わかってくれべいべぇ…じゃねーだろという話

 久しぶりに凹んだけど、割と早く立ち直った。立ち直りのきっかけの言葉も、ありがたかった。自分の言葉で凹んで、他人の言葉で立ち直る。ありがたいことだと素直に思える。おっちゃんになって良かったと思うことの一つは、こういうことだ。年を食うのも悪くないね。というわけで、障碍関連の話を続けてみる。


http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20070227/p3

海外のことは知らないが、日本でアスペルガー症候群が一般にも知られるようになったのはここ数年のことだ。今成人で診断されてる人の中には成人してから診断された人が多いと思う。アスペルガー成人の人が書いたものを読むと、子どもの頃から違和感を覚えていたけどそれがなぜなのかどこが悪いのかさっぱりわからず、わからないまま周囲にあわせようとして混乱したということがよく書かれている。この男性も、成人してから診断を受けて、それまで我慢していた分、なんでも障碍のせいにしたくなってるのかもしれない。「理解してくれないお前が悪い」状態になってるのかもしれない。


 ありえる。ものすごくありえる。加えて言うと、何かでアスペルガーとかADHDを知って、関連書を読んで、「ああっ!これは自分のことだ!」って思う場合も多いと思う。で、診断は受けてない。受けてないまま、本で得た知識で「自分もそうに違いない」と自己診断のまま、アイデンティファイしちゃう、というケースだ。その点については、引用エントリのコメント欄、debyu-boさんとkmizusawaさんのやりとりを参照。この上司の人もそうかもしれないが、「自称アスペルガーで〜す!」みたいな人はここでは割愛する*1


 そのうえで、kmizusawaさんによってこの人に仮託された心理として。これ読んで「おまえは俺かw」と。や、何年も前の話だし、さすがに机をバンバン叩いたり椅子を投げつけたりしませんでしたけど、この人をデフォルメとして言えば、こういう心理状態だったことがある。何かにつけて「俺はADHDだから!」って。


 実際に何かあるとすぐ他人にそれを言う、というわけではない。「ちょっとあんた、それはどうよ。それじゃいかんだろ」みたいに他人に言われて「こうしなきゃ」と説教されたときとか、「いやぁ、でもそれ、できないんすよ。だって俺、ADHDといって云々…」みたいな感じで言ってた。この上司の人みたいに、下の立場の人に言い放つんじゃなくて、自分が説教モードで言われたときに。上司とか先輩とか友人知人とか、割とオープンにしてカムアウトってやつですね、それを試みてたことがある。


 でもこれは、やめた。この手のカムアウトで得られるような理解って、何一つ無かったというのが実感。「理解してくれ理解してくれ、だって俺はADHDだから…」っていうような理解の求め方…自己中心的な押し付けがましいカムアウトからは、求めているような理解など得られっこないのが当たり前だとわかった。これは実地で学べた。だから今は、こういうのはやってない。とりあえず言わずに済むことは言わないほうがいい、というのが教訓。だけど、それをして「世間の無理解を痛感した」という方向で、社会批判みたいに思っているわけじゃない。逆ですね、自己批判。自虐的な自罰意識じゃなくて、前向きな自己分析。


 いっそ「ADHDとは」だとか、抜きにしてみるといい。「理解してくれ理解してくれ…だって俺は生まれつきこういう性質があって云々、それは変わらない性質で云々」…こういう言い方されて、「おお、なるほど、おまえそういうやつだったのか。そっかぁ。おまえというやつがどういう人間か、よくわかったよ」って思える人、いると思うか?いるわけないだろ?ということだ。そこにADHDでもアスペルガーでも高機能自閉症でもいいけど、そういうラベルがついた説明だったら、何か変わりますか?と。しいて言えば、そのラベルばかりが目立って浮いてしまって、その分だけ奇異に思われちゃう、くらいなものですよ。


 他人のことに、そこまで関心のあるやつ、いないってば。
 自分以外。


 なのに当時は何でそういう勘違いをしちゃったか。そういうことはそれまでにもわかっていたはずなのに。それは、ADHDというものを知って、はじめて「自分が何者なのか」が手に取るようにわかったということで、舞い上がってたんだと思う。そこに過剰にアイデンティファイしてしまった。だって、関連書を読んでて自分に当てはまることが多すぎる。医学書を読めば「ここに俺ガイル…」と思い、体験談を読めば「おまえは俺かw」と思う。「なぁんだ、そういうことか。こういう説明をすればよかったのか。そうすりゃもっと俺は他人に理解してもらえるんじゃないかな」と、そこで勘違いをしてしまった。


 でもそりゃ、自分のことだから自分には理解できたんだという、当たり前の話なのだった。それまでは自分のことなのに自分でもわからなかったことが、やっと自分にはわかるようになったということなのだ。だからといって、自分が自分を理解できるのと同じように、他人が自分を理解できるはずがないのですよ。そういう理解の求め方をしても、「俺には俺がわかったのに、なんであんたたちは俺のことがわからないの?」みたいな、壮絶な勘違いなのだった。


 …と、ここまで書けば、ADHDアスペルガー高機能自閉症にありがちな、ある種の認知の歪みがあることに、気付く人は気付くかもしれない。「俺には俺がわかったのに、なんであんたたちは俺のことがわからないの?」と多分に戯画化してみたんだけど、つまりこういうことだ。


 『ある文字列に接して、それが自分のことだと思えた人には、それは「自分のこと」なので、自分にはわかる。でも、同じ文字列を見ても、それが「他人のこと」である人には、自分で自分を理解するようにはわかるわけがない』…ということが、理解できなかったのであった。まさにこういう性質こそが、自分の特質なのだということをメタレベルで理解するのに、時間がかかったということなのだった。


 では、これら医学書や体験談などによって、社会に理解が進むよう働きかけるのは無意味なことなのか?そうではない。実際に私がそうだったように、こうした情報が社会に広まることによって、自分について苦悩している人や、いま子育てに悩んでいる親に、適切な情報が届く。そのことによって自分や子供の理解が進む。自分や子供の扱い方に、より適切な方向性が示される。それで万事解決だなんてことはない。まだまだ先は長い。


 だけど、五里霧中の航海で座礁しているのと、霧の中に灯台の明かりを発見するのと、ずいぶんと違うと思う。航路図も羅針盤も無い船と、それらが備わった船とでは、まるで違う。沈没しなきゃいけないようなボロ船なのではなかったのですよ、ほんとは。あちこち傷ついて浸水が多いのなら、まずは港に泊めて、直して、帆を上げて風を受ければ船は進みます。そして、船を直す手助けをしてくれる人、ある海道中に同じ船に乗ってくれる人、どこに行けば何があると教えてくれる人、いろいろいます。「なんだこの船は」「へんてこな船だなぁ」などなど、いろいろ言う人もいるだろうけど、どのみちその人たちは自分の航海にはご縁の無い人たちだ。


 「あんたは何でそういう風に考えられたの?」と疑問に思われる人もいると思う。これについては、私は「たまたまなんですよ」としか答えられない。その「たまたま」とは何だと言われたら、それは育児のことがもっとも重要でしたから、ということになろうか。自分のことよりも何よりも、結局は我が子にとってどうか、ということが先に来るからであった。


 ちなみに私の場合は、こうである。書籍から「俺もそうだ」とは思った。なにしろ、国際基準のほとんどが当てはまる。ただし、その当時に見ていたGID当事者のジェンフリ論争の場であがっていた自称問題によって、未診断での名乗りはすまいと思っていた。ところがおりしも、長男の幼稚園での問題から「あれ?もしかして」と思い、苦悩している妻を促して専門家に相談した。児童相談所に紹介された専門医の先生は、慎重にある程度の期間をおきながら長男を診断して、こうおっしゃった。「息子さんは、やはりその傾向はあります。しかしグレイゾーンです。いろいろ園の先生にもご理解してほしいことがあるので、私のほうから、理解の助けになるようなことをお知らせしてみましょう」と。よろしくお願いいたします…


 先生はそして、おもむろに、こう付け加えた。「…ただ、お父さんのほうが典型的ですので、私にはお父さんのほうが心配です。私は小児科医なのでこれ以上は言えませんが、大人のADHDを扱っているところもありますので、ご紹介しましょうか」と。あ…あぁ…そうなんですか…。そして一瞬、考えて、そして「あ、それはいいです。ありがとうございます」と答えた。「治療」されたくなかったのだ。極度の抑鬱症状など、二次的な疾患は困難から生じた別の話であって、この生まれ持っての特質そのものは疾患ではないんだという見解もあり、私はそれを支持しているからだ。だが、それは言わなかった。先生は「そうですか…。何かあったら、ご遠慮なくご相談ください」と言ってくださった。ありがたかった。治療を求める人もいるだろう、私は、もちろんそれはそれでいいと考えている。私自身は先生の言葉によって自分の確信を得られただけで充分だった。先生の心配は後に的中することになったが、いろいろあったけど、私は「治療」しなくて良かったと、今でも思っている。

*1:この「自称」の問題については、まるでジャンルは違うけど、○○性人格障害とかでも、似たことは多いように思う。専門の医師に診てもらわないまま自己定義して、そのまま言い訳にして突っ走っちゃうというのは、良くないと思う。たとえば、この上司の人がそうだった場合、彼は自己診断して自己定義したまま更に人間関係を損なっているわけだ。「人とうまくいかないこと」の原因を自己再発見するのは良いが、そのままそれを理由にして「だから自分にはできないんだから、おまいら何とか汁」ではダメっつうことなんだが。