煩悩を寂滅していたわけではなかった蝿の話

日本学術会議主催公開講演会「身体・性差・ジェンダー ―生物学とジェンダー学の対話―」という催しが開かれたらしい。つねづね「理系と文系の知の断絶」を危惧している私としては、このような対話について、どんどんなされていくべきだと思う。もちろん、今回が初めての試みだったからでもあるだろう、すれ違いばかりが目立ち実のある議論にはならなかったようですが。ただ、やはりというべきか、現在のジェンダー学の問題も出てきています。ショウジョウバエの遺伝子研究を紹介する中で起きた「当世流行馬鹿噺」を取り上げつつ、ある問題提起がサラッと流れているようにも思えた箇所にも後に触れたい。


その遺伝子はsatoriと命名された変異体であり、どういうものかと言うと、http://chiwawa-memo.cocolog-nifty.com/blog/2006/07/post_b716.htmlより引用しますが、

このsatoriと呼ばれる変異体のオスはメスに全然、求愛しないのです。性欲に悩まされることもなく、まるで悟っているような、その行動から、そのハエはsatori(悟り)と名づけられました。名前からわかるように、このハエを見つけたのは、日本人です

というものだそうです。このsatoriの命名の由来はそうした理由でしたが、後の研究で、この変異体を持つ雄蝿は繁殖意欲がないのではなく、同じ雄に求愛することがわかったらしい。それがわかってからは「悟っているわけではなかったんだね(笑)」ということだったようです。なお、こうした命名法はショウジョウバエ研究者の伝統だそうで、wikipediaによると、

ショウジョウバエ研究者はウィットを利かせた(ときとしてダジャレのような)遺伝子名を付ける伝統を持つ。例えば musashi(毛が二本になる→二刀流の宮本武蔵)、 satori(オスが交尾をしない→悟りの境地)、 hamlet(神経になるべきかならざるべきか→シェークスピアの戯曲「ハムレット」)など。他生物種の研究者の中にはこのような習慣に否定的な意見をもつ人もおり、Nature 誌で議論がなされたことがあったが、ショウジョウバエ研究者は概ねこの伝統を誇りにしているようである。

とのことです。ところが、この「satori」に思わぬクレームが。どのような非難をされたか、その典型的な意見を、この講演会に出席した生物学者のブログより抜粋します。
大隅典子の仙台通信
大隅典子の仙台通信
大隅典子の仙台通信
まずは、そのコメント欄に寄せられた意見から。

ショウジョウバエの研究について紹介される中で、同性指向の一群を「さとり」と名づけていたと言われました。それは大隈先生の中では会場の笑いを誘いだすユーモアとしてあったように思います。現に会場からは笑い声がもれました。しかし、もはや異性を指向しないハエ=さとってしまったハエ と名づけること、それが人々のおかしみを誘うものだと含意されていること そのことは 私たちの社会において同性愛者が「オカマ」として笑いものにされていることと果たして無縁でしょうか?私は笑えないひとりの聴衆としてそこに存在しました。ほかにもそういう方はいたと思います。そしてこのことこそ、人文社会系学者が自然系学者に対して「ご自身の研究を価値中立的な真実の探究と信じて疑わないあなたはいったい何者か?」と問い詰めたいことの背後にある悲しみと苛立ちなのです。

この誤解に対し、ryoさんという人と大隈氏自身から述べられていますが、この「satori」という命名がケシカランという意見は出席していたフェミニストからも挙がっているようです。大隈氏は、こう書きます。

「サトリ」という遺伝子変異体の名前も、その後上野先生から主催者に宛てられたメールでは「何故そのようなジェンダー的解釈をするのか?」という問いかけがありました。世の中全体が「そいうことはケシカラン」という体制になったら、生物学者は変異体や遺伝子の名前を付けるときに、「ジェンダー的視点」を考慮しないといけないということですね。

この「satori」の由来は、出家した僧侶の「悟り」の境地からの連想でしょう。仏教には、僧侶が女性と交わることを「女犯(にょはん)」として厳しく戒め、妻帯も禁じていたことがあります(今でもその戒律を守っている宗派もあると思います)。色恋への関心や情欲なども「悟り」を妨げる煩悩として、それを寂滅することを課していましたから、雌の蝿に無関心な雄の蝿を「まるで悟りの境地に達した僧侶のようだ」と連想したことによる命名だとわかります。同性愛を「悟り」であるかのように思ったのであれば変ですけど、そういうことではないわけです。会場で笑いが広がったことを、「ゲイは悟っている」などという意味不明な笑いであるとどうして思えるのでしょうか。命名時の理由も述べられていたとのことですので「昔のお坊さんみたい」という笑いではなかったのでしょうか?


ジェンダー学をやっている人々から、なぜそういう基礎的な文化史すら気づかずに見当違いな糾弾が出てくるのでしょうか。「人文系」の名が泣きます(ショウジョウバエ研究者のほうがよほど文化的教養があるではありませんか)。硬直した政治思想によって、言葉の表現ことごとくに「性の政治性・権力性」を見て取るコード検閲のような読み方をする。バトラーだフーコーだも結構ですが、西洋の思想家の著書ばかり読んで頭デッカチになり、自国の基礎的な文化史すら想像できない人たちが文化文化と言い立てるさまは滑稽です。浅知恵もほどほどにしてはいかがかでしょうか。もっとも、こうした糾弾がどっと沸いているというわけでもなさそうなので、「あぁおそろしやフェミニスト」などと言うつもりではありません。にしても、またも上野千鶴子。どこまでミスリードする気なんでしょうか。しかも、これまでも同性愛者に対して偏見・嫌悪・侮辱的な発言を繰り返しているのは上野自身であり、「どの口が言うか」と呆れるばかりです。当日、上野は最後に「ジェンダー学はジェンダーの正義、社会的不公正をただすことを目的としている」などと言っていたそうですが、こんな独善的な「正義の人」に「正され」ては、科学もたまったものではありません。


上野は「何故そのようなジェンダー的解釈をするのか?」と言っているそうですが、まるで思想警察です。逆に「あなたがそこで言うジェンダー的解釈とは何か?あなたは何を問うているのか?」と問い返すべきでしょう。上野は「ジェンダー」を「差別を生む構造」だとしているのだから、ならば上野の問いは「何故そのような差別を生む構造にはまった解釈をするのか?」の意味でありましょう。しかし、雌に関心を示さない雄の蝿が、まさかほんとに仏教的な修行をしているものと思って命名したわけでもない。ウィットでそう呼んで微笑んだのが「差別を生む」というなら、そういうウィットが仏僧に対する差別を生むのかどうか、お寺さんに聞いてみてはどうか。あるいは、もとは肉欲の煩悩を寂滅した僧侶を連想して「悟り」と命名してみたら、実は同じ雄に求愛するので雌に関心がなかっただけだとわかって「なぁんだ、そういうことか」と思わず笑う、それがゲイへの「差別を生む」のかどうか、これも当事者に尋ねてみれば良い。坊さんでもゲイでも笑う人は笑うでしょう。笑わない人は面白くないから笑わないだけでしょう。しかし自分が面白くないからといって「差別だ」という者がいたら、そんなお馬鹿な差別論こそ批判すべきなのです。


■付記■
上記にコメントを引用させていただいた「聴衆」氏からは、これとは別に大切な指摘もあったので併せて引用しておきたい。

科学自体にありうは知の探究自体に罪はなく、問題があるとすればその知見を運用する社会あるいは人間の側にあるのだ、と切り離して考えることがどうしてもできずにいます。山元先生のホームページを探してみました。「satori変異体他4つの変異体の各原因遺伝子のクローニングに成功し、新規の性決定因子をはじめこれまでに知られていない新しいタンパク質群が性行動にかかわっていることを明らかにした。また一部の変異体については行動異常の「治療」に成功した」と記されておりました。「行動異常の「治療」」―この言葉は私を震えさせます。ショウジョウバエで得られた知見が同性愛の「行動異常の「治療」」に応用されるのではないか、と。((中略))知は常に社会の要請の下におかれており、ショウジョウバエの「行動異常」の原因追求もまた、ヒトへの応用をはかりたいという社会の欲望の下にあるのではないかというのはうがった見方でしょうか。

大隈氏からはこれに対し、自分の信念としてそのようには思っていないむね返事されている。もちろん、このやりとりは大事なことなのであるが、もしこれを、二人の私情のやりとりとしてしか見なかった人があれば、少し考えてほしい問題だと思うので少しだけ述べておきたい。私の知るところでは、たしか同性愛がかつて、「精神病」として「隔離・治療」の対象であった一時期が近代にあったかと記憶している(現在WHOでは同性愛は治療の対象ではないむね宣言しているとのことである)。「聴衆」氏は帝国主義うんぬんといったことで説明してしまっているが、それより史実として過去にそのようなことがあったことに触れるべきだったようにも思う。私はこのことについて多くは知らないので、ここまでしか言えないのであるが、このことが「私はすごく怖かった!」「大丈夫、私はそんな風には考えていないから」という二人の私情でのみ語られて終わったようにも見えかねない。しかしこうしたことは、ただひとりの同性愛者の恐怖感と一生物学者の良心的信念のみの枠内ではなく、ひろく生物学・遺伝学・医学などでの研究、そして世の人に共有されるべき問題提起である。そもそもこれを同性愛だけの問題と思うのも誤りであって、ゲノム研究の悪用や誤用は、将来に対して大きな問題となることが予想されるからである。上野が自分を棚に上げて頓珍漢な方向で正義を振りかざしているが、こうした点からも論外である。