歴史の中にある自分という感覚

さて、ここ数日の私の論考(?)の中で、あえて触れていなかった部分がある。それはkmizusawaさんの言う「それともこれはまた別の項目?」に対して、私は心の中で「うん、それはまた別の項目だ」と思ったからである。

http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20061222/p2

「先人たち」の業績は素晴らしいとしても、なぜそれが「日本国のなし得たこと」になっちゃうんだろうね(それともこれはまた別の項目?)。その人たち個々のなし得たことではないのか。

http://d.hatena.ne.jp/hazama-hazama/20061227

確かに、積極的な海外との交流なしで江戸時代の和算や江戸というシステマティックな都市を築いたことは驚異的だ。しかし、それが現在の「自分」になぜ直結するのかが私にはわからない。換言すれば、なぜそれが「誇り」になるのかがわからない。多分、kmizusawa氏もそうだろう。私は家康でもなければ関孝和でもなかったのだ。


 お二人がここで述べていることは、個人主義的感性からすれば(私もそういう人なので)わからない感覚ではない。といって、愛国心旺盛な人の、この種の「我らが誇り」という感覚もまた、わからないではない。私には、そのどちらの感覚もある。自分の中にある、そのどちらの感覚にも、私自身は冷ややかな目で見ているのも事実だ。今回は、そういう私のモノローグである。


 個人主義的な、どこかニヒリスティックな感覚でもってこのように言うことはできる。「ふーん、立派な人がいたんだねぇ。すごいねぇ。だから?その人たちはその人たちで、自分と何の関係があるの?」…そう、だからこれが歴史好きではない人から出た言葉であれば、私は「うーん、まぁそりゃそうだけどね。それで終り?」と思う人である。そう感じる人は、概して歴史には関心が無い。歴史に興味を感じない人に、さぁどのように「歴史の中に自分がいるという感覚」をわかってもらえようか?私には「そういう人にこそ歴史の面白さを語る」ような能力は乏しいようである。


 ただ、ここでお二人の言葉は、ご自分の文章の中でこの部分だけ前後のつながりを欠いて、宙に浮いているように感じられる。この部分だけ、唐突に自身の個人主義的感覚が顔を出して、「歴史の消去」になってしまっているのだ。たとえば弥生時代の優れた航海士や技術者であれ、江戸時代の優れた政治家や学者であれ、その人たちを育んだいかなる土壌とも無縁に、ただひたすら持って生まれた個の能力だけでもって業績を上げることが出来たのだろうか?そのような人たちを輩出できた土壌とは、どのようなものであったか。それは今の私たちに何のつながりもなく、何の感動や知恵をもたらさない渇いたミイラのような知識の遺骸なのだろうか。そんなことはないだろう。


 およそ歴史の好きな人は、過去のいろんな人々の活動を見聞きするとき、それと今ここにいる自分との何らかのつながりが意識されないなどということがあるだろうか?たとえば私が先日から書いた例で言えば、西暦238年前後の東アジアの大きな動きと、その渦中の有名無名の人々のあれやこれやは、どのように考えても現在の私たちの誰にも影響を与えている。もし「それが今の自分達と何のつながりがあるのかわからない」という歴史好きがいたなら、私には、そういう感覚のほうがわからない。ただただ知識情報としての面白さということなのだろうか?なるほど歴史教育は暗記科目に成り下がって久しい。私自身は、史観論争の類より何より、そこが現在の歴史教育の最大の問題だと考えている。それを打開するためには、愛国派の唱える「先祖の業績への感動や感謝、それをみづからの誇りと思える歴史教育」だって、ひとつの試みではあろう。選ぶ素材の偏りは感じるし、政争に深入りして「階級闘争史観へのアンチにすぎない」面もあって、効果のほどがどれほどあるかは私には疑問点もある。櫻井よしこ鎖国文明論などより、森浩一の古代学のほうが正確なうえに面白いに決まっている。しかしまぁ、愛国派の彼らは彼らの思うところをやってみてもいいのではないか、と思う。


 思うに、お二人が反発しているのは、「でもそれが何で自分の誇りになるの?」ということなのだろうけれど、それが「だって自分は立派な人じゃないじゃん」ということなのであればわかる話である。でもたぶん、それなら保守派の愛国者だって、多くは同意するんじゃないか。彼らは歴史上の著名人そのものへの崇敬や自分との一体化ではなく、そういう人材を輩出した土壌を尊んでいるのであるから。多くの人材を輩出し得る土壌というものは、何も能力ある著名人が上意下達式に命令して形成されたものではない。そういう土壌は、それを大切にして維持していく多くの無名の人たちがあってこそ続いていくものだろう。そこが、

なぜそれが「日本国のなし得たこと」になっちゃうんだろうね

それが現在の「自分」になぜ直結するのか

と言うお二人への、私なりの答えである。いわば保守派の代弁的な答えであるが、私はこの点については、おおむね保守派の言うことが正しいと思っている。これに反論するとしたら、優れた人は先天的に優れているか運が良かっただけだというような反論しかしようがないのではないだろうか。私は個人の先天的な能力や幸運などを否定はしないが、それだけではないだろう。そしてそれを言うにあたって、自分の個人主義的感覚は余計なものではないだろうか。それを言い出したら、歴史学歴史教育など、はなから無用のものである。少なくとも、過去の人々の活動が知識情報にのみ還元されるような歴史は、「今の私たちに役立ちそうな知恵」でしかない。


 過去の「立派な先人」の言動に感動して、我が事のように「誇り」に感じても良いではないか。それの何が悪いのかを充分に説明し得ないまま、「その人たちと私たちに、何の関係があるのか」と言って済ませてしまうなら、歴史教育論争から撤退すべきであろう。なぜなら、「学校で子供にどんな歴史が教えられていようが、それがあなたたちに何の関係があるのか。子供たちが日本を誇りに思おうが思うまいが、あなたたちに何の関係があるのか」ということだからである。少なくとも、保守派の人たちは「私たちは歴史の中にある。学校で教えられている歴史の内容は私たちに直結する。子供が自国を誇りに思えるかどうかは、この国で暮らす私たちに大きな関係がある」と主張しているのだから。そこで斜に構えて個人主義を出すのは、中途半端だし自ら墓穴を掘るようなものだと思う。


 とは言え、hazama-hazamaさんの以下の部分は「それの何が悪いのかを充分に説明し得ないまま」ということについては、非常に惜しい部分だと私は感じた。

櫻井は「特異的なすばらしい日本の歴史」と現代日本を直結し、現代の危機的状況を乗り切る精神の拠所としたいのだろう。要するに家康や関孝和と自分の関係性を見出したいわけだ。私にはこれが浅ましい「欲望」に見えてしまう。その「欲望」こそがいわゆる「文明の衝突」を生み出しているのではなかろうか。やはり歴史学、特に世界史的視座はこの「欲望」を解体する方向にあると私は思う。
(中略)
櫻井は「経済も数学も、鎖国の時の日本のレベルは世界一だった」と言うが、世界最高水準であったことは認めるけれども、「世界一」だと誰が言っているのか。また何を基準にして言っているのか。「世界一」だったはずの日本経済はヨーロッパ生まれの「世界システム」に取り込まれてしまったのである。現在の日本は「中核」の一角を占めているだろうから、確かに江戸時代にその下地となる経済ができていたとは言えるだろう。しかし、世界システムの「中核」を占めることが「倫理」的に正しいと櫻井は断言できるのだろうか。


 「世界一」の箇所そのものは言葉のあやだと思う(ちょっと揚げ足取りだ)。「家康や関孝和と自分の関係性」についても先述のとおり、そのような関係性を否定するなら歴史は消去されて終りだ。しかし大意はわかるし、これももっと掘り下げれば、重要な視点だと思う。「ハンチントンの文明論を引用して衝突うんぬん、安全保障うんぬんを言うが、そんなことを言ってるから安全保障は危機に陥る面があるのではないか…」ということだろう。後段部分は、日本文明を論じるのであれば江戸時代までの文明が破壊されていく面が(「文明開化」という言葉とは裏腹に)近代日本には強いことを言わんとしてのものだろう。渡辺京二の『逝きし世の面影』を思わせる。これは傾聴すべき史論であろう。あらためて彼のこの主張に読者の注意を喚起したいと思った。私はこの部分に、自分でももっと掘り下げてみようとしたが、うまく言葉が見つからなかった。