右往左往する話(その2)

歴史感覚について - Backlash to 1984に書いたことの中で、私の言う「土壌」について、当然に出るだろうと思われた疑問意見がブクマコメントに寄せられていたので、まずはそちらにお答えしてから続きを書きます。


kusamisusaさん

"そういう土壌は、それを大切にして維持していく多くの無名の人たちがあってこそ"よい物は残す、という話ならば分かる。しかしこれでは何を言ったことにもならない(例えば「過去に囚われない」という「土壌」は?

tukinohaさん

「土壌」って具体的に何のこと?僕たちは本当にそれを共有しているの?「歴史を学ぶ」ことを特権化していないか?日本史を学ぶ意義がそんなことなら、僕は大学に行ってまで日本史を学びはしなかったでしょうね。


 これ、必ずそういう反応する人はいるだろうなと思ってたんですが、ちょっと待って。どういう土壌であろうがあるものはあるんであって、それがどんなだか言えなければ「何を言ったことにもならない」なんてことにはなりません。そういうのはよく聞ききますが、それならある個人は、その人の生まれ持ってのものだけで自己を形成しますか?と問われたら「いろんな人からいろんなものを学習・吸収して育つに決まってるじゃん」と誰もが答えるでしょう。じゃぁ、その「いろんな人」もまた先立つ「いろんな人」から同じようにして育ってるわけで。「昔の誰が何しようが自分と関係ないじゃん」とは、少なくとも歴史好きなら考えないはずだと私は言ったわけですが、それでわからないのであればこう言ってみましょう。社会問題に関心ある人は、それこそ差別問題でも政治問題でもいいけど、歴史の中にあることくらい誰でも痛感してるわけでしょう。何か問題が起るときも、当該個人の起した突発的・偶発的な事件は別として、歴史的背景のある土壌から起っていることも多いわけでしょう。そういうときには「こういう悪弊をうむ土壌があるんじゃないか」と言うじゃないですか。ここでは、そういう話です。


 なぜそういう話に触れたかと言えば、誰かの史論が「これこれの理由でおかしい」と反論するとき、それは史論としておかしいという主張をしているはずなんです。ところがその文中において「過去の誰が立派だろうと、それと自分の関係性を見出すのは変」と言ってしまうなら、そんなこと言い出したらそこで史論は終りでは?と。だったら「現在の何が社会問題だろうと、それはあくまで個人の問題。歴史的背景とか土壌とかの関係性を見出すのは変」でもいいことになるわけでしょう。そういう話の流れの中で、「伝統」とか何とか言って変に価値観の問題にしたくないから「土壌」とか「つながり」と言ったまでなんですよ。ですからそこで「じゃぁどんな土壌なんだ」「こういう土壌はどうなんだ」とか、話の流れに何の関係も無いわけです。個々人は歴史の連環の中にある、ということが再確認できたら(この部分に関してはそれだけのことなんであって)それでいい話なので。ですからhazamaさんもそうしたことについては同意としたうえで、だがしかし…と続くわけです。つまり、ここで「そんなこと言うけど、じゃぁ土壌って何だ?それがどんなだか言えるのか?こういう土壌はどうなんだ?」みたいな不毛なことは無用のことなんですよ。この部分は、以上です。


 さて、次のそのhazama-hazamaさんのご返答部分からhttp://d.hatena.ne.jp/hazama-hazama/20070102


 土壌とか連環の部分は、私も同意見である。ロマンのところは、私はそこまで歴史にロマンを求めていないのだが、ロマンティシズムが無いわけでもないので、すごく共感できた。そのうえであるが、

「つながり」を強調する人々は、あたかも歴史にはよいことしかなかったかのように「つながり」を無邪気に称揚する。「歴史を重んじる」と言いつつ、「歴史」を直視せずただ自分達だけで「気持ちよくなっている」人たちは、私には「歴史」を冒涜しているように思える。「歴史」から「気持ちのいい」部分だけを取り出して、他は打ち捨てる。それは「歴史」ではないのだ。

「何が悪いのか」と言われれば、まず上で述べたように「誇り」のために「歴史」の都合の悪い部分が取捨されかねないということが挙げられる。また「誇りある歴史」観を共有できない人間はどうなるのか。劣等国民にでもなるのだろうか。あるいは転向するしかないのか。


 まず前段部分からだが、おそらく保守派の愛国者がもっとも苛立つ面がそこにあると思う。私が見る分に、彼らの多くは彼らの持つ問題意識の中で「歴史の恥部や暗部」を重視している。したがって彼らは「都合の悪いところを無視していないではないか」「都合の悪いところを無視しているのはサヨクではないか」と言っているのだ。ここに明らかだと思うのだが、いちがいにどっちがより正しい傾向があるとは思えない。ただ、とにかくお互いの見立てが食い違っていることが多いのである。「あいつらは、こういうことが都合に悪いに違いない」という思い込みが双方に頻繁に見られるが、しかし先方にとってそれが本当に「都合の悪い」ことなのかどうか。「都合が悪いところを隠している」というより、「それはわかってるってば(もう聞き飽きた)」ということのほうが多いのではないか。あるいはこうも考える。たとえばそこでいう「都合悪さ」とは、誰にとっての都合悪さであったろうか。


 私は思うのだが、しばしばその人にとってこそ、それはかつて「都合の悪い」ことだったのではなかろうか。もとは自分の好きで歴史に接していて、しかし「う…うーん、これは…」と目を逸らしたかったり、できれば見なかったことにしたかったりすることはあろうかと思う。そこでそのままにしてしまう人もいることは知っているが、自分はやはりそれはきちんと見つめて考えよう、自分の考えを変えなくちゃいけない、などなどの経過をたどった経験を持つ人は多かろう、と思う。そこでなのだが、自分にとってそうであったけれども他人によってはそもそも都合が悪いことではなく、それはそれとしてごく平静に(すると大きな葛藤や問題の意識は自分の中で深まらず)流してしまう…ということもあろうかと思う。これは要するに、何を恥じるか、何を悲しむかが時として大きく異なっていることとも関係しているのではないかと私は思う。自分たちが「恥ずかしいことだ」「悲しいことだ」と思うことを重視しているつもりの双方にとって、相手方は「恥じるべきを恥じず、恥じざるべきを恥じている」「これが悲しくはないのか」と映る。そこでは、お互いにとって相手方が「恥知らず」「人の悲しみのわからぬ奴」ということになる。


 「我らが誇りと思うところを汝らも誇るべし」と「我らが恥と思うところを汝らも恥じるべし」が、せめぎ合っている。大きな政争になっている。思うに、「同じ日本人として誇らしい/恥ずかしい」という想いの強さが、双方を支えている。「同じ日本人として」…?そうなのではないだろうか。私は先に、個人主義的感性からは歴史のつながりが消去されるだけだと書いたが、この種の「同じ日本人として」について、もっとも個人主義的な感覚で言うならば、


「同じ日本人だからとか、そんな身内感覚みたいなものはありませんよ。赤の他人のしたことじゃないですか。過去の日本人が何をしたとしても、それを誇る気も恥じる気もしませんね。やれ日本人としての気概を持てとか反省しろとか言われても、自分のしたことじゃないのに無理な話ですよ。私は自分自身のしたことにしか誇りも恥も感じませんね。悲しみ?自分に関係ない人の悲劇に涙流せたりするほうがわからないんですけど。ドラマや映画の見すぎじゃないんですか?」


 ホシュもサヨクも、こうした人の前では形無しである。こうした人の前で、サヨクは古風なまでに日本人的だとわかるであろう。そして、国民国家ネーションステート)の申し子であることも。「同じ日本人のしたことを、恥ずかしいと思わないのですか」…そう、日本は恥の文化である。そして謙譲と謙遜の文化である。自らを誇ってこれ見よがしにするくらいなら、ひとに何か言われて顔を赤らめているくらいが美徳とされた国である。だから人の顔色を伺い、己や身内の評判が気になってしかたない民族である。身内の恥は己の恥…。逆にホシュは見事に現代っ子である。「そんなことを言っていては、国際的に通用しませんよ。はっきりと主張し、国益を損なうようなことは反論し、誇らしげにしていないと付け込まれますよ」と諭す。そうかもしれない。どちらが良いの悪いのと、私は何ともいいようがない。また、「日本の美風を損なうホシュ」「旧習に浸りながら日本を呪うサヨク」と皮肉ったところで詮無いことだ。ただひとつ言えることは、どちらがより保守的なのかわからないほどに、そして価値の問題としてどちらが一律に正しいと言えないほどに、近代以降の日本人の心は錯綜しているということだ。


 次に後段部分、とりあえず現今の保守論壇における「誇りある歴史」を同一のものとして(実際にはそうでもないと思うが)、それを共有できない人間はどうなるのかと問われたら、「それはやはり、ご自分で考えるべきことなのでは」と私は思う。私は彼らの論調に賛否両論はあるが、彼らのいうところの「誇り」について、ひとことで言えばあまり共有してはいない。「日本人としての誇りが無いのか」と問われれば「あるよ」と答えるけれど、「どうも違うことが多いですね」という感じなのだ。ただしこういったことは、現今の保守論壇の趨勢に一定限度理解をしつつも同調はしていない人には多く見られることであって、私に限らないと思う。ある人たちの思うところの「誇り」なり「恥」なりを自分が共有できないことが、さして重大な問題だとは思われない。でもその誇りや恥を強要されたらどうするんだという懸念もわかるけれど*1、何のための言論の自由なり学問の自由であるかを考えれば、守るべきはそうした自由であろう。その自由は政敵や論敵のそれをも保障するものであり、それをご破算にしようとするときにのみ排除しにかかるべきではないだろうか。


 ひとくちに現今の愛国者の「誇り」についての言説といっても、私にはかなり千差万別に見える*2。「何をどのように誇りに思っているか」についてはその人たちそれぞれによって異なるものの、ともかく「誇りに思えない」という人たちを敵に回して「誇りに思える」という点で一致しているだけのようにも見ている。*3。「誇りに思う」という点でのみの同床異夢あるいは呉越同舟というケースが多そうだが、「我が誇りに思うところでなければ誇りとは言えない」などとするよりは、よほど良いと思う。ただそうなると、確かに「誇りには思えない」という人たちが一律に埒外に置かれる。およそ国というものは自ら生まれ育った自国を誇れる人も誇れない人も含んでの国なのだが、愛国者愛国心はそれを持つ者どうしの愛国であって、愛国心を持てない同胞を含むところの愛国ではないとなると…いや、「愛」とは常にそういう攻撃的排他性を内在しているものかもしれないが。*4


 ここで話を戻すと、たとえば自国であれ他国であれ歴史に恥部や暗部が多いことは先刻承知の人で、自分も含め人間観がネガティヴな人(そういったことにはもともと幻想はあまりない人)だと、どちらかと言えば「こんなに素晴らしい事績があったのか。こんなにすごい人がいたのか…」と知ると、むしろそちらに傾斜することがある。そして「それなのに自分はいったい…」とか「それなのに今の世の中は…」とか、むしろそういう葛藤や問題意識に向かう傾向があったりする。同じような出発点の人でも、それとは逆に、更に人間社会の恥部や暗部、闇といったものに傾斜せずにおれない人もいる。そういう人の中では、先の例のような人とは葛藤や問題意識のありようが大きく変わってくることが容易に想像されるだろう。これはあくまで一例だが、私の言いたいのは、左派・進歩派だから人間社会の洞察が深いとか逆に右派・保守派のほうが深いとか、どっちがより偏っているともいちがいに言えるようなものではないはずだ、ということなのだ。


 hazama-hazamaさんで言えば、ご意見を伺ったのはごく一部のことでしかないとはいえ、次のように感じている。「三国志ロマンをこよなく愛する。このロマンはこのうえなく気持ちいい。それはフィクションならではの心地よさだ。それが文化というものの一面だろう。しかしだからといって、歴史ロマンの気持ちの良さに埋没することが歴史を学ぶことではない。まして漢文化の負の面としての中華意識には批判の目を向けざるを得ない。したがって中華に媚びるような慕華主義もまた批判せざるを得ない。ところが、最近のいわゆる反中厨房にかかると、とにかく日本文化の良いところはいうが漢文化の良いものは見ない。漢文化好きと見ると、妙な攻撃をしてくる。また自分は、客観的には日本文化に見るべきものはないなどとは言ってないが、ただ主観としては日本に生まれて良かったと思えないんだと言ってるだけだ。それが問題だとか言うなら、せめて漢文化の悪いところ同様に日本文化の悪いところも同じように見つめてみたらどうだ…」。このような感じだろうか。そう言えば、hazama-hazamaさんがこのように書かれていたが、

やはりネット上の議論の多くが、ほとんど相手をやりこめることを目的にしており、こちらが対話を目的に相手に接触した場合、こちらが手ひどい目に遭うことが多いため、最初からこちらも攻撃的に論を展開したほうが安全だ、ということもある。


 ネット上でこれまで反中ウヨ厨と論戦を行ってきて、もうつくづくウンザリだと思われているのではないかとの推測も込めてのことなのだが…。そうであれば、私にも、そういうのはすごくわかるのだ。そういうのを放っとけないという気持ちも。ただそこに落とし穴が待っていることがあるので、それが気がかりだ。そこで「右派・保守派の歴史観はこんなものだ」というイメージに固定してしまうと、いわばご自分にとって「都合の良い」ものだけを集めた右派・保守派のイメージになってしまわないだろうか。ウヨクによるサヨク叩きが「こんなものであってほしいサヨク」を叩く気持ち良さであることが多いように、サヨクによるウヨク叩きも「こんなものであってほしいウヨク」を叩く気持ち良さであることが多いように私には見えるのだが。


 なお、末筆ながら、これに触れてyagianさんからTBをいただきました。「気持ち良さだけでいいのだろうか」に関連するので、このエントリで扱おうと思っていましたが、今夜はここで力尽きました。また日を改めて。

*1:ちなみにこの件の政争の直因はコレだ

*2:もちろん変なものはいくらでもあるだろうが、それを言い出したら保革左右に変なのはいっぱいあるのでキリがないことと思う。

*3:これは本来あまり良いことではない。誇りに思えないのなら仕方が無いのであって、他人がとやかく言うことではない。ただしその点については「誇りに思えない」と言う人たちもしばしば同様だ。双方とも、相手の邪魔立てが多すぎる。そういう邪魔立てこそが政争じゃないか、と言われればそうなのだろうけれど。

*4:というか、「誇る」と「愛する」とは別だろうと思う。私はこれがすごく気にかかる。これを深く考えると哲学か心理学になりそうだが、私の手に負えない。自分なりに思うところはあるが、似非哲学や似非心理学になりそうで嫌だから言わないことにする。