自分の主張の是非を話し合わないフェミニスト(ただ言いたいだけ?)

macska dot org » 仲正昌樹著『ラディカリズムの果てに』のラディカルなコメント改竄のコメント欄が閉鎖されたので、こちらに続きを掲載します(正確に言うと、こちらの旧板に6月11日に掲載したものの転載です)。元エントリにおいては、仲正昌樹の引用が改竄だ曲解だとするmacskaさんに、改竄にも曲解にも当たらないと指摘した、ただそれだけのことだったのですが、元々の話が上野千鶴子批判の是非の話であっただけにそれも議論のテーマになりました。ところがmacskaさんはそれらを「どうでもいいようなこと」として「因縁をつける」「つきまとう」などとして、「ストーカー排除」を呼びかけた投稿者の要請に同調してコメント欄を閉鎖したもの。

なお、議論となった2件のうち後者については、私の旧板に書いたmacskaさんあての返信を以下に転載するにとどめ、議論の続きそのものは(当該エントリの参加者に私の旧板の常連さんが数名いたため)私の掲示板で行っているのでそちらを参照してください。
newSpeakBBS


>macskaさん

私はあなたが言うほど、あの論文が支離滅裂だとは思いません。「ジェンダー」という指標をどのように考えるべきなのか、過去のいろんな論を紹介しながら最終的に「こう考えるべきなのだ」と自分の見解を述べていく過程は、そんなにわかりにくくはありません。

理解しにくい文章なのは確かです。1995年版(論文「差異の政治学」初出)はまだいいんだけど、2002年版(単行本収録版)はとにかく不可解な書き足しがあちこちにあって論理が破綻しているし、ひどく読みにくくなっています(もしできるなら、1995年版を探してみてください)。それでも、誤解に基づく批判が正しくなるわけではありません。

ともかくあなたにとってそうなのであれば、いったいあなたに当該論文の何がわかったと言うのか。「わたしにはわからなかったし、あんなのわからなくて当たり前。あれがあんたにはわかったのか。ふーん」で充分でしょう。自信家なのは結構ですが、少なくとも自分にわからなかったものが「わかる」と言っている相手に、「あんたはわかっていない」と言えるはずがありません。

上野の「差異の政治学」は、ジェンダーが様々な論者によってどのように論じられてきたかを時間を進みながら解説する文章です。そのなかで(引用者略)それら全部をいちいち上野の意見だと解釈するのは明らかな誤読です。

当たり前でしょう。あなたの癖として、「そんな馬鹿はいねーよ」というくらい非常識な設定を自分がしておいて、さも相手がそうなんだとすることが多いですね。つまらない演出というか、素でやってるんなら小心者の自信の持ち方だな、それは。ただ大事なことは、当該論文は単なるオムニバス形式の「ジェンダー論集」ではありませんよ。あなたの意見には、ときおり「え?あれを単なるこれまでのジェンダー論集だと思ってるの?」と感じる表現が出てくるんですが、そこんとこ、どうなんでしょうか。

芥屋さんはとにかく上野なりわたしなりにとにかく粘着してケチをつけたいだけだということがよく分かります。

上野の当該論文にそれなりの評価を与え、酷評しているあなたと意見が対立しているのは私なのですが。昔やってたという心理学の成績、悪かったんじゃありません?

単にあなたがスコットの定義を理解していないだけ。スコットの定義を前提にしたうえで、なおかつジェンダーではない「セックス」に関する議論が可能だと思っているとしたら、その時点で大きな勘違いです。

私の書いた試論は、スコットからも離れていく方向性だろうとは思いますよ。スコットの定義は、あの言葉の字面だけ見るのとは大きく異なるものを含んでいますから。上野が力説したのもそこですけどね。だから「いったん上野を離れて」とことわったのです。

そこんとこ、感情的にならずに「それだとスコットの言いたかったgenderから、こんだけ離れてしまう」という意見が聞きたかったですね。ちなみに私自身、あそこまで書くと、さすがにあれをして「スコット流」だというつもりはありません。

だから「スコット流の定義を医科学的所見と整合させるのであれば」と書いたのですが、スコットの定義から直に導かれるような印象になっていたのであれば申し分けないです。「スコットからも離れることになるだろうが、少なくともその定義の文句を医科学的所見と・・・」と書くべきであったのかもしれません。まぁ、そこまで厳密にしなくても、こう考えれば成り立つ表現ですね、という趣旨でした。

で、私が試論で翻案したgenderが、スコットの言うgenderからどのようにかけ離れているかというなら、macskaさんがレクチャーすれば良いのに。