肌の色と人種概念について

人種をめぐる議論が大隅典子の仙台通信で行われいる。その議論そのものについての感想は、そのコメント欄に少しだけ投稿した。そこで、ひとまず視点を変えて述べてみることととする。まず、人種と言っても多様であるということについてであるが、基本的には肌の色素細胞に含まれるメラニン色素の量によって、褐色に見えたり薄紅指した白に見えたりコーヒーブラックに見えたりするのだ。そのメラニン色素の量にしても、個体の生涯を通じて不変なのではない(日に焼ければ濃くなる)。しかし、そうした「個体差の連続性」や「個体における可変性」をふまえてなお、生まれ持っての色素の可変域があるはずである。それが「集団間の連続性と不連続性」である。たとえば私はごくごく普通の「黄色人種」の肌の色をしているが、北極圏に長く住んだからといって「ノルウェー人のように白くなったり」赤道地帯に長く住んだからといって「ガーナ人のように黒く」なったりはしないのだ。そうした個体レベルの色素の可変域の幅は、遺伝による形質の幅を超えまい。やはり生理的な基盤があるのである。その遺伝的な形質の幅の中で、環境によって「生っちろく色白になったり」「小麦色に日焼けしたり」するのである。


ところが、いわゆる「移民の国」のように雑多な人種間で活発な通婚があればあるほど、どの個体でどんな肌の色の形質が発現するかの幅に広がりが起こる。ブラジルなど「両親ともに見た目は白人なのに生まれた子は黒人のように黒い」ということが時々あるそうだが、これはこの国では(アメリカと比較すれば)異人種間の通婚が珍しくないためだそうだ。たまたま両親それぞれにおいては、何世代か前の先祖の通婚により「濃い色素細胞につながる遺伝子」が受け継がれていながら発現していなかったものが、その子においては発現したものと考えられるだろう。それに対し、そこまで多様な人種が混ざり合って住んでいるのでもなく、大規模な通婚のない種族については、肌の色ひとつとっても、遺伝的な個体差の可変域を超えるほどには多様にはならないであろう。そうしたことを踏まえて、norisansunさんのブログhttp://d.hatena.ne.jp/norisansun/20060728における下記の見解には、何を気をつけてほしいかという訴えの部分に共感できる点も多いのであるが、やや不可解な記述があることも指摘しておきたい。

生物人類学には科学的根拠なるものをつけて「人種概念」を構築してきた歴史がある。その基礎になった生物分類学の分類は恣意的なものだ。人種の構築のために、過去には「目の前に飛び込んできた」肌の色などが使われていた。分類のためのカラーチャートまで作られて。でも色って連続的なものでカテゴリーに分けられるものではない。どこでその色を区切るかというのは主観的になってしまう。人類の皮膚の色は有害な紫外線から守るために選択によってできた形質だ。紫外線の強い熱帯地方に住んでいた祖先を持っている人たちの皮膚の色素は濃い。色素の濃い肌は、熱帯に住む人々にとっては有利な適応なのだ。しかし、黒い色といってもたったのひとつの色ではない。赤道直下に住む人人の皮膚の色は最も濃く、そこから南北へ遠ざかると皮膚の色は少しずつ薄くなっていく(皮膚色のクライン・勾配が見られるのだ――勾配、今度詳しく説明します)。

顔かたち(形質人類学でみる骨の形など)が似ているのは血縁関係を表しているのであり、これは選択力とは関係のない形質だ。選択力によってできた形質と血縁関係をごちゃ混ぜにしたのが、一般に認識されている「人種」というカテゴリーだといえる。


私がここで感じたのは、化石として残る骨格という要素と、化石にならない肌や毛の色という要素が無造作に比較され、骨格で系統関係はわかるが肌や毛の色は化石にならないからわからないという、ごく当たり前のことを述べてしまっているのではないかということだ。化石からわかる骨格と違って、肌や毛の色は化石からはうかがえない。骨格の異同は系統関係の推測に非常に役立ってきた。だからこそ古生物学や古人類学では骨格の異同を基準においた分類が重宝されてきたのである(これにも限界や問題点はあるが本稿では割愛する)。おそらくそのことを言わんとしてであろうが、しかし骨格と、肌や毛の色と、それぞれに対応する遺伝子セットのどちらが変異しやすいか、そうした研究結果があるのだろうか。そこで、以下のように考えてみることとする。


「人類の皮膚の色は有害な紫外線から守るために選択によってできた形質だ」というのは、そのとおりである。その場合、ここでいう「選択」とは「自然選択(natural selection)」および「性選択(sexual selection)」のことであるはずだ。これをわかりやすく説明してみたい。日差しの弱い地域で先祖代々、色白ばかりの個体で形成された種族(遺伝集団)があるとする。その中の個体(♂)が、日射の強い地域に移り住む。日焼けして小麦色になる。やはり小麦色に日焼けした同郷同族の個体(♀)と出会って婚姻し、子を産む。この子は両親の小麦色の肌を生まれながらに持っているだろうか?否である。獲得形質は遺伝しないからだ。この子も強い日差しを浴びながら育てば、いつも小麦色の肌をしているかもしれないが、それもまた獲得形質である。では、この種族が集団でこの地域に移住してきた場合、かれらは永遠に色白なのだろうか?そこから考えてみよう。


どれほど親が日焼けしようがそれは子には遺伝しない。しかしたまたま色素の量の調整に関する遺伝子に変異があって生まれつき色黒な子が生まれてくる可能性は、それほど低くはないだろう。そのようにして生まれつき色素細胞にメラニン色素が多く含まれた(それだけさらに日焼けすることもできる)個体は、かれらがこの地域にずっと住み続ける限り、その集団間の中では生存に有利であるといえよう。その有利さゆえにその突然変異が次世代に受け継がれてゆき、次第にその集団間の中で「色黒な肌につながる形質」は広まってゆく。これが自然選択である。ただしもうひとつの選択、すなわち「性選択」がある。ここで問題は、そうした色黒の個体が、それを忌避されて配偶者を得られないような場合である。その場合は、その突然変異も受け継がれないのだ。ここに分岐点がある。もしそうした配偶者選択の指向が変化しない限り、この種族は日差しの強い地に移り住みながら、何世代たっても「色白の人の日焼け」以上には肌の色が濃くならないだろう。強い日差しを防ぐには別の方法を考えることで何とかしていくだろうと思われる。しかし、そのような忌避感情が働かない場合はどうだろうか。まして、色黒な個体の日差しへの丈夫さなどが評価され、異性にとってそれが性的な魅力として捉えられるように指向が変化した場合はどうか。そのときには、上記の自然選択との相乗効果が起きよう。


ここでは、その性的魅力という指向の変化の起源が文化的な変化であるか、それにつながる遺伝形質上の変化であるか、相乗作用なのか等々までを考える必要はないだろうから、一応これで進化論的な用語の基礎的な説明としては充分だと考える。逆に言えば、この集団がもともと色白ばかりであったことの理由も、同じことで説明ができる。引用文中の「色素の濃い肌は、熱帯に住む人々にとっては有利な適応なのだ」とは、そうした進化的な適応の産物だということなのだ。そしてここで、もうひとつの重要な要素を加えたい。この地域に、既に先立って強い日差しに適応した色黒な種族がいる場合である。人類は単一種である。先住集団と移住集団との配偶の結果の子孫が、繁殖能力を失うといったことはない。では、上で挙げた二つの選択の相互作用を思い浮かべて、ことに配偶者選択の指向における変化の有る無しがそれぞれどのような結果につながるか、それぞれにシミュレーションしていただけたらと思う。


さて、そこでである。そのようないろんなケースを想定した上で、ある特定の肌の色が、一対一の対応の関係でもって、ある種族を特定できる指標になりうるか?ということである。人の肌の色というものは、フルカラーではない。たかだかメラニン色素の多寡とか皮膚を透けて見える血の色とか、その程度のヴァリエーションしかないのであるから、環境への適応と繁殖への適応の結果としては、ほぼ同じような肌の色も異なる血縁集団に表れうるのである。そうしたものである以上、他の遺伝形質を含めた単位として、ある肌の色と一対一の関係で「特定固有の遺伝子プールとしての人種」を成立するものとは考えにくい。ある血縁的に密集性の高い種族においては、肌の色も含めて「特定の遺伝子プールとしての人種」である可能性はあるだろう。しかしその人たちと同じような肌の色は、全く異なる系統の種族にも現れる可能性を排除できないのであって、具体的には地誌的・歴史的な検証を抜きには考察できないことになる。生物学的に、現時点で得られている情報だけで、どこまで分類できるか。ましてそこに「民族」という主に言語を基準とした概念を重ねてみよう。同じ言語でもって意識化された、ある「種族」は、はたしてどこまで血縁的なまとまりがあるだろうか。このことは次回に史学的に実例を挙げながら述べてみたいと思うが、おそらく文脈上norisansunさんの結論部分は、それを含めて言わんとしたものだと解したい。しかしそれならば、「ある色の肌が、ある種族に、一対一の対応の関係を表してはいないのだ」という一文を、くどいようでもつけ加えてほしかったと思う。なぜなら、それは「肌や毛や目の色などは、遺伝子とは関係ない」ということではないからであって、隔世遺伝も含めて、やはり対応する遺伝子セットの産物であることには変わりなく、その表現型は何らかの血縁関係と無縁ではないのである。つまりここは、文脈によって理解できる人と、何の話なのかわからず誤解してしまう人とが分かれてしまう箇所だからだ。


ところが、上記の結論箇所については意味が不鮮明である。非常に誤解を招きやすいとも思える。「骨格などの顔かたち」も「肌の色」も、どちらも(特異な個体ではなく標準的な偏差としては)(大規模な異族間の通婚がなければ)血縁関係を表しているのである。骨格や肌の色は遺伝形質ではないなどと言うのであれば別だが、そんなことはありえないからだ。骨格や肌の色にも、その個体にとっての獲得形質の部分(栄養不足で背が伸びなかったとか、いつも日焼けしていたとか)もあるにせよ、それ以前の個体発生のもとである遺伝形質のうえに、そうした獲得形質もありえるのである。これを混同してはいけない。ところが引用文中の結論では「肌の色」が「選択力によってできた形質」であるとしているのに、それが「血縁関係」を表していないと受け取れる表現であって、いささか杜撰な表現ではないかと感じる。「自然選択と性選択」という進化論の基礎用語それ自体が理解できていないのであれば元も子もない話なのだが、まさか専門家がそんな基礎概念を理解できていないとも思えない。


人種概念がいかに分類者の基準によって左右されるか、その分類者自身が属している社会の固定観念や通念に左右されやすいものかということを説くのは良いのであるが、ただひたすら、人種概念そのものを解体したい、生物学的に無意味だと言いたいばかりに走ってしまうとすれば、それは唯心論のようなものだろう。骨格にしろ肌や毛の色にしろ、その連続性や可変域にしても、個体が生まれながら持ったものを基盤にしていることに間違いはない。それは遺伝を通じて個体から個体へと受け継がれるものに違いはないからだ。生物学的な実体というのは、そうしたことを言うはずである。そうした生物学的な実体の様々な組み合わせの中から、何を基準に選び、どう分類したり意味づけしたりするかは、いかにも社会構築的なものも多い。とはいえ、社会構築的な要素が分類に影響するからといって、分類の基盤である個々の形質の実体までが存在しないことではないのだ。そしてそうした個々の遺伝形質は、突然変異を起こしながら遺伝子多型(SNP)を形成しつつ、環境への適応度という自然選択と、繁殖への適応度という性選択により、伝わったり伝わらなくなったりするのである。その伝わり方を考慮すべきなのだ。ある遺伝形質が繁殖範囲内の集団に広まるか否か、そこに「環境への適応度による自然選択」と「繁殖への適応度による性選択」とが働くのである。


人間の社会といったものも、そうした生物としての実体の上に成立し、文化として増幅されてゆくのだ。極めて高い生後の学習能力という特質の上にあるのが文化である。その文化が、人間という生物種の生物学的特質と無縁であろうはずもないのである。つまり、社会構築的であるということは、すなわち生物学的であるということといって過言ではないはずだ。生物学的視点を欠いた、もしくは否定せんがための社会構築主義になってしまうのであれば、それは生物を創造しませる神の視座に成り上がることにほかならないのではないだろうか。自然の一部である人間は、自己を形づくる自然の範囲内でしかものを見ることも考えることもできないのである。