「マジョリティの価値観」(1)

「マジョリティの価値観」って、何だと思いますか?何だかわかったような、よく考えるとわからないような気がしませんか?私がこの言葉そのものを考えてみたくなった、興味深いやりとりがありました。macskaさんとこのhttp://macska.org/forum/YaBB.cgi?board=gender;action=display;num=1149994590でのにおけるtpknさんと、おーつかさんのやりとりです。そのことを、三部形式でお送りします。まず初回は、お堅い論理篇(苦笑)。小難しい話が嫌いな人は読まずに二回目以降にどうぞ!


もとはいえば、その該当部分は草師匠ことxanthippeさんのひとことから始まりました(いつものことですが)。

二昔ほど前だったかな?結婚相手の条件で3高ってのがありましたよね。背は180以上、高学歴で高収入。これもある意味、立派なジェンダーだけど、生物学的には女性で性自認は男性と言う人にとって、背が高くてマッチョでなきゃ男らしくないというのが社会規範だと、それだけで壁が高くなるじゃないですか。社会(ジェンダー)がもっと柔軟だと、悩みの種が少なくてすむ。

これに、tpknさんが、

それこそ余計なお世話でしょう。男女ともに、そもそもそんなものをいちいち「壁」と考えない人なんて常時いくらでもおりますので、xanthippeさんが「廃すべきジェンダー」などと声高に主張する必要などありません。三高に価値を認めるも認めないも完全に個人の自由であって、あなたの口出しするような話じゃないのです。

そこへ、おーつかさんが、

人がマジョリティの価値観に添おうとするのは当然だろう。さすればマジョリティの価値観をこそ解体すべきなのだ。秋里和国ルネサンス」の世界ではバイセクシュアルがマジョリティであるためにヘテロはヘンタイとして差別される。こんな世の中は今の世の中と同じくらいイクナイのです。

すると、tpknさん返して、

「人がマジョリティの価値観に添おうとするのは当然」というのは私が主張していることです。「さすれば」という接続詞が無意味です。「当然」であるなら「解体すべき」ではないでしょう。いや、一概に「すべきではない」とまで言えないかも知れませんが、少なくとも、「当然」と「解体すべき」の間をつなぐ論理が必要でしょう。

ここで「マジョリティの価値観」と言うとき、それはどのようなことを指しているのだろうか?ということを考えました。おーつかさんとtpknさんとでは、同じ言葉を用いながら、かなり異なった言葉の使い方をしているように思えたからです。

◎ここでは、ご当人たちの文意には踏み込まず、文面上の論理だけを考えてみます。お二人がこの言葉に託している背景には、いろいろなものを含んでいるとも思われますから。以下はいづれも、元投稿の文面からインスパイアされて翻案したものであることをご了承下さい。


「major/minor」という言葉には、「数の多い少ない」と「力の有る無し」とが混ざった意味があるそうです。そこで「マジョリティの価値観」というとき、それはある価値観が多数優勢であることを指しているものとします。すると、


1:「その価値観が多数優勢であるのは良くない」(個別案件)
2:「どの価値観でも多数優勢となるのは良くない」(総合論)


この二つは全く異なるものです。ここに次の「当然」をはさんでみます。


3:「世の多くの人が多数優勢の価値観に添おうとするのは当然である」


なぜかといえば、トートロジーのようにもなりますが、「多くの人は、既に多くの人が大事にしているものを受け入れたがるから、それがまた繰り返される」ということでしょう。さらにここで「多勢に無勢」という言葉の語感をいかして用います。そこで、次の「Ⅰ」から始まる二つの論理をそれぞれ比較してみます。


Ⅰ「個々人の持ついろいろな価値観は、その事柄によっては、多勢に無勢という状況に置かれる場合がある。多勢に無勢という状況は大変に不利である。そこで多くの人は、既に多くの人が大事にしているものを受け入れたがるのであり、それがまた繰り返される。つまり・・・、」


Ⅰ→a:「世の多くの人が多数優勢の価値観に添おうとしがちなのは、その点で当然なのである。だからこそ、いま少数劣勢である価値観が多数優勢になっても同じこと。これまで多数優勢だった価値観が、多勢に無勢の不利をこうむるだけの話で、何も変わらない。つまり、どの価値観でも多数優勢となるのは良くないのである」


Ⅰ→b:「世の多くの人が多数優勢の価値観に添おうとしがちなのは、その点で当然なのである。問題なのは、多勢に無勢という状況に置かれた少数劣勢の価値観が、その不利をそのまま正当化されてしまうことなのだ。」


「いかなる価値観でも多数優勢となるのは良くない」とする新たな価値観が、既に世にある多数優勢の価値観を解体すること可能でしょうか。不可能ではないかもしれません。が、それはその新たな価値観が「無色透明な中立」を装い、より全面的に、新たに「多勢に無勢」という状況をつくりだすことにしかならないのではないでしょうか。


*セクシュアル・マイノリティをめぐるジェンダーフリー思想の議論そのものは、macska dot org » 仲正昌樹著『ラディカリズムの果てに』のラディカルなコメント改竄のエントリでの後半に少し、そして上記の掲示板、そしてmacska dot org » 上野千鶴子氏『バックラッシュ!』掲載インタビューのバックラッシュ性を参照ださい。