カルトな詐欺の押し売り口上

 「この○○を買うと、その代金で××の人々が命を救われます」「だからあなたも買いなさい、とは言いません」「しかし買わないのであれば、あなたが買わないことでその人たちが死ぬという事実を受け入れなくてはいけません」「買えなかった、のではなく、買わなかったのです。それで救える命を、助けられなかったのではなく、殺してしまったということです」「これを買うべきであると私たちは言っているのではありません。このように考えることを私たちはお奨めしているのです」


2007-04-15経由で「本当は、できるでしょう?」の原初的風景 - G★RDIASを読む。uumin3さんに同意。加えて言えば、上記の理屈と同様に、どこからどう言ってもカルト教団の押し売り口上である。uumin3さんが指摘していない点を私が補うと、ここには「募金を呼びかけ、募金箱を設置する」という行為があることを見るべきである。ある人々への募金活動を発起して活動する人がいて、はじめて他の人の「その募金活動に応じるか応じないか」という次なる行為の選択が生じるのである。


 では、その前の段階の「募金を呼びかけ、募金箱を設置する」という行為、この行為がなければどうなるのだろう?この行為の及んでいない店ではどうなのだろう?この行為が広く行われていない場合はどうなのだろう?「そこで募金せずに別のものを買ったから、あの人たちが死んだ」ということになるのであれば、そこに募金箱がなければどうなるのだ?


 募金を呼びかけて募金箱を設置するという行為を誰も起さなければ、あるいはその行為が広く行われなかったり、その行為に出くわさなかったら、他の人がその募金活動に応じるか応じないかという行為の選択も生じないではないか。その募金活動に応じなかったことで誰かを死なせてしまったことになるというが、そうすると、その募金活動がなかったり出会わなかったりした場合、誰も死なせたことにならないではないか。つまり、その募金活動を起してしまったばっかりに、それに出くわせた人々を「見殺しにした人殺し」にしてしまう二者択一が生じるのであって、誰をも人殺しにしたくなければ、そんな募金活動など起さなければ良いということになる。ずいぶんと、馬鹿げた話だ。


 詐術はほかにもある。「アフガニスタンの人達は、4人家族で200円あれば1日暮らしていける」というのが事実だとしよう。何の事実なのだろうか。それは、為替レートの事実だ。一家4人の毎月の生活費として、貧しくとも何とか暮らしていける金額が、日本円に換算すると月6000円相当になるということだ。これだけなら、「へぇー」という話である。


 生活の糧が得られないことで生命に関わる人々がいて、その糧の費用を日本円に換算するとわずか一日200円だという。何とわずかな金額かと、もちろんそうだが、それはその国の裕福な人々にとってもわずかな金額であろう。それが為替レートによって、日本人の中では貧困層ではない人にとっても極度に安価だという印象が、強められているにすぎない。


 貧困ゆえに、わずかな日銭にも事欠く異国の人たちがいる。そのことで今日明日のわずかな生きる糧すらなく、ついには死にいたる人々がいる。死因は餓死や病死であって、異国の人が募金するかしないかに死因があるわけがない。義捐金やそれでまかなわれた援助物資によって、飢餓や疫病から「救い出される人々もいる」のであって、誰かが募金しなかったことが援助の届かなかった誰かの死因にはなるはずもない。そのような因果関係はない。また、その貧困の原因が戦乱とか失政などの人災だという場合でも、海外の人々が募金しなかったから戦乱や失政が起きたのか?この場合、その人たちを直接的に誰かが殺害したのではなく間接的に誰かの行いがその人たちの死をもたらしたものとも言えるが、その戦乱や失政の責を問うなら対象者は明らかではないか。つまり「募金せずに別のものを買ったから、あの人たちが死んだ」などというのは、因果関係を無視したあげくの、下手糞な恫喝である。

「おやつを買ったからあの人たちが死んだ」ということを、それがもし事実だとすれば受け入れなければならないことを、論理的には要請する。もちろん、「どのように」受け入れるべきかは議論されるべきだと思うが、事実を隠ぺいすることは許されないであろう。私は、そのような単純な事象から考えている。


 そのような「事実」はまったく存在しないので、存在しない事実など隠蔽のしようもない。ないものを「ある」といい、「あるのに隠すな」などとは詐術もはなはだしい。馬鹿馬鹿しいにもほどがあるから無視していいほどなのだが、ふと気が変わって本稿を起した。理由は、この駄文の筆者、プロフィールに「主に関心があるのは障害者問題です」とあるからである。だから、以下は一障碍者として書く。


 ではこれをアフガンへの募金などではなく、重度の障害で生命の危機にさらされている子の、手術費への募金活動に置き換えてみたまえ。筆者は「論理の問題」としてアフガンの例を出しているだけのようであるから、きっと同じ屁理屈を繰り出すのであろう。逆に言えば、もし同じ理屈にならないなら、それはなぜかと問えるかもしれない。しかしいずれにせよ、その障害は募金しなかったことによって生じたのではない。助からないかもしれない命が、世の人の篤志家の慈善も手伝って「救われるかもしれない」となるのであって、いかなる意味においても、募金しなかった人たちがその子たちを死なせるのではない。その子の命を奪うのはその障害であって、他の誰でもない。


 事実というのなら、これこそが事実である。事実を隠すなというなら、このことをこそ隠してはならない。「募金をせずに、おやつを買ったからあの子たちが死ぬかもしれないのだ。これは事実だ。募金すべきだと主張はしないが、このことを隠すな」みたいなものはカルトの押し売り口上、まさしく善意の押し売りであって冗談ポイポイである。「いや自分は、こうした場合には、自分が殺したも同然だと思いたい」と自分を罰したければ、勝手に己を鞭打って涙でも流しておればよろしく、「私のこの倫理感を人々にも持ってもらい」などと欲を出して貧困者や障碍者その他を押し売り文句の出汁に使うな。それは極めて没倫理的で迷惑このうえない自己陶酔にすぎない。


■付記■
1.uumin3さんが言及された派生エントリhttp://d.hatena.ne.jp/terracao/20070414/1176520637について。なるほど人間は多くの命を取って己の命に替えている。しかし、日本人はアフガン人を取って食ってるわけではなかろう。この人は、よそのブクマコメントに「原罪」などとも書いているが、話も読めずに宗教的倫理感モドキを口にし、「殺生するのが人の業なのだから自分もそうなのにに、それを隠したくて必死だなw」みたいなことを言っている。生悟りというやつだろうか。


2.takisawaさんがuumin3さんのエントリのコメント欄で言われている経済的搾取の件は、たとえばこっちの題材の話ではないだろうか。
梶ピエールの備忘録。
 ↑私はこれを見て、ご当地の筑豊炭田の話を思い出した。私が古本屋で買いあさった上野英信の著書は、当時の筑豊の零細炭鉱の劣悪な労働環境を書いたものばかりである。石炭から石油へとエネルギー転換があり、閉山の嵐が吹き荒れ炭鉱は次々に消えて大量の失業者を出したこと、その旧産炭地対策の問題などは知られている。が、ほとんど注目を集めなかった近年の話題がある。


 その後も残っていた国内のいくつかの炭鉱も、安価な海外炭との競争に負け、国内石炭産業の維持という保護政策も廃止され、近年、ついにすべての炭鉱がなくなった。かつての劣悪な労働環境が改善されたことによって、人件費や設備費が上がって国内炭の単価が高価になり、それでも電力会社に保護的に買い取られていた分も廃止されたからである。高い国内炭を混用することで割高になる電力生産費を利用者に負担させ続けるのは社会的合意が得られまいとの理由もあったと記憶している。


 日本国内で使用するすべての石炭を国内産だけでまかなえるはずもないのだが、掘ればまだある石炭を「高くつくから」掘らない。経済的合理性だけで見ればそれが正しいのだろうけど、その「安い」海外炭は、たとえば上記のような「極度に安い労働や生命」を対価に得られてもいるわけだ。takisawaさんの言われているのは、こうしたことなのだと思うのだが。