憂国のつぶやき(小熊英二氏が語る)Ⅱ

 例のヒノキミ問題について、憂国のつぶやき(小熊英二氏が語る) - Backlash to 1984の続き。というか、小熊さんに話を合わせすぎて、いまいち書き損ねたところ、はしょっちゃったところがあるので、それを言おうと思う。


http://www.jukushin.com/article.cgi?k-20070101

本の学校の国旗国歌問題でも、「こんな事をしていたら日本はアジアの中で孤立してしまう」という信念で反対している教員の方が、文科省の命令次第でどんな旗でも揚げる校長よりも、国の未来を真剣に憂いている「愛国者」かもしれない。


 ここね、そうそうヒノキミ闘争のアカ先生も強烈な愛国者だよね、と俺が同意してるのは、皮肉でも何でもなくて、実際にそう思っているから。そして、小熊さんもそうだと思うんだけど、俺も「だから、良い」とは思っていないから。だけど、そんだけで終わっちゃって次に話を進めちゃったので、「こういう問題があるよね」というところを書けてなかった。それは、自国のこと、しかも自分たちの愛国しか考えてないでしょ、ということ。


 「こんな事をしていたら日本はアジアの中で孤立してしまう」という信念ね、でも「中国と韓国だけがアジアじゃないだろ」ってことが挙げられるでしょ。あれは近頃はよく「特亜」とか「特定アジア」って言葉で揶揄されてるように、いろんな人が言ってることだから、ここではそれはおいとく。話を中国と韓国に限ることとして、両国には今、ウルトラナショナリズムといっていいほどの気運が抬頭してるでしょ、あれはどうなの?という問題のほうが大事だと俺は思う。両国内でそれを危惧している人の声が、売国奴呼ばわりされて言いにくくなってる事情とか。一部の過激分子の声が両国民の全体的なトーンだと思われると困る、とか。そういう中で、必ずしも親日的な人が罵声を浴びせられるとかだけじゃなくて、国内の政争に利用するかたちで反日感情を煽ることへの危惧とか(政敵を「対日姿勢が軟弱だ!」として貶めたりとかね)、自国の民族感情が尊大になって慢心していくことへの危惧とかね。両国内でも、実際にはいろんな声がある。たとえばさ、最近の記事だけど、


http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2007/01/12/20070112000064.html
 朝鮮日報って言えば、韓国を代表する新聞だけど、別に親日派じゃないよね。でも、こういう冷静な記事を東京特派員が伝えてるわけね。母国の読者に、冷静な対日観察と、そして自国の現状への問題提起を呼びかけてるわけ。「憲法改正で日本はアジアから孤立します!」なんて意見、韓国人にも通用しないよ、言っちまえば。というか、良識的な韓国人にも迷惑な話だろう、そういう利用のされ方は。もちろんこの記者は、日本の憲法改正に「賛成です!」ってことじゃないだろうよ。「何の懸念もありません!」でもないだろうよ。この記者の言いたいのは、憲法の改正と言うのは、それだけ長い年月をかけないと無理なんだ、ただ一時の政争で政敵を打ち倒すために条文を軽々しく変えるようなことだとダメなんだ、ということね。それと「日本が急激に右傾化してる!」みたいな単純な目で見ちゃいけないよ…と母国の人に歴史的経緯も伝えているわけ。反日意識で凝り固まって、侮るような目で見るなら、そっちのほうが韓国にとっては問題なんだ、という視線もあるように見える。


 そういう人たちにとって、ヒノキミ先生に代表されるような人たちが盛んに「ほら、中国や韓国でこんなに日本に対して怒っていますよ!」的なかたちで反日暴動ばかりが報じられ誇大に扱われていることには、「そういうのばっかり流さないでください」って言いたいらしいよ。そもそもヒノキミ先生の活動が中国や韓国の人の好感を持って迎えられているとか、その処分に中韓両国の人たちが憤っているとか、聞いたことある?ないでしょ。ヒノキミ先生が処分に抗議して「こんな事をしていたら日本はアジアの中で孤立してしまう」という信念を持ってるとしたら、それ、ぜんぜん違うから。「こんな事をしていたから自分達は、アジアはもちろん日本の中でも孤立してしまった」と素直に反省すべきなのであって。はっきり言って、そういう信念を持っている人ほど、中国や韓国の国内事情やその問題とか懸念とかに無関心だし、そういうことを心配している両国の人たちのこと、何にも考えていないよね。見てると、反日暴動が起こると嬉々として「ほら見たか!」って感じの人もいるでしょ。自分たちのイデオロギーとか、反体制運動に利用してるだけ、ってことも多いじゃん。そういう意味で、上記引用箇所に続く小熊さんの結語の箇所だけど、

 国の未来や公共の事を考える力を養うのが教育の目的だというなら、それ自体は賛成してもいい。しかし、もしそうであるならば、国の未来を考えて政府の方針が間違っていると判断したら、それを表明する権利も認めるべきだろう。しかし今回の基本法改正が、そういう性格のものとは思えない。


 「国の未来を考えて政府の方針が間違っていると判断したら、それを表明する権利」を奪うなんて、改正法のどこに書いてあるのさ。そういう運用を意図するものじゃない、って改正派は誰でも言ってるわけじゃん。いい加減な言いがかりをつけちゃダメだよ、小熊さんらしくもない。そうじゃなくって、「反戦運動で日の丸掲げる愛国心が、何で想起されないんだろうか」と考え始めている小熊さんとしては、もしかしたら、自分としては決して賛成できないヒノキミ先生をも「しかしそういう貧困な国旗国歌観であっても、その表明の権利と自由は奪われるべきではない」と思ってるのかもしれない。そうであれば、そのことからくる小熊さんの問題意識をこそ、はっきり書くべきだよ。小熊さんの著書を読む限り、私は小熊さんがそういう政治信条の人のように推測しているけど、それは好意的に読んでの推測でしかないから。


 でもね、もしその推測のとおりだとしてもだよ、小熊さん。そこで問題なのは、愛国心なり国旗国家観の「貧困さ」とかじゃないんじゃないかな。公務員たる教員が、公務である教育現場で、でしょ。その先生が、「国の未来を考えて政府の方針が間違っていると判断したら、それを表明する」のはすればいいじゃないか、というか現にしてるし、それで処分されたなんて話も聞かないでしょ。でも今後そういうことが教員には制約がかかるのではないか…と懸念してるのなら、どういう理由でそういう懸念が出てくるのか、「そういう懸念は杞憂だろ、と思っている人はこういうとこが見えてない」と思うなら、それだけの根拠を示して書くべきじゃないかな。


 だってさ、「国の未来を考えて政府の方針が間違っていると判断したら、それを表明する」としてだよ、それと国旗掲揚・国歌斉唱とが、どう結びつくのよ。仮にだよ、薬害問題をめぐる政府の対応に非常に反感があって日本の将来を憂えるとするよね、そしたら国旗を掲げさせないとか掲げても着席のまま抗議の表明をしますとか、何でそうなるの?いちいち教員は、そのとどきの政策をめぐって賛成であれば国旗を掲揚し国歌を斉唱し、反対のときは国旗と国歌に抗議の意を表すわけ?…そういうのは、ごく単純に言って「考え方も態度も間違っている。そういう誤ったことを子供に教えちゃいかん」のじゃないの?ってことにしかなんないじゃん。


 日の丸は政府の旗ではないじゃん。ましてや何らかの政策をめぐる党旗でもないじゃん。そこが間違っているんだから、それを間違ったまま教えちゃいかんよと指導される、その指導に従わずに処分される、それは当たり前じゃないか。ここでちょっと極端に言うと、「でも自分は発想が貧困と言われようが教育として間違っていると言われようが、この運動を続けていきます」と思うなら、もちろんそれは思想の自由も政治活動の自由もあるんだから、国旗国歌への反対運動を、教職を辞して活動していけばいい。そうして国旗国歌への反対運動をしたからと言って逮捕されるわけじゃあるまい、「国の未来を考えて現在の国旗国歌が間違っていると判断したら、それを表明する権利」は奪われてないじゃん。


 でもそんなに極端に考えるようなことかとも思うんだよ。一教員として生徒の前で、日の丸君が代への嫌悪感やその理由を個人的に言いたければ、一つきちんとした方法があるよね。「先生はこういう思想の人なので、日の丸君が代については、こういう意見を持っています。反対意見としてこういう意見もありますが、先生はそれにはこういう反論があります。ですが、ちゃんと式典では国旗国歌に表敬します。それも大事なことだと、これは一教師として、みなさんに学んで欲しい」とすることです。要するに先生には、いろいろな選択肢がある。権利も自由もある。そうじゃないかな。俺が思うに、小熊さんは、そういう意見ですらダメ出しを喰らうんじゃないか…と懸念しているのかもしれんけど、そこがイマイチはっきりしなかった。


 小熊さんのは、ここんとこで、ことなる次元の話をごちゃまぜにしているから、わかりにくくなってると思う。今回の法改正で小熊さんが懸念してるのは運用面でのことのはずなのに、それが書けずに終わっちゃっていると思うよ。たぶん、実際には誰の目にも明らかなように、日教組のヒノキミ反対運動を狙い撃ちにしてるのは明らかだと思う。小熊さんとしては、ヒノキミ先生のイデオロギーやその国旗国家観への批判的な意見もあるようにも見える。だけど小熊さんは、そういう意見でも表明の権利と自由を守りたい…と言ってるんじゃないかとも思える。それならわかるけど、今あるようなヒノキミ闘争については、そういう政治活動をする場じゃないだろう学校は、とも思うよ。