良か良か、死にゃぁせんたい

http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20070306/p1
 この場合の「寛容さを求める」とは、「このような私に寛容であってほしい。このような私に寛容でない人には、私は不寛容でありたい」ということにほからなない。世情、そのような姿勢をこそ「不寛容な考え方だ」と評するのである。が、これまた世情、そのように評するだけであって、そのような考え方を消えてなくなれとか滅びてしまえとまで思い込むことも稀である。それを「寛容さ」という。


 …なぁんてね、大袈裟ですね。私もkmizusawaさん同様、こういった言葉が嫌いですよ。でもそのように嫌っている自分もまたそのように振舞っていたりとか、ですね。でも世の中、嫌なものはいっぱいあって当たり前じゃないですかね。嫌なものは消えてなくなれとか言い出したら終り、だと思いますよ。嫌なことだらけ、嫌な人だらけ、そんなん、誰だってそうですよ。


 自分はマイノリティ?そんときだけでしょ。たまたまそんときは少数意見だった、嫌な意見が多数だった、と。でもそこでマイノリティだとか、そりゃ甘えすぎです。先祖伝来の言語が使えないとか、身内の血肉の習慣そのものが迫害されるとか、そういうのじゃないじゃん。自分が生きてきた中で、どうしようもなく譲れない意見が、たまたまそんとき同意見が少なかった…そういうのは「貴重な体験」でこそあれ、ねぇ。


 恵まれた国で恵まれた環境で自由にものが言えて、その結果、あることに少数意見の側だった・・・と。博多弁で言えば「やぉいかんたい」ですな、「どうにもならんですよ」という。でもさ、死にますかね、その少数意見を貫くことによって。「良か良か、死にゃぁせんたい」ってことばっかりでしょう。死ぬとしてさ、それは自己の決断として、でしょう。マイノリティがそうであるだけで殺される目と違うじゃないですか。


 その意見が通らないとかね、どうにもならなくたって、死ぬわけではない。何か「それ」を言えば身の命に関わるようなマイノリティの迫害と同一に語ることは、没倫理的だな。なのに「自分の気に入らないものは滅びよ」とかさ、間違っても言っちゃいけないよ。それが通るんなら、俺ら間違いなく滅ぼされるじゃん、どうすんのよ、「ADHDとかアスペルガーとか何を言ってるんだ、劣った敗北者の遺伝子じゃねぇか、言ってることも気に入らねぇ、滅びよ」と言われたら、それでいいのかね。



 まぁ、エントリの表題は、本の帯の煽り文句みたいなもんだよ、それはわかってるけど、あんまりじゃないのかな。つうか、kmizusawaさんはこれを言って身の危険に晒されるわけではない国に生きて、このように毒づけるわけよ。それは、あなたが毒づく相手もまさか、この手の意見に対して殺意を抱くわけではないからんだよ。それなのに、「滅びよ」だと?


「これでも甘えと言うんだろうか?」
あぁそうだよ、見るに耐えない甘えじゃないか。
甘えるのもいい加減にしろって。


 安全圏から、何を凶暴なこと言ってるんだよ。でもさ、それも許される、そういう寛容な国だからね。そういう寛容さは、保守的な人が支えている、進歩派じゃないよ。進歩派は、あなたがそうであるように、その寛容さを「滅びよ」という側であることを、私は嫌と言うほど見てきた。慣れちゃいるんだけど、馴れ合いたくないから、今回は痛罵しときます。