ジェンダーフリーはなぜ叩かれたのか

このようなことを考えている人がいる(私にも話させて)。

ジェンダーフリー・バッシング」(以下、「」は省く。どう呼んだらいいのでしょうか)の力が強くなっている原因について最近考えている。ジェンダーフリー・バッシングを表立ってやっている連中よりも、本来声を上げるべき人々の沈黙・黙認について考えたい。

しかしジェンフリ派はこのようなことを言うのだから(私にも話させて)、叩かれて当然であろう。

美しい国へ』を読みながら、子供のいない安倍が、子供を持つことの大切さを語るくだりで笑ってしまったが、「ヒトラーのように金髪で、ゲーリングのようにすらっとやせていて、ゲッベルスのように筋骨たくましい」人種的に純粋な子供を育てようというドイツ人の冗談(クーンズの紹介による)のように、イデオロギーの必要性は政治家個人の現実を乗り越える。安倍などある意味では「家族」イデオロギーの被害者だと思うのだが。


 子供を持たない人が子供を持つことの大切さを説くと、それがなぜ「笑える」のか私にはまったく理解できない。はて、人権意識とはそういう感覚だったろうか? ましてやそれが、見栄えのしないナチス幹部が美貌のアーリア像を称揚したのと同じように皮肉なものだという感覚は、正気の沙汰とも思われない。件のドイツの冗談も、その人の容姿に関する揶揄であるからあまり筋の良いものとは言われないが、なにせナチのぶち上げる理想のアーリアとやらがあのようなものであったから、それをブラックジョークとして笑える余地はあるのである。


 子を生み育てるのは大切なことだと説くのと、金髪碧眼で屈強な身体を持つアーリアが世界を支配せよとの煽動とが、同じであるはずもないではないか。一般の人がジェンフリ・バッシングを「黙って見ていた」のではない。おぞましい狂気を秘めた政治運動が出てきたから、ジェンフリを叩いたのである。台頭期に叩いておくべきものは叩いておかないと取り返しのつかないことになるとわかっているから、一部のリベラルからも叩かれたのである。


 もちろん、リベラルのすべてがジェンフリを叩いたのではない。それどころか、ジェンフリの説く改革とやらに夢をかさねたり希望を感じたリベラルもまた多かった。これもまた、当時のドイツのリベラルの中にも、ナチにそこそこシンパシーを感じた向きがなかったわけでもないのと似ていよう。ユダヤ人の排斥に「そこまでしなくても」と思いつつ。ファッショが真新しい期待であり「古いドイツを新しいドイツに変える」ことへの希望に見えたということと、ジェンフリへの期待や希望もまた、似ていよう。


 「なぜリベラルは黙って見ていたのか?」…そのとおりである。多くの自称リベラルは、ジェンフリ派のむき出しな暴力性や権力主義や全体主義的傾向を目の当たりにしても、黙って見ていた。ただこれまでの男女観や家庭観を大切に思っているというだけの人たちに対してさえ、「時代遅れもいいとこ」「そんな古い考え方が差別そのもの」「「あんな連中がいるから日本はいつまでも良くならない」「悔しかったら法律や条令を変えてみろ」などなどの言辞も珍しくはなかったのに、黙って見ていたではないか。なぜ黙って見ていたのか。いいこと言ってると思えたから?自分と価値観が同じようだったから?自分の政治信条と近く思われたから?自分の被害感情をまさしく代弁してくれているように思えたから?ジェンフリ運動者のあられもない言動も「よくぞ言った。ざまぁ見ろ」とばかりに胸のすく思いがしたから?


 おそらく上記のエントリは、ナチの台頭期にリベラルなドイツ市民がユダヤ人迫害を黙って見ていたことに、ジェンフリバッシングをなぞらえてのものであろう。が、それでいうなら、ジェンフリ運動はユダヤ人ではなくナチス運動に相当する。ジェンフリ運動がナチス運動と、主張の内容が同じだというのではない。しかし、ある人がユダヤ人であることは政治運動ではない。自分がユダヤ人であろうとするのは先祖伝来のものを大事に受け継ごうとしたまでである*1。したがって、ある人がその民族的出自を口実に排斥されたり迫害されたりするのは差別である。対して、世の人に観念の刷新を求める政治運動が反対者の批判にさらされるのは当然の成り行きであって、それ自体が差別であろうはずもない。世の人に観念の刷新を求めるのが悪いわけではないが、自分たちの運動が世の人の支持を受けなかったのは自分達の失敗であって、それをユダヤ人迫害に擬するのは、ナチの被害者に対してはなはだ失礼であろう。


 さて、ジェンフリはともかくとして、親子のことで「子の無いあなたが、なんでそんなことを言えるのだ」と言われる話としては、このようなエピソードがある。江戸期を代表する儒者の一人であった山崎闇斎が、会津藩に仕えていたときのことだ。『森銑三著作集』第8巻の「山崎闇斎」から引くが、引用文中の「嘉右衛門」とは闇斎の実名である。

 闇斎が他の儒者達と、会津保科正之に侍坐してゐたときのことである。正之が、『論語』の「父母はたゞ其の疾(やまひ)をこれ憂ふ」の章に両説のあることを挙げて、「一方に片づけたいものだが、いかゞであらうか」といつたのに、闇斎は、「両説共に一理ありますので、俄かに一方に極めるわけにはまゐりませぬ」と申し上げた。すると儒者の一人が横から口を出して、「嘉右衛門殿は御子がないから御存じあるまいが、拙者などは子供を持つてござれば、子を想ふ情はよく分つて居ることでござる。父母は病をしようかと憂ふると説く方が適切でござらうと存ずる」と、憚りもなくいつた。それを聴いた闇斎は、静かに答へて、「なるほど拙者は子供を持ちませぬから、その趣は存じませぬが、しかし大勢子供もあつて、殊に長男をなくなされてゐる朱子が、片づけられぬと申されてゐるのを見ますれば、俄かに一方には極めるわけにもまゐりますまい」といつた。その儒者は一言もなくなつた。これを聴いた正之は、「尤(もっと)ものこと」と仰せられて、それ以上の穿鑿(せんさく)は止められた。
 ―― 一時の思附(おもひつき)を卒然として口にして、すぐにまた閉口した俗儒の様子が見えるやうである。


 ここで言われている『論語』のなかの「父母唯其疾之憂」とは、孟武伯という人が孔子に「親孝行とは何ですか」と尋ねたとき、「親はただただ子が病気をせぬかと心配するものですよ」と答えたものである。そこで古来から二通りの有力な解釈があるらしい。それは、「だから自分の不注意で健康を損なうようなことだけはしなさんな。親孝行とは、まずはそうしたこと」というものと、「そのようにして親に育てられて、今のあなたがあるのですよ。だから自分もせめて恩返しに、父母が病気にならないように常に気をかけるのが親孝行というものですよ」というものだそうである。朱子論語の注釈を著す際に、どちらとも決めがたいとしたようである。


 おそらく前者はあまりにも当たり前すぎて、わざわざ孔子ほどの人が言うまでもないことじゃないか、と思う向きもあるかもしれない。後者は、徳目としてはなかなかできないことのように思われるから、孔子はこちらを言われたのであろうとの解釈も、それはそれで成り立つであろう。しかし孟武伯は日頃の不摂生が過ぎることがあったので、孔子はまず身近なことから言われたのであろうとの解釈も捨てがたい。そもそも高尚な哲学、難儀な戒めというものを常人は想像しがちであるが、できて当たり前のことをできなくなることも多いのが実人生であるのだから、孔子がそのことを言われたとしても成り立つのである。


 ところがこの儒者は、自分の体験したところから即座に「こっちだ」と思い、それで決めて何が悪いのかわからない。親が子の健やかさを願うのは当たり前であって、自分もそれはわかっているが、孔子ほどの人がそんな容易なことを言うわけもない…との思いであろう。それはわからぬでもないが、そういう自分の意見が言いたいのに闇斎が「どちらかに決められるものではありません」としたのが気に入らず、「子の無いあなたにはわからんだろうが…」とやってしまった。子の無い人が親子の情の大切さを説くとして、それの何が笑えるのか知らないけれども、軽はずみに「子の無いあなたにわかるものか」と口走ってしまう浅はかさを笑える話として、このようなことはしばしばあるだろう。


 しかしこの逸話には、さらに大事なことが含まれている。そのどちらが正しいかを決めたいと会津藩主・保科正之がしたのは、藩学を興すうえで、少なくとも会津の藩校ではこうだと決めておきたいとのことであったろう。どちらかの説に一決して藩学とすれば、それは藩学の気風や学風に大いに影響するであろう。しかしここで闇斎は、どちらにも一理あるのでここで決めて良いこととは思いませんとの答えであり、ここが肝心なところである。


 学問を興すのに熱心であった正之として、藩校の学風を確立しておきたいとの藩主の気持ちもあったろう。しかしそれはいいとして、こういう親子の情の機微における学において、政治の側でどれが正しいとはするべきではない。古来、どちらもそれぞれに親しまれてきており、孔子がどちらの意味で仰ったかはわからないわけだし、妥当と考えられる二通りのどちらが正しく、どちらが誤りとは、為政者が決めることではない。学徒にはきちんと両説あることを教えて、なぜどちらもあってどちらも尊重したほうがいいのか、自分で考えさせたほうが良い。藩校の学徒それぞれ、その子の生い立ちがあろう、自分としては「こっちだ」と実感を伴うことがあるやもしれぬ。しかし、それで他の人の人生観まで決めて良いことではない。


 ただ漫然と両論併記でお茶を濁すというのではなく、二通りどちらにも理があるようなときにはそのままに受け止めるということ、自分の経験ではこうだからとか手前味噌で軽々しく断じないこと、闇斎はこういう姿勢を常に大事にしたそうである。また、正之はそのことをただちに理解したが、こうしたことが名君として長く語り伝えられる一因でもあったろう。


 この逸話からは、そうした先人の叡智というものを感じさせてくれる。だから記録にも残り、語り伝えられているのであろうと思う。

*1:それは在日コリアンであれ日本に帰化した朝鮮系日本人であれ、先祖伝来のものを大切に思う人ならば理解できよう。しかしジェンダーフリーでどうのこうのというならば、ユダヤ人であれ朝鮮人であれ、その家族への帰属意識やその尊重は強烈ではないか。異郷で暮らす者なればなおさらであるとも聞く。ならばジェンフリの物差しでもって、まずは自分の在日コリアンの男女観なり家族観なりを切り刻んでみるのが先ではないか。その伝統文化を切り刻んでみよ。それができるのか。それをしてから日本人に文句を言いたまえ。