祖母の涙


今日はお彼岸ということで、お盆には行けなかった墓参りに行ってきた。老いてすっかり弱ってしまい、病んで遠出が無理になっている父の名代としての墓参りでもあった。お墓は山中の霊園にある。秋晴れの好天にめぐまれ、空気がすがすがしかった。


我が家のみんなでお墓をきれいにして・・・と言っても、子供たちは「あ!ハナムグリ!」「おっ、ゲジゲジ!」などと虫にばかり気をとられていたが。妻が「お彼岸にお墓に来る虫は、ご先祖様の魂が虫になって帰ってきているんやけ、殺しちゃダメよ?」と言うと、子供たちは「え〜っ、そんなん初めて聞いた。ほんとにぃ?」と言う。私は「そういえば、民俗学か何かの本で、古老の語りとして読んだ覚えがあるけど・・・」と思ったが口にはしなかった。


霊園を出て帰りの車中、「気になっとったけ、お墓参りに来れて良かったぁ」と妻は嬉しそうに言う。道すがらに咲いている彼岸花を見て、次男が「赤い曼珠沙華をお墓にお供えすると幽霊が出るんやったっけ」と、学校で聞いた怪談らしきことを語りだし、この花の話になった。妻も子供たちも「曼珠沙華」と言うので、私は「お彼岸の頃に咲くけん、彼岸花とも言うんよ」と子供たちに教えてやった。「俺は、曼珠沙華と言うより彼岸花と言うほうが好きやなぁ」と言うと、妻は「彼岸花、と言うと、さみしい感じになるんよね」とつぶやいた。


そして実家に寄った。今日は父の誕生日なのでもあった。数年前に母が他界し、昨年は祖母が他界して、実家には今、父ひとりである。家族そろっての里帰りは久しぶりであった。みんなで仏壇に焼香し、念仏を唱えた。妻が花を活けるために台所で用意をしている間に、私は長男にお供えの水を替えて来させ、供え方を指南する。「いいか?湯飲みの底の水気はこうしてきちんと拭き取って・・・」と、その時である。


「あぁっ、お父さん、お父さんっ!!」と彼はかすれた声で静かに叫んだ。私が「どうした?」と聞くと、「大婆ちゃんが泣きよる・・・」と遺影を指差した。仏壇に飾ってあるのは、祖母の葬儀のときに使った大きな遺影で、「大婆ちゃん」とは子供たちから見て曾祖母をそのように呼んでいたのである。視線を上げて目をやると、眼の前にあるその遺影の祖母の左目の端から、ひとすじの線を引きながら、ひとしずくの涙がガラスの上を垂れていっているのであった。


私と彼は、仏間で二人、声もなく「それ」を見つめていた。涙は、ゆっくりと流れ落ちてゆく。私もこれまで、なにかそういったものが「見えた」ことはある。もちろんそれは、「目の錯覚じゃないの?」と言われたら「そうかもね」という範疇の話であった。しかし今、目にしているのは「そう見える」のではなくて、水滴というモノが「ある」のである。あとで彼が「俺、ちゃんと手を拭いとったけ、水が飛ぶはずないんよ・・・」と言ったように、水滴が飛ぶ経緯はなかった。流れてゆく涙を見つめながら、「えぇっと、うん、うん、こういうのは読んだり聞いたりしたことがあったな、よく聞く話で・・・いや、でも、あれ?ほんとに??」と心の中でとまどいつつ、「心細かった」「でもホッとした」「こんなに大きくなって」という想いが・・・それは遺影から伝わってくるようでもあり、私の中での解釈のようでもあり、ただただ二人で見つめていた。


やがて私は、襟元まで流れた涙をハンカチでソッと拭き取ってやりながら、息子の肩に手をかけ、祖母に「ほら、大丈夫だよ、安心して」と声をかけた。それだけ言うのがやっとだった。席を立つとき彼と顔を見合わせた。二人とも大きく息を吐き出すように「うん」「うん」とだけ頷き合って、お互いに今見ていたものを確かめ合い、仏間を離れた。