を私は非難するものではない。が、それは神典視する立場から新たに唱えられた宗教と見るべきであって、それをして「本来の」とする意見には批判的である。

*3:なお、『古事記』の価値は別にある。まだ日本語を表記する方法がなかった時代に、万葉集のような詩歌はともかく、同時代の神話から選出して一本の長大な叙事詩をつくり、それをできるだけ和語で表記しようとの試みである。これは和文体の創出の試みなのだ。したがって『古事記』にのみ見える叙情性の高いエピソードも多い。このことを重視した本居宣長は卓見の人であったが、しかしその反面で彼が漢文の『日本書紀』を斥けてしまったように、『古事記』偏重は別の幣を生むことになる。『古事記』をこそ唯一真正の古代日本の姿だとみなしてしまうことだ。だがあれは優れた文芸書であって、古代日本の神話伝承の古文献としてはone of themであることを失念してはなるまい。