「倭人、時をもって盟すること有りや」

 文明論と史論 - Backlash to 1984で書いた拙文に、saitoさんとhazama-hazamaさんからトラックバックをいただいた。そこであらためて考えたことを述べてみようと思う。それにあたって、まずは史論の続きとして、hazama-hazamaさんのブログでのご意見(http://d.hatena.ne.jp/hazama-hazama/20061227#p1)、これから先に取り組んでみたい。hazama-hazamaさんがここでアナール派と言い、なかんずくブローデルを挙げたことにより、言わんとされたいことが明瞭に私には伝わるように思った。そう言われてみれば、なるほど、どのような批判であるのか、よくわかるように思えたのである。そこで、である。hazama-hazamaさんの次のエントリでは三国志の世界が取り上げられていることから、私は表題の話題を取り上げてみようと思いたった。私は中国史については深く取り組んでおらず、三国志の世界にも熟知していない。曹操呂布袁紹…といった名前を見て、むかし漫画で読んだ記憶が蘇り懐かしい気がしたが、私はその程度である。おそらく私がこれから書くことは、hazama-hazamaさんにとっては既知の話題かもしれない。あるいは初耳でも、私よりよほど人物像や時代背景について生々しく感じられることかもしれないという期待もある。とはいえ、この話題に不案内な読者にもわかるように書きたいので、基礎的なことも省略せずに述べるから多少は回りくどい書き方になることを、あらかじめご了承いただきたい。


 日本の古代史論争における耳目を集める話題のひとつとして、邪馬台国論争がある。現在のところ、主に「邪馬台国は近畿にあったのか、九州にあったのか」「邪馬台国は後のヤマト王権につながっているのか、どうか」という話題である。ただしここでは、この論争そのものには立ち入らない。その論争の過程で持ち上がっている考古学的史料「三角縁神獣鏡」について、それが魏鏡なのか倭鏡なのかという重要な論点があるのだが(第224回活動記録 三角縁神獣鏡神獣鏡に関する最近の報道について)、これについてもここでは深く掘り下げない。こうした出土品から何が論点として浮かんでいるのかというエッセンスを得てもらえれば、それで充分である。上記サイトで紹介されている考古学者・森浩一氏が、その著書『古代史の窓』で述べていることが今回の主題である。


 後漢の末期から魏・蜀・呉のいわゆる三国時代にかけて、遼東の地に漢人の公孫氏による政権が出来ていて強勢を誇っていた(「公孫」の二字でひとつの姓である)。ご存じない方は手っ取り早くwikiで「公孫氏」を検索してみてほしい。ながく漢や魏の皇帝から地方官としての官位を受けつつ当地の支配者として事実上の君臨をしてきた公孫氏であるが、公孫淵の代にいたって「燕王」を宣言する。「燕」とは今日の北京を中心とする、漢土北辺のかなり広大な一帯を指す歴史的な呼称である。公孫淵による燕国の王を称する宣言は、これに今日の朝鮮北部の黄海沿岸までをも含む領域の、いわば分離独立の宣言と言ってよいだろう。ただし、満を持しての挙動でもあろうかと思われるこの動きに対し、魏はひそかに黄海を越えて帯方郡楽浪郡を掌握、燕王の退路を絶ってこれを攻めた。燕王公孫淵は敗死、彼らが歴代にわたってきた支配してきた広大な領域は魏の支配する領域となった。時に西暦238年、魏の年号でいえば景初二年のことである。魏の曹氏・蜀の劉氏・呉の孫氏と並ぶ強勢を誇った公孫氏について、この時代を「実質上は四国時代と言える」とする中国史碩学の見方もあることを森氏は紹介し、自身は考古学者として、当時の倭人の漢土との交流において、遼東の公孫氏勢力との兼ね合いは重視されるべきとの論である。「四国時代」という表現そのものの適不適はさておき、当時の実情を考える上では、なかなか示唆に富む提言でもあると感じる。以下、やや長くなるが前掲書より引用する。

 広大な中国の歴史では、公孫氏勢力の存在はさほど重要ではなかろう。だが日本列島や朝鮮半島の二〜三世紀にとっては大きな存在である。例えば丹後で発掘された銅鏡の「青龍三年」を額面どおりに二三五年とすると、公孫氏勢力が魏と倭の間に立ちはだかっており、倭人、特に外交使節が魏へおもむくことは困難であった。
 僕は青龍三年鏡は、魏の都の製品ではなく、中国製としたら公孫氏勢力での製品かと推定している。前に述べた方格規矩鏡の文様の正L字形は日本にもっとも多く、次いで公孫氏勢力の範囲や韓国に点在しているからである。とはいえ、日本列島での製品という可能性も捨てがたい。要は時間をかけての検討が楽しいのだ。


 ヒミコ女王が使者を魏の都の洛陽に派遣した年は景初二年とも景初三年とも伝えられている。西暦二三八年か二三九年である。『日本書紀』にもこの事件が『魏志』を引用する形で記録されていて、それには景初三年とあるから、最近は景初三年説をとる人が多い。

 前回書いた公孫氏勢力の重みをおもいだしてもらうと、景初二年にしろ景初三年にしろ、東アジアの国際関係にとって重要な節目だった。景初二年なら燕王公孫淵が殺され、魏の勢力が朝鮮半島帯方郡などを手中におさめた年、景初三年ならその翌年になる。
 細かい問題はともかく、ヒミコ女王が魏に使者を派遣した年は、とりたてていうことのない年ではなく、魏の東方政策にとって大きな障害であった公孫氏勢力を屈服させた直後なのである。だから魏の皇帝の対応も破格で、女王の使者を引見して労をねぎらい、女王への詔書をことづけている。この詔書が原文のまま掲載されていて、倭人伝のなかでもとくに史料価値のたかい部分である。

 ヒミコ女王の時代といえば、弥生時代の終りか古墳時代の初めであろう。そんな時期にどうしてこれほど機敏な外交活動ができたのであろうか。前にも述べたが、二三八年までは公孫氏勢力のひらいた帯方郡に倭も韓も属していた。帯方郡楽浪郡よりは南、今日のソウル市あたりかと推定されている。要するにその帯方郡を通じて倭人たちは間接的に魏の情報を入手していたのである。

 ここからは僕の想像である。朝鮮半島南部の釜山市や金海市の遺跡で、最近倭で作られたとみられる品物がかなりの数で発掘されている。弥生時代から古墳時代の品物である。といって倭人が土地を占領していたというような出土状況とは違う。
 商業活動の盛んな港に倭人も雑居していたと僕は推定している。そのような商業活動をする倭人は政治状況にも敏感で、女王国との連絡にもあたっていたのだろう。


 この引用箇所のあとには卑弥呼女王の使者が入れ墨をしていた話が続き、これも面白いのだが割愛して次に紹介するのは、同書に収録された別の小論にある中国での出土品の話である。発掘箇所は安徽省の毫県にある後漢時代の曹氏の墓で、曹操の直前の縁者のものである可能性が極めて高いそうだ。この曹氏墓から出土した「倭人字磚」と呼ばれている遺物がある。「磚(せん)」とは「かわら」の意味で、「倭人字磚」とは、「倭人」という字が記されている瓦のかけらのことである。この墓から出土した多くの字磚の中に、「有倭人以時盟不」という七字が記されているものがあった。これを和訳するなら「倭人、時をもって盟すること有りや」と読み下すのが妥当とのことである。これを専門に研究している中国や日本の研究者の説を森氏は紹介しているが、それらを要約すると、状況的には倭人の大量移住による居住地の存在を想定するのが共通意見のようで、太古から倭人と関わりの深い会稽にあった居住地から代表者が毫県に呼ばれたのではないかとか、毫県付近に数百数千人規模で倭人集団が居住していたのだろうとか、なかなか興味深い説が紹介されている。


 曹操の直前の頃であるなら、『後漢書』に見る「倭国大乱」の頃でもあろうか。倭国大乱は卑弥呼女王を「共立」することで収束したこと、卑弥呼の没後また乱れかけたが宗女の台与(トヨ)を立てて再びおさまったこと、このときには魏から張政が派遣されて檄を飛ばしたことなどが漢土の正史には記してある。後漢末期からの曹操など英雄群像の歴史書には、漢土の内に住んで、時には祖国との連携も取っていたであろう無名の倭人の話は出てこない(倭国から献じられた人々の話は出てくるが、そういえばその人たちがその後どうしていたかの話題はない。また、そうした人々だけではなく交易その他での移住者もいたことだろうことは、これまであまり想起されてこなかったようだ)。日本国内の正史にもこうした人々の話は出てこない。しかし、そのような人たちは確かにいて、劉氏の大漢帝国曹操親子が滅ぼして取って代わっていく動乱を見ていただろうか。倭国大乱が女王の共立により収束したとの伝聞も耳にしただろうか。あるいは、曹氏筋から何事か密約を頼まれる立場の、在漢倭人の有力者もいたりしての、魏と邪馬台国の修交でもあったのだろうか。「倭人、時をもって盟すること有りや」…想像は膨らむが、妄想に入る前にやめておこう。ともかく、漢土に移り住む多くの倭人もあり、倭国に移り住む多くの漢人もいただろうことは想像に難くない。森氏は「倭人字磚」の章の中で、このように注意を促している。

 最近の日本の古代史では、”東アジア史のなかで日本を位置づけよう”とする当然の目標がかかげられている。もちろんそれは”せめて東アジア史ぐらいは視野において”という最低の努力目標にすぎないのだが、この風潮にあっても容易になじまれにくい問題が依然としてあった。それは先述来の移住とか商業活動での往来という程度の人間の動きにたいしても、(1)朝鮮半島から日本列島へは大量の人たちが移住するがその逆(倭人朝鮮半島へ行く)は認めにくい。(2)中国からも直接かあるいは朝鮮半島を経由するかのルートで日本列島に移住した人たちはいただろうが、倭人の中国への移住は認めにくい、の二つであり、(1)は主に朝鮮人学者が、(2)は主として日本人学者が根強くもっている潜在的おもいではないかと私は印象づけられている。


 森氏は、国内外の正史に見る史料価値を無碍に否定はしない。妄信もしない。正史のもつ性質から来る限界性その他にも留意しつつ、考古学的な出土品と史学的な文献史料とを縦糸と横糸にして古代学を構築したいと森氏は述べる。そこには、アナール学派の視点も取り入れているようだ。hazama-hazamaさんをはじめ、近年の保守論壇に出てきがちな史観についての論調に反発する歴史学徒の言いたいことは、おそらく、こういうことなのだと思う。そうした意見に、私も同感なのだ。それを踏まえて、続きを書いていきたいと思う。