望郷のうた(「美しい国」考)

 安倍首相の「美しい国」をめぐって喧騒がある。じっくり腰を落ち着けた論もあるようだが、「美しい国」というワンフレーズに反応している向きも多い。そこで私も悪乗りするわけではないが、このワンフレーズにのみ反応して思ったことを書いてみたい。だからこれは、安倍首相の政策内容の是非とは、さしあたって何の関係もない。「美しい国」という言葉を方々で目にするにつけ、私の頭に浮かんだのは、ひとつの古歌であった。そこから書き起こそう。

倭(やまと)は国のまほろば 畳(たたな)づく青垣 山隠(ごも)れる倭しうるはし

 これは『古事記』に見える、ヤマトタケル王子の臨終の際の歌である。戦い続け、最後は伊吹山の神の祟りを受けてボロボロになったヤマトタケルが、いまわのきわに望郷の想いで詠んだという記述の流れになっている。ほぼ同じ歌が『日本書紀』では、父であるオシロワケ大王(景行天皇)が若き日に詠んだ歌とされる。こちらの記述の流れでは、九州に遠征したオシロワケ大王が、遠く故郷をかえりみて詠んだ歌となっている。ここでは、両人の実在性うんぬんであるとか伝承内容の史的評価であるとかは、本稿の目的ではないので論じない。また、この歌はこの父子に託されてはいるが元は古い民謡なのではないかとの説もあり「そうかもしれない」と思ってもいるが、ここでは成り立ちではなく出典の記述のなかで文脈に添うのが目的だから立ち入らない。


 「美しい国」というときの「美しさ」とは何だ、という声がいろいろ聞かれる中で、どんな国が「美しい国」なのか私にもわからないが、この歌がフト頭に浮かんだのでそれを書く。危篤のなかで二度と戻ることのない故郷を想う前者と、戦勝の合い間の高らかな場面で描写されている後者とでは、ほぼ同じ歌でも受ける印象が変わるが、ともにそこでは「これは国しのびの歌」とされているのが目に留まる*1。はるか遠くから、ふるさとをしのぶ歌だということである。この歌の前後の二首と合わせると、愛しの我が家の方から流れてくる雲を見て故郷を想い、命の全き人は青山の樫の葉を髪に挿して生を謳歌せよ…という流れである。そのような、望郷の想いの中での「うるはし」。「うるわしい」と「うつくしい」とでは、異なる情感も無いではないし、そのことは意外に大きな違いになるかもしれないとも思ったが、私はそのまま連想を続けた。


 「うるはし」という言葉は「うるふ」の派生語である。当てられる漢字のうえでは「麗し」と「潤ふ」となって、字面の情感はかなり異なってしまうものの、和語の語義からすると本来は語感の近い言葉であったろう。ちょうど「わづらふ」から「わづらはし」が派生するのと同じであるから、「わずらはし」が「わづらはされるおもひ」を意味するように、「うるはし」は「うるほされるおもひ」という語感が本来のものであったろうと私は推測している。古代の人は、みづみづしさに美を感じていたことは他の古語からも察することができるので、この歌は「青々とした山並みが続く大和のみづみづしさをたたえたもの」との解釈も目にする。もちろん情景としてはそれもあろうし、「うるはし」が「みづみづし」と近い感覚で捉えられてもいただろうことは頷けるが、この歌については、それだけでは語源論に陥りすぎた理屈であろう。素直に望郷の歌だということを重視して、そこに語源論を添えたほうが良い。古語の語感は今でも方言とかオノマトペに残っていることが多いが、「涙がウルウルする」という現代風な言い方のなかにも、「うるふ」の語感は残っているのだろう。そうであればこそ、「国を偲ぶ歌」なのであって、「やまとしうるはし」なのであろうと思う。またこの歌が、青年オシロワケ大王の功成り名を遂げての望郷の歌であるとする伝よりは、生きて戻ることのない故郷を想い浮かべながら歌ったヤマトタケル王子のものであるとされる伝のほうが後世に好まれたことも、あわせて考えてみたいことだ。ただしどちらの想いもまた、実際にはあることであって、次に連想した二つの詩歌を挙げてみる。ともに近代のもので、多くの人々に愛されてきたものだ。

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや


 これは室生犀星の「小景異情(その二)」で、これまで多くの人の心をとらえてはなさなかった。これと同じ想いをした人々は、近代以降の日本には無数にいただろう。私も学生時代に東京で、さして苦労していたわけではないが将来に夢を失いかけて鬱屈していた頃、生意気にこれと同じ想いをしていたことがある。私の故郷は福岡で、テレビで福岡が(あるいは九州が)映ると、懐かしさや切なさや、いろんな想いがしていた。福岡にいた頃には、当然のように嫌なこともいっぱいあったし、また、福岡の街の嫌なところとか、それもあった。しかし遠く離れてしまうと、故郷はやはり「うるはし」いのであった。これを国内の地方ではなく「日本」に広げて思うに、そういえば異国にながく住んでいる人たちが、同じようなことを言うのを何度も目にするような気がする。また、この詩を亡き母が生前に好んでいたことを思い出す。母は北海道のとある漁港の生まれで、貧しかったり家庭の問題があったりで、中学を出ると引き取られるように富山の親戚の家に移った。やがてそこも離れて京都に独り住んでいたそうだ。故郷の思い出は辛いことばかり…と母は語っていたが、そう言いつつこの詩がとても好きだと言っていたから、息子に語る言葉の上からでは推し測れないほどの望郷の想いもあったろう。

一、
  兎追ひしかの山、
  小鮒釣りしかの川、
    夢は今もめぐりて、
    忘れがたき故郷。
ニ、
  如何にいます、父母、
  恙なしや、友がき、
    雨に風につけても、
    思ひいづる故郷。
三、
  こころざしをはたして、
  いつの日にか帰らん、
    山はあをき故郷、
    水は清き故郷。


 これは唱歌である(d-score 楽譜 - 故郷 ---- 高野辰之/岡野貞一)。ここには「たたなづく青垣 山隠れる倭しうるはし」があるとともに、「故郷に錦を飾らんと」という日本の近代の在りし日がある。思うのだが、「故郷に錦を飾らんと」が昔話になったとはいえ、志を抱いて郷里をあとにする人は今でもいくらでもいるだろう。里帰りは昔より行程も心理も楽になったろうが、それでも失意の里帰りよりは晴れがましい里帰りでありたいという気持ちに大きな変化はないだろうと思う。ただ、「山は青き故郷、水は清き故郷」という情景の現実感は、往々にして厳しいものがあるだろうと思う。「美しい国と言うなら、歴史観や国家観などの問題よりも先に、まず破壊された自然の復旧その他の環境問題や、僻地過疎地の疲弊問題などから始めてほしい」という意見を見たことがあって、そのとき私は妙に納得していたことを思い出した。今さらに頷けるものがある。ところでこれは唱歌、つまり子供に学校で教える歌だが、よく考えてみると、これは大人の歌である。まだ親離れもしようがない子供がこれを歌っても、実のところ、歌っているその時にはそこまでの実感はまだわかないわけである。けれど、いづれ大人になる。大人になって、故郷を離れて、ふとこの歌を耳にするであろう、そのときにいきてくる歌なのだと思う。しかも大人になったその人が耳にするときも、やはり子供の声で歌われるからなおさらである。


 故郷(こきょう)というときの「故」とは、故事とか故人とかいうときの「故」である。故郷(ふるさと)とよむときの「ふる」にも似たような語感がある。しかしもちろん、故郷を想うその人をはなれて考えれば、その土地もそこに暮らす人々の日常も、うしなわれずに今もあるわけであって、それが「故」であり「ふる」であるのは、そこを遠く離れた人のなかであればこその想いである。けだし望郷とは、そのなかの故郷とは、思い出そのものと言ってよい。思い出の中では、それはなぜかうつくしく、うるわしい。そして追憶のなかで故郷を想うとき、ときにその想いとはとても「こひしい」ものでもあるようだ。次にそうした詩を、二つ。

思へば遠く来たもんだ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽車の湯気は今いづこ


雲の間に月はいて
それな汽笛を耳にすると
竦然(しょうぜん)として身をすくめ
月はその時空にゐた


それから何年経つたことか
汽笛の湯気を茫然と
眼で追ひかなしくなつてゐた
あの頃の俺はいまいづこ


今では女房子供持ち
思へば遠く来たもんだ
此の先まだまだ何時(いつ)までか
生きてゆくのであらうけど


生きてゆくのであらうけど
遠く経て来た日や夜の
あんまりこんなにこひしゆては
なんだか自信が持てないよ


さりとて生きてゆく限り
結局我ン張る僕の性質(さが)
と思へばなんだか我ながら
いたはしいよなものですよ


考へてみればそれはまあ
結局我ン張るのだとして
昔恋しい時もあり そして
どうにかやつてはゆくのでせう


考へてみれば簡単だ
畢竟(ひっきょう)意志の問題だ
なんとかやるより仕方ない
やりさへすればよいのだと


思ふけれどもそれもそれ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽車の湯気は今いづこ


 中原中也「頑是(がんぜ)ない歌」。ほんとに頑是無い詩だが、この頑是無さは、私は好きだ。これをおさめた『在りし日の歌』という題名のとおり、失われてしまったもの、ことにみづから失ってしまったものというのは、それでいて「こひしゅうて」たまらぬものとなることもある。そういえば三島由紀夫は、「愛国心という言葉が嫌いである」と書き出す『愛国心について』のなかで、「日本人の情緒的表現の最高のものは《恋》であつて《愛》ではない。もしキリスト教的な愛であるなら、その愛は無限定無条件でなければならない。従つて、《人類愛》といふなら多少筋が通るが、《愛国心》といふのは筋が通らない。なぜなら愛国心とは、国境を以て閉ざされた愛だからである」と書いていたが、なるほどそうかもしれない。愛国心ではなく郷土愛だとか言う向きもあるけど、あの山その川この海とか都道府県市町村単位のエリアへの愛なら良くて、それが広く日本になるとダメだというのもよくわからぬ話である。博多っ子が博多を愛するのは良いが大阪とか仙台とかも含んで広く日本を愛せるように教えるのはいけないということになってしまうのでは変だ。そうではなくて、クニにしろサトにしろ、そこに居ながらにして心の底から「愛してやまない」という情緒がほんとに日本人にはあるのかどうか。それよりは、クニでもサトでも、失って戻るに戻れず、だけど思い出してみて「恋しくて恋しくて」というのが、もっともせつなくかなしく、声がふるえて涙が出るような情緒なんじゃないかという気もする。

学校を卒(お)へて 歩いてきた十幾年
首を回らせば学校は思ひ出のはるかに
小さくメダルの浮彫のやうにかがやいてゐる
そこに教室の棟々が瓦をつらねてゐる
ポプラは風に裏反つて揺れてゐる
先生はなにごとかを話してをられ
若い顔達がいちやうにそれに聴入ってゐる
とある窓辺で誰かが他所見をして
あのときの僕のやうに呆然こちらを眺めてゐる
彼の瞳に 僕のゐる所は映らないだらうか!
ああ 僕からはこんなにはっきり見えるのに


 これは丸山薫の「学校遠望」。ここまで連想が進んでフト我に帰ったが、そういえば安倍首相の「美しい国」をめぐる喧騒は教育論争だった。学校、か…。学校は「美しい学校」であるべきかどうかと自分に問うてみる。さぁ、そんなこと知るもんか、自分が通っていた頃も、我が子を通わせている今も、学校が美しいと思ったことはないし、そうあってほしいと思ったこともない。しかし、なぜか思い出のなかの学校は、丸山がうたったように私のなかにもある。


 日本が「美しい国」になるのは、日本が「思い出」になるときではないのだろうか。日本を遠く離れて異国にながく住んでいるときか、さもなくば、日本という国がなくなってからのことだろう。日本が亡国に向かうのかどうかわからないが、亡国に向かっているのであれば、うしなわれればうしなわれるほどに日本は思い出のなかで美しくなるだろう。私は、日本が「美しい国」になることは、望まない。

*1:日本書紀では「思邦歌」、古事記では「国偲歌」とあって、ともに「くにしのびのうた」と訓じている。