混線

 i_oritaさん(以下、折田さん)とMASASCIANTEのお二方のやりとりを、興味深く読んだ。すごく大事なやりとりなのだが、噛み合ってない。お二方とも、大事な点に言及している。しかし噛み合ってない直因は、これはやはり、お二方が未知の話題で議論をしているからにほかならない。だから、続かないと思う。このままでは単発で終わりそうだ。もったいない。そこで、私が論点を整理してみようと思う。


http://d.hatena.ne.jp/i_orita/20070225
↑折田さんのコレは実にややこしいことになっていて、実は私も、MASASCIANTEと同じ違和感を持っていた。でも、
id:i_oritaさんへの書簡。 - みんな無敵だった、だけど…無敵だった
↑MASASCIANTEさんのコレのやりとり見て、折田さんの言ってることがわかった。


MASASCIANTEさんが違和感を持ったという二箇所目の、

ましてや、セクハラされたときに「性暴力サバイバーなんです! 傷つくんです!」と言ったら、弱者の印籠を振りかざしたと思われかねない。恐ろしい。ただ、傷つくことも、言ってはならない。なぜなら、弱者だから! 弱者が弱者であることを言うと、周囲の人は気を遣うから! そして、それが差別だというと、「自分自身を差別している」とか言われちゃう。こわー。ああ、もう、生きていけないよねー。


 これはですね、障碍の話とは切り離したほうがいいな。まして、かえるさんのあの話とは全く別の話。セクハラというのは、
(1)訴える人の主観が大事。なぜかというと、「それは嫌なんです」と本人が思ってもいないことを、他人が見て「あれはセクハラじゃ!」って決め付けるわけにはいかないから。同じことでも他の人は嫌じゃないってこともあって、それはそれでいいわけ。
(2)だからと言って、当人がセクハラだといえば即セクハラ認定で処罰!かと言えば、そうじゃない。客観的に見てどうかも重要だし、「嫌だからやめてほしいんだけど」という行いが止まればそれでいいのだから、処罰!みたいなことに主眼があるわけじゃない。
(3)ただし労務管理(職場の環境づくり)という観点から見て、その人が「嫌だからやめてください」と言ってることはやめてやったほうがいいに決まってるし、「嫌なんですけど」と言いにくい雰囲気みたいなのはなくしたほうがいいに決まってるでしょう、ということ。


 …というのが基本線にあるわけです。だから、たとえば、「えぇ?それはありなの?」くらいなものでも、相手の人が嫌がってなければセクハラじゃない(とは言っても学校や職場の常識の範囲内ですけど)。逆に、「まぁいいんじゃない?」という程度のジョークやスキンシップみたいなものでも、その人が嫌だと言うんならやめといてやらなくっちゃ…という確認事項なんですよ、そんなに小難しい話でもなければ恐ろしい話でもない。


 ただ、日本では「これこれこうするのがセクハラ」みたいな、紋切り型のマニュアルがあったり、逆に何でもかんでもセクハラみたいな雰囲気でもって戦々恐々…ということもあったり。


 ところが、過去に異性から暴力を受けたことが原因で、ほかの人から見ると(ことに同性から見ても)「えぇ?それくらい、いいんじゃないの?それがセクハラ?」みたいなこともある。そうすると、そういう人は、すごく言いにくいわけですよ。根掘り葉掘り、聞かれなくちゃいけませんかね。昔なにがあって、だから自分はこうなんだ…と怯えながら言わなくちゃいけませんかね。


 だけど現状、それを言おうとすると非常に難しいし、勢い、「性暴力サバイバーなんです! 傷つくんです!」とかね、言わなくちゃいけないハメになったりする。で、それを言うとドン引きされたり、最悪のケースでは「そりゃ性暴力の被害体験者は弱者かもしれん。でも今、暴力を振るわれてるわけじゃなし、そんなに弱者の印籠を振りかざさなくたって」とか、言われちゃうとどうしよう…みたいな恐怖感ですかね。折田さんの言ってるのは。


 私は、「あんたそりゃ杞憂でしょう」とは、とてもじゃないけど言えないな。MASASCIANTEさんも、そういう主旨では書いてないよね、「そっちはわかるんだけど、かえるさんの話の方は、弱者と強者が逆なんじゃね?」と。


 でも折田さんの言ってるのは、「だーかーらー、かえるさんの話のどっちが弱者だとも言ってないってば!性暴力サバイバーが弱者だとか思ってほしくないと言ってるんだってば!」ってことね。ここが痛点ですな。私も、そう思う。「私は、そういうの、嫌なのでやめてほしいなぁ」のひとことで、やめたらいいのにね。詳しく事情を言わなくちゃいけないハメになるかと思うと、それだけでも脂汗が出るような恐怖感や緊張感を強いられるんじゃないかな。そんな思いまでせねばいかんような「弱者印」こそいらんことですな。だけどここでの問題は、折田さんも、ちょっと読み違いしてるってこと。


 私もサトミさんもかえるさんも、「強者/弱者」論なんかしてないんですよ。というかさ、かえるさんは障碍だと言われても差別だと言われても引き下がらずにガンガン言い返したんだし、折田さんのいうような、

障碍者に差別と言われたら黙らなければならない」という価値観を、言われる方は内面化しているから


 そういう内面化なんて、してないでしょう…。また、逆に先方のお母さんの内面に、MASASCIANTEさんが言うような、

このとき「強者」と「弱者」という構図を持ち込んでるのは、最初に弱さ、例えば「障害者なんです。わからないんです。怒らないでください」とかね、を振りかざしてきた「弱者」になりたい「弱者」で、「弱者」に「強者」とされた「強者」はその構図に否応なしに付き合わされているだけよ、と。


 自閉症の子に叱り付けないでくれという咄嗟の行為が、そういうことにはならんだろう。というか、そういうことを私は書いたわけね。かえるさんが咄嗟にそこまで理解すれば神だとか、そんな話はしていない。私もサトミさんも、かえるさんの咄嗟のそれは無理もない、と書いてるんだけどね。


 折田さんもMASASCIANTEさんも、話を大きくしすぎ。大枠の話では、「ごめんなさい」のひとことが大事じゃん、という話。謝り上手になりましょうという話でもない。「ごめんなさい」「ありがとう」は大事なことだろ、と。こういうひとこと、そのひとことで防げるトラブルは無数にあるわけです。そして、いわば潤滑油のようなこのひとことによって、無用の対立をせずに回っていくという、大事なことが、まずあるでしょう、と。それを、障碍者だからやんないとか、何の言い訳にもなんない。もし知的障碍とかあって本人ができないなら、保護者なり介助者なりが代理で言わなくっちゃ、まずそのひとことは、と。そうでないと対等にモノが言えなくなるんじゃないの?ということ。


 「それからだよ、その先の理解を求めるんでもなんでも」と、サトミさんは実地でものを言ってるんですよ。ひたすら低姿勢になれとか、そんなんじゃない。「ごめんなさい!って言おうね、すぐに」くらいね、幼児にだって教えるでしょう。で、そのひとことが障碍者の親だから言えない言いたくないなんて、そんな道理はありませんよということ。だからそれ、かえるさんもサトミさんも私も、みんな言ってるんですよ。あとは、行き違いで嫌な思いになったところの意見交換みたいなもんですよ。


 普通の親はそこまでやる必要はないだろうが、障碍者の親だから力み上がってでもそうすべき…みたいな話だったら、そりゃおかしいとは思いますけど、そういう話だったでしょうか。違うでしょう、そんな話、誰もしていないでしょう。「強者/弱者」論とか、そういう大きな話はしていないのです。折田さんも、「強者とか弱者とかじゃないんだよ!」と言ってるのはわかるんだけど…なぜそれを俺らに言うのか、わかんね…


 その次の話として(つまり後日譚の範疇ですよ)、自閉症なら先方のお母さんの当時の行動もわからん話じゃないわな、ということ。それを「当時、その場面で、かえるさんが、わかるべき」って話じゃない。今、これを読んでてMASASCIANTEさんとに折田さんにはわかるかなぁ、という話。わかる気がないなら話を大袈裟にしないでほしいな、とは思うけど。戦略とかね…政治運動はしてないっすよ。悲壮な話じゃないんですが。


折田さんから次にTBいただいたエントリのほうが、背伸びがなくて、私はすごく同感でした。