中原夜話

 滅びた民族の、滅びた文字というものがある。世界にいろいろある。近隣では、契丹文字西夏文字などがある。民族としては滅びてなくても文字としては滅びる例もあって、ヴェトナムの字喃(チュノム)がそうだ。あるいはモンゴル文字のように、滅びかけていたが復興の気運もあるという例もある。その民族が滅びていなければ、たとえ使われなくなっても文字の意味は復元しやすいし、日常に使用する文字としての復活は(容易ではないにしても)不可能ではないだろう。ところがその文字を使っていた民族そのものが滅びてしまっている場合は、その文字を解読することは容易ではない。劇的な解読例もあるものの、長年にわたって多くの研究者が挑んでもさっぱり解読できない例も多い。もとの言葉が現存する何らかの民族の言葉から類推可能であればともかく、そうでもないといよいよ困難だ。上に挙げた例で言えば、西夏文字は解読されたが契丹文字は未解読であって、そうなると、どういう問題が起きてくるかということをhazama-hazamaさんが的確に指摘している(http://d.hatena.ne.jp/hazama-hazama/20070103#p1)。


 私は当初、「征服王朝」とか「遼」と言ったところで、それでなぜ「中華意識まみれ」になるのかわからなかったし、いまでも「その言葉を使うと、こういうことになる」式の表現には違和感もある。しかし彼が何を指摘したいか、その内容そのものは大事なことであろう。我々が手にすることのできるキタイ(契丹)の歴史は、出土品のほかは彼ら自身の手になるものではない。口伝は完全に失われたし、記録は漢人によるものだけだ。「遼」と自称する以前の契丹人の歴史…それも少しは漢土の文献に漢字で記録してあるから、まったくわからないではないにしても、漢人にとって必要と感じた断片でしかないだろう。それは漢人が記した異国の歴史のごく一部であり、いやむしろ「遼」のように、異国であったことを無化する方向での正史しか残っていないこともあるとhazama-hazamaさんは指摘する。


 すると、その文字文献から復元されるところの「契丹の歴史」とは、はたしてどこまで彼らの歴史を伝えているだろうか。私たちが知るキタイは、漢人の目を通した契丹、あるいは漢人が受け入れ可能な遼でしかないのではないか。キタイ人みづからが記述していたであろう彼らの歴史が失われている。文献は残っていても、読める人がいない。何かいろいろ書いてあるのだが、何が語られているのか誰にもわからない。キタイ人が自分たちの多くのことを彼らの言葉で書いているのに、誰もそれを知ることができない。そして「記録はあれど読めず」というキタイに限らず、まして自身の手になる記録もないケースの諸族は同じことで、なるほど、北アジアの歴史を学究するときには大きなジレンマだというのは頷ける。


 そしてこれは、私が思うに、北アジアの歴史にのみ考えねばならないというものではなく、常につきまとうことであろう。私はここで、彼が抱えているジレンマと言うのは、おそらく江戸期の本居宣長が抱え込んだジレンマと、かなり相通うものがあることに想いが馳せたが、それはまた稿を改めたいと思う。


 なお櫻井先生と森先生 - Backlash to 1984のコメント欄において巫俊(ふしゅん)さんより以下のご意見を紹介されました。このエントリにつながる話題ですので、返信はこちらにいたします。また、この稿も巫俊さんには先刻ご承知の内容も読者の便宜を考えて書いてある部分もありますので、その辺はご了承ください。

ペキンのある通称燕地方は当然中原であると、私の知っている大学教授(金代史専攻)は言っていました^^中原という概念自体が時代によって可変するらしく、その範囲の定義ははなはだ不明確です。


 金の時代を専門にされている先生とのことで、もしかするとその時代の古文献の中にはそういう用例が散見されるのかもしれませんね。それをふくめた想像ですが、女真人の建てた金国では燕の地をも中原と呼んでいたのだろうか、漢人ではない彼らにとって漢土であればイコール中原だったのだろうか、それは彼らにとって「当然」の感覚でもあったろうか…。あるいは逆に南宋漢人失地回復をいうときに、失われた華北全土を(当然に燕の地を含んで)漢人にとっての原郷という想いで「中原」と呼んだりしたのであろうか…。いやいや、前代の北宋の頃から同じ想いで燕雲十六州を「中原」と呼んだりもしたのだろうか…などなどと素人考えで想像してみました。


 ただしそうであるとしたら「文献史料の中にはそのような用例もあるので、その文献の中ではどの地域を指しているか、先入観を持たずに注意深く読むほうが良い」とは言えるでしょうが、それは必ずしも「通史的に、燕の地も当然に中原である」と認識して良いことにはならないと思います。


 「中原」の場合、「中国」という言葉の古い用例と同義である場合もあるでしょうが、そこでいう「中原」とか「中国」に、おのずから範囲があります。言葉は生き物ですから、時代によってその言葉の指す対象(ここでは地域の範囲)に可変域があるのは当然ですが、その可変域にはやはり当然のように限りがあります。「中原」で言えば、古代の周の都あたりを指す狭義の用法か、より後世の黄河下流域の平原一帯を指す用法かが一般的です。それは時代によって適宜に判断すべきなのですが、極めて長い年月の中で共通知として醸成された可変域の幅があるわけですね。そういう通例としては、燕の地を中原には含んでいないと思います(たとえばwikipediaの解説で良いと思います中原 - Wikipedia)。


 ある学者の提唱した概念用語ではなく、地名などの固有名詞というのは、多くの人々の共通了解から集積されたものですので、基本的にはその範囲内の用法を尊重すべきでしょう。仮に「華北」と同義に用いた例が過去に散見されて燕の地が含まれている場合があったとしても、それが上記のような(あれは私のほんの推測ですが)特殊な時代状況の中でのこととか、あるいは当該文献の著者における独特な用例であるとかの場合は、その用語の異例として扱うべきでしょう。それが当該地を指す歴史的な共通了解ともなっていない以上は、異例は異例として、通例とは別に認識しておくほうがよいと思います。ここに「通例」と言い「異例」と言うのは、常に通例が正しく異例は誤りとの価値判断を込めてのものではありません。単にルーズな用例であれば誤りと見ていいでしょうが、ある時代の事情背景によって用語が拡大使用されている場合には、その時代の特徴として受け止めるべきだと思います。ただし異例は異例として、という意味です。


 ただこれとは別に、それが特定条件下の史料上のことではなくて、その先生による新たな「中原」概念の拡張の提唱であれば、むやみに歴史的呼称の範囲を逸脱するのはよろしくないと思います。その理由のひとつの例として、私とhazama-hazamaさんのやり取りがどのように成り立っているかをご覧下さい。発端は私の用いた「征服王朝」という歴史学用語に含まれる考え方について、彼が問題提起したことです。ただしその文中「中原進出」を、私は史実誤認ではないかとしたのですが、史実誤認には当たらないとの彼の反論がありました。私は、何気なく指摘したこの件こそ、実は彼が問題提起したことが私に当てはまることに気付かされるきっかけになったのです。それを書きましょう。


 私が「遼が領有したのは燕雲十六州(現在の北京から大同を含む漢土北辺の一帯)であって中原には達していない」としたのは、自分が「征服王朝」概念を論じていたためです。しかし彼はこの概念を批判する立場から書いているのですから、最終的に中原を領有したかどうかは基準ではありません。ここに、私の見落としがありました。もちろん私も、契丹が宋都の開封を陥れて後に澶淵の盟を結んで撤収していることや、澶淵の盟の持つ意味などは承知しているのですが、思えば、ではなぜ私は彼の

「遼」と言った場合には中原進出以前のキタイ国家を正式な国家としてを認めていないことにもなる。

という文中「中原進出」を「中原の領有」と誤解したのかということになります。彼の史実の誤認ではありませんよね。私はここで「征服王朝」概念の定義が先に頭に立っています。しかし当地を領有するしないが基準になるのは、(ドイツ人の視点にせよ)漢人の側から見ているわけで、契丹人の側から見れば中原に進出してのあれこれは、もとより当地を領有するしないではなかったかもしれませんね。なるほど、言われてみればこういう風にして、知らず知らず、契丹を主体にした見方ではなく漢土を中心とした見方に陥っているなぁ、と考えさせられました。国号や国家認知うんぬんのところはさておくとして、要するに彼の指摘したいことは、まさしくこうしたことだと思うんですよ。少なくとも私に対するものとしては当を得ていると思います。


 そしてこの後に、彼の次のエントリで述べられている「北アジア史を探求するうえでのジレンマ」というものに直面するのだということはよくわかります。たとえばこの件から、ではその「契丹人の側から見た中原進出のあれこれ」と言うけれども、当時の契丹人社会にとって、キタイの人びとにとって、ではどのようなことが具体的にあれこれ内部にあってどんなものだったか…みたいなことが、彼の言うような制約によって非常にわかりにくい。そういう史学上の大きな問題なんだと思います。


 さて、この件は些細なことのように思えることから始まっていますが、このように噛み合って展開しました。そこで、冒頭の話になるわけです。ここで彼と私が「中原」という歴史的呼称について、一般的な共通知の範囲で用いることによって論点やその背景などもわかり、より高次の問題提起にもつながっています。ところが、ぽんと「範囲の定義ははなはだ不明確」ということにしてしまうと、「確かに遼の領有した漢土の領域は燕雲十六州だけだが、それをして中原進出と言えるかどうかは論者の定義次第。keyaは中原を狭く用いているのに対しhazamaは広く用いているに過ぎないから、単なるすれ違い」となってしまいます。


 しかしそういう話ではないわけですね。むしろそれでは、彼の問題提起が掻き消されてしまいかねません。彼は、開封占領を指して中原進出を果たしたとしているわけですから、彼もまた中原の語を一般的な了解範囲で用いています。私も開封占領を失念しているわけではなかったのに、上記のように誤認しました。このように、歴史的呼称というのは正確に用いることによって、史学の議論が成立します。私が「もし学者が自身の新解釈として歴史的呼称の拡大使用を唱えるのであれば、よろしくない」と考えるのは、こうしたことなのです。学術用語として、自身の史論のために新たな概念用語を造語するのであれば話は別なのですが、「中原」のような歴史的呼称は学者の定義があって後に使用されたものではありません。人口に膾炙した慣用性はつとめて維持することが大事だと思うので、僭越ながら末尾にそのように記した次第です。