ご本尊で打ち据える話

 『昔々、世に疎み、人の浅ましさに心痛めていた人がおりました。あるとき耳にしたお経の真の意味を知って心を打たれ、「わらわはこれまで、お経をいかほど耳にしてきたと言えようか。声として耳にすると言えども、何も聞かざると同じことであった」と思い知りました。そこで一念発起して仏門に入り、お堂の中でもろもろの仏典を読みあさり、心騒ぐときには木に仏様を彫って心を鎮め、精進の日々を過ごしました。いよいよ智識も深まりゆくほどに、思われてならないのは、世に仏様仏様と言うほどには、さっぱり真の仏法が行われていない、実際にあるのは外道ばかりではないかということでした。そこでこの坊さん、世にまことの仏道を広めようと思い立ちまして、いまだ仏法の及ばぬところ、仏の尊さを知って行わざる人々を求めて旅に出ました。


 たどりついたある村でささやかなお寺を建て、そこに村人を集め、膝元に自ら彫った木彫りの小さな仏様を置きまして、ありがたい説教を始めました。ところがどうにも、村人の反応が悪い。よそ見をしたり、小声で噂話をしたりと、どうやらあまり坊さんの話を聞いてないようなのでありました。「やはりこのようにして、人は仏を表には尊びつつ、実は敬して遠ざけておるものぢゃな」と坊さんは見て取り、「これ、何をゴチョゴチョ話しておりゃる。仏様は、そのほうたちの上の空を見透かしておいでなのぢゃぞ」と膝元の仏様を指しつつ、村人に諭しました。するとある若い村人が、「木の彫り物にも目が見えるので?」と茶化したから、これがいけなかった。カッとなった坊さん、「罰当たりなことを申すな!」と言うが早いか、膝元の仏様をつかむと、それで若者をハッシと打ち据えてしまいました。


 村人たちは驚いたの何の、「えぇ〜っ!?そりゃ御本尊では…」と絶句して、二の句が告げません。坊さんはハッと我に帰り、さぁ何と言い訳したものやら取り繕うものやら、顔を赤くしたり青くしたりしましたが、言葉が出ません。こわごわと「仏様は、怒っておいでではありませぬか?」と問う人があり、坊さんは手にした仏様が、ものすごい形相をなさっているように思われて、小刻みに手が震えましたが、おそるおそる見てみますと、それは彫ったときそのままに、おだやかに微笑んでおられます。坊さんは「見透かされておったのは…」とつぶやくと、仏様に手を合わせ、村人に一礼すると、村を出て行ったとのことです。』


 以上、私の作り話。ジェンフリはさておきhttp://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20070113/p1でkmizusawaさんが思われているのは、たぶんこういう話なんだろうなと、想像してこしらえた創作民話。人権を振りかざして人権意識を損なう人権派愛国心を振りかざして愛国心を嫌わせる愛国者、多様性尊重を振りかざして多様さをせばめるリベラル…などなどと言えば他人事ですね。さしあたってここでいう坊さんとは、もちろん作者である私のこと。