生物学的○○

前から不思議に思っていたのですが、「生物学的性差」って、何すか?そこで言う「生物学的」というのは「生物学としての」の意味じゃないでしょう。「生物としての」ですよね。でも「生物として」と「生物学として」はイコールじゃないはずです。「歴史の」と「歴史学の」もイコールではないのと同様。つまり「歴史学的性差」とか「物理学的性差」とか無いでしょ?と。「考古学的性差」とか「地質学的性差」とか「天文学的性差」とか・・・いや、最後の「天文学的性差」はあるかもしれませんね、男と女のアレコレで。たぶん、そういう「天文学的」と似たような使い方で「生物学的」と言ってるのはわかるんですが、仮に「天文学的性差」と聞いても、まさかほんとの天文学でのことだとは思わないのと違って、「生物学的」という表現はクセモノです。


何でこんなことを思うかというと、いわゆる「生物学的決定論」というやつ、あれは似非科学の最たるものであって、生物学ではそんな考え方はしてないはずだと(私は進化論方面しか知りませんが)。似たようなので「遺伝決定論」もありますが「遺伝学的決定論」とは言いません。いわゆる「生物学的決定論」というのは、要するに「生物としての宿命なのだ」論なのですが、それを「生物学的」と表現するのは不適切ではないでしょうか。生物学的な説明が、この種の似非科学の宿命論=決定論に誤解されことが多いのも、誰が言い出したやら「生物学的決定論」なる言葉が問題かとも思えます。「決定論」というのも誤魔化しっぽい。「生物学風宿命論」とか、「生物的宿命説」とでも言えば、トンデモっぽさが明らかで良いと思うのですが。


で、「生物学的性差」なる妙な言葉も、せめて「生物的性差」くらいにすれば良いと思うのですが、要するに体の違いのことでしょう?だったらもったいぶらずに「男体と女体」でいいじゃないでしょうか、言っちまえば。それを学術用語めかして言うから、何のことを言っているのか口にしてる当人もワケがわからなくなるのではないかと思います。


「男女の違いには、生物学的性差と社会的性差があります」とかよく聞きますよね。官製ジェンダー論などは主にこれかと思いますが、これを社会学の立場で言うのが、どうも言葉の作為のように思えます。試しに「男女の違いには、生物的性差と社会学的性差があります」としてみてください。途端に印象がかわるはずです。


「男体と女体」と言えばいいところを「生物学的性差」と置き換えるとき、そして社会学的性差分析を「社会的性差」と置き換えるとき、社会学は透明化され生物学がジェンダー学の俎上に乗せられているのではないでしょうか。すなわち「Sex is gender」という立場からの表現だと思います。