命を食すのが悪であるならば

 私は昨日、義父と子と甥とともに離れ島に行って、魚やら磯のものを取ってきた。魚は中学生の甥っ子が釣った。義父はワカメを刈り、私はカメノテをむしった。帰ってきて煮て食った。そりゃぁ美味かですたい、子らは舌鼓を打ちながらアッと言う間に平らげ、義父と私の酒も進んだ。


 命は美味い。鮮度の落ちたものと新鮮なものとを食い比べてみたら良い。鱗の輝く魚、血の滴る肉、青々した菜や葉、捲けば芽を出せる種…死んで間があいたものより、さっきまで生きていたもの、まだ死にきってないもののほうが、美味いだろう。それを美味いと感じる味覚は何か。腐ったものは体に悪いから舌が拒むのは当たり前、それは生き物として身に付いた感覚であろうに。だが、人々は暮らしの中で、それぞれに分業しているだけのことだ。


 漁師が豊漁を喜び、牛飼いが肉付きを愛で、百姓が作物の出来栄えに胸を張る。それが売り買いのすえに食卓に並べられて食う者が舌鼓を打つ。腹を満たす。まして家の者がみんなそれでニコニコとしておれば、これに勝るものはない。もしこれが悪ならば、これに恵まれずに死ぬことは善ではないのか? しかし、アフガンでなくてもどこの国でもよいが、誰かが食にありつけることも悪であり、誰かが食にありつけないことも悪であるならば、いったい「悪」とは何なのだろうか?


 「だからして人間存在そのものが悪と言えよう」というのはカルト宗教の馬鹿教義だけにしていただきたい。それは何も言っていないに等しい。まして、そんなことなら生物はこれすべて悪である。植物だって壮絶な枯らし合いをやっている。「生きるとは、これ悪行なり!」と説くなら、「じゃぁ、あんた死になさいよ」で充分だと思う。


 というわけでカルトな詐欺の押し売り口上 - Backlash to 1984の続きである。前稿のアップ後に、それに先立ってアップされていた関連エントリが二つあったことに気付き、続編として私見を述べたい。


人を責めるのはよくないのか? - G★RDIAS
 「人を責めるのはよくないのか?」と問われたら、「その人の過ちを責めるのはよいが、あなたの責め方が過ちなら、責められるべきはあなただろう」と答える。現に、x0000000000さんはそのように責められているのである。

「自責としてならよいが、他人の責任を追及するような言い方はいかがなものか」という言い方が複数散見された。


 その言い方は、「あなたの考え方は間違っているが、そのような誤った責めでも己に課すのは好きにしたらよい。他人に課すな」という意味である。

これは単に、「他人から責任があると言われたくないだけ」なのではないか、という感じもした。


 自分の論を放り出して相対化し、一般論の次元に引き落としてしまっている。ご自分の誤った主張の文責はあなた自身にあるから、それを指摘されているのに。「他人から責任があると言われたくないだけなのではないか」とは、そっくりご自分のことである。「募金しなかったことで死なせた」というのは論理(ロジック)ではなく修辞(レトリック)であり、そのレトリックにはかような問題があるし事実でもないと指摘されて、反論もせずに何を寝言を言っておるか。

あと、私たちはどうしたところで生命を貪りながら生きているし、生命の宿命として他の生命を殺しながら生きながらえることは、事実として認めなければならない。それを悪と呼ぶなら、私たちは悪を背負いながら生きざるを得ない。本当の問いは、「悪を背負いながら、私たちはどう生きるか」にあるのであって、「悪を悪だと考えない」ところにはないように私には思える。そしてそれこそが、「責任」ということを考えるにあたっての最初の一歩になるのだと思う。「他の生命を殺しながら生きる、ということを背負いながら、一方で私たちは他の生命とどうともに、豊かに生きていこうとするのか」。この問いを、私は手放さずに考えていきたい。


 冒頭の一文だけはそのとおりだが、いったい誰がその事実を認めていないのだろうか。あなたに言われなくたって、誰でもその事実判断はしている。しかしその「動物は他の生物を食して生きてゆく」という事実をして「それを悪と呼ぶなら」とx0000000000さんは仮定するが、その仮定は事実なのか?違うだろう。その生物としての事実判断に「悪」という価値判断を付すのは別次元の話である。ここではその価値判断をして「悪」と呼ぶのはx0000000000さんと賛同者であって他の人ではない。


 たとえば、食前に手を合わせて「いただきます」と言うではないか。これは禅宗から来た作法であったと思うが、これもひとつの価値判断である。他の命を食すことが「悪」だという想念ではないはずである。ありがたくお命を頂戴させていただきます、けっして無駄にはしませんから…無駄な殺生も戒めますから…という趣旨だろう。仏教の不殺生戒のあり方の一例だが、これもひとつの価値判断であって、これ自体は事実判断ではない。


 ご自分にとって、動物の生きてゆく営みの実存それ自体が「悪」なのだそうだから、そのような価値判断を基にしたテツガクだかシューキョーだか知らんけれども、お好きになさったらよい、と誰もが言うものと思う。私なんぞは、そこまで「殺して食うて生きる」ことを「悪だ」と本気で考えるなら「死ねばいいのに」と思う。そうすれば何も殺さずに済むのだろう。


 誰も、動物たる人間の実存の面を認めていないわけでもなく、それを責められたと憤慨しているのでもなく、ましていわんや「他人から責任があると言われたくないだけ」なのでもない。x0000000000さんが「食」というものを悪と呼ぶなら、以下の部分の「本当の問い」とやらを、それを悪と呼んだ人(ここではx0000000000さんや賛同者)が己に課して己を問うてゆけばよい。だが、同信者でない他人を責めるのは不当であると言っているのである。


 「死にたくはない、食うて生きてはいきたい、だけど殺して食うのは悪いことなんだ、みんな悪人なんだ、それを自覚しようよ、私はそうしているから他の人もそうしてほしいと言ってるんだ、なのに責められたくないだけなのか」…何とねじくれた倫理感であることよ。そんなことを言いたいがために、「募金をしなかったことで死んだ人がいるという事実を認めよ」だなどと馬鹿なことを口走ったのか。uumin3さん同様に、私も呆れかえるばかりである。せいぜい、障碍者問題にいらぬ口出しをしないでほしいとは思うが。また、「他の命を食って生きてる当たり前の事実を認めようとしない人たち」などと思い込んでニヤニヤしたりプンスカしている輩もいるようだ。これらは倫理感ではなく、下卑た優越感である。しかもその優越感は、残念ながら自慰的な幻想と言えよう。


2007-04-16 - 力士の小躍り
takisawaさん(以下「瀧澤さん」)がここで述べられていることに賛否相半ばするが、私情としては共感できる感覚が私の基調にもある。あるのだが、瀧澤さんはここであれもこれも混ぜすぎではないだろうか。まずは、極めて同感である被差別部落問題の方面から考えてみたい。


 ここで瀧澤さんが例示されている屠場の人々への蔑視、その根底にあったのは、古くは仏教の不殺生戒が俗化して変質したものだろう。そこに神仏習合時代の、これまた俗化して変質した「穢れ」観が付着していた。ここでそのあたりのこと…不殺生戒とは本来そんなものであったか、ケガレとは本来なんであったかということや、宗教史的な考察…については本稿の目的から逸脱するので割愛する。ともかく、ここで瀧澤さんが言われることに私は同意である。


 自分が生きるために獣や魚や草木の命を喰らう。自分でどこかで獲ってくるのではなく、専門にそれに従事する人の作業があって自分の眼前に食い物が並ぶ。したがって瀧澤さんが言われるように、たとえば「牛肉を食いてぇ」と思うとき、それはもちろん「誰か牛を屠殺してくれぇ」ということでもあろう。だからその牛の死と己の食は、屠場の人を介して直に結ばれている。


 ただし「食肉用の、ある一頭の牛」の死と、「肉を食す、ある一人の人」との間に、直接の因果があるのではない。瀧澤さんが「すき焼きを食いてぇ」と思い牛肉を買ってくるとして、瀧澤さんが「この牛を殺してくれ」と頼んだのでその牛が屠殺されたのではないという意味で。肉牛を飼う人々がいて、屠場の人々がいて、肉屋の人々がいて、牛肉を買って食う人々がいる。その大きな連環を瀧澤さんは言っている。もしそこで、屠殺という行為だけに目をつけて「牛を殺したのは屠場の人たちだ」と眉をひそめるなら、瀧澤さんは言うわけだ、「牛を殺したのは、この連環の当事者みんなでしょ?自分たちが食うために。生きるために」と。そのとおりである。


 瀧澤さんのいう「間接的な殺し」とは、そうした大きな因果のつながりを言っているわけだが、では件の募金はどうだろうか。アフガンの人たちの死に、肉牛をめぐる需要と供給の因果と同様の連環が、募金にあるだろうか。牛肉を食いたい人々がいるから肉牛を飼う人々もいて、その間に屠場や肉屋の人々が介在する。その連環のようなものは、募金の件にはないだろう。「アフガン人」が「肉牛」に相当し、「募金しなかった人」が「牛肉を食うために買い求める人」に相当するのであれば別だが、そうではないではないか。募金しなかったことで死なせことになるという因果はないのである。瀧澤さんのuumin3さんへの批判は「事実を認めろ」とあるが、どこにそのような因果が事実として存在していると言えるのか。そこに、大きな無理がある。


 そしてそもそも、瀧澤さんが屠場の例を出すのは、何のために言っているのだろう。当然、「もし屠殺を悪いことのようにみなすならば」ということではないだろうか。屠殺が悪行であるかのように言うなら、肉食こそが悪であるはずだが、自分は肉を食っている人間が屠殺行為のみを悪行とみなすのは欺瞞であり卑怯である。瀧澤さんの論は、そうした「説得のための逆説」として出されているはずで、だから私は同意する。


 そしてそれはもちろん、「しかしほんとうは、肉食は悪行ではない。社会の中での分業として屠殺の部分が特化されて生業になっていても、それも悪行ではない。屠場の人々は、世の中の大事な部分を担っている人々であり、その職は賤視される筋合いのものではない」という論のためにこそある。しかしてx0000000000さんは、「他の命を食うこと」を「悪」と仮定した論を展開しているのである。x0000000000さんの論からすれば、肉を買ってきて食う人も、屠場で卸す人も、どちらも悪行をなしていることになる。いや、この論法からは、農家も八百屋も、漁師も魚屋も、そしてそれを買って食うすべての人が「悪」を自覚すべきだということになるし、そのように主張している。


 ならば、これを擁護する瀧澤さんは、二重の過ちを犯していないだろうか。肉食が悪行であるというのであれば屠殺も悪行であろうから、「どっちもどっち」であり、せいぜい「実際に殺す人の行為が重く感じられる」と「自分では殺さず他人に手を汚させている者が何を言うか」との間で喧嘩があるという話にしかなるまい。要は、不殺生戒が俗化して「命を食す」ことまで罪悪であるかのような軽薄な認識を擁護していることにならないだろうか。ちょいと罪悪感を感じてみました程度のシロモノだ。しかし不殺生戒はそんなことではあるまい。


 屠殺は悪行だろうか、そもそもが。殺して食うのは悪行なのだろうか。瀧澤さんがとてもそんな主張の人には見えず、逆説として述べておられるようにしか見えないので、uumin3さんへの論難はいったい何の趣旨なのか非常に疑問に感じた。…瀧澤さんの論は、そこがまったく見えないのだ。民主主義の話は今件に全く関係ない。倫理の話である。もしその文脈で「間接的な殺人の責任」というならば、間接民主主義にそこまでの責任は国民に無い。しかし、倫理の話なのである。