肉体と機械

 トカゲの尻尾切りのようになってきたのかそうではないのか柳沢発言。まぁ政治家の進退については好きにすればいいと思うので、せっかくだからこの話題についてもう少し考えてみることにする。そこで今回は、ただ政論としての前回・前々回とは少し趣を変えたい。肉体感覚についてである。私が多く見たのは、「女が子を産む機械だというなら、男は種を撒く機械だろう」というものであった。たぶん、これは「非礼には非礼をもって報いる」ということなのだろう。表現の品や礼の問題から言えば、これは確かに正対称なのだが、どうもそういうことではないようにも思う。ことに女の人で、腹立ちまぎれにそう言い返したところ、思ったより効き目がないことにお気づきになった方もいると思う。そこから考えてみたい。


 有り体に言えば、セックスの話である。男が種を撒くといってもそれはセックスのときだけのことで、気持ちが良ございましたの刹那であって、そこまでである。これは子を生むことについてであって、子育てについてはこの限りではない。もちろん、身重の連れ合いを前にして、男がなすべきことの多さは言うまでもない。が、私が本稿で述べたいのは、また別のこと、上記の主題に添ってのことだ。「妊娠は一人でするものではない」とは言っても、実際問題、魚類の産卵産精とは違い、その妊娠から分娩まで、すべて女の身の中で起こることである。お腹の中で大きくなっていくそれを抱え、つわりなどあり、そして分娩時の苦痛がある。これは人によって、その時によって安産か難産かの違いはあるだろうが、医療の発達した現代にあっても、時に母子ともに命がけになることに変わりない。


 私は子供二人の出生に立ち会った。二回とも難産ではなかったが、それでも妻の産みの苦しみに対して、何もできない。また、「これは男には耐えられるまい、発狂するか死ぬだろう」と思われてならなかった。やはり立会い経験のある男に聞いても同様のことを言うので、偽らざる感想だと思う*1。破水して出てきた羊水の匂いが室内を満たし、苦しみながら身を右へ左へとよじる妻の横になすすべもなく立ち尽くし、生まれようとする我が子の心拍音が強まったり弱まったりする中で、私は「人間とは、動物なのだ。命がけなのだ」とまざまざと感じた覚えがある。自分は男に生まれたので、身をもって分娩を体験することはない。それでも、自分もあのように生まれたことを思った。「誰があなたを産んだと思ってるの?どれだけの思いをして産んで育ててきたと思ってるの?!」という、生前の母の叱責を思い出す*2


 こうした子産みを機械に喩えられたとき、「出産を何だと思ってるの?」と女が思うのは当たり前であろう。「機械?機械みたいに生産できたら楽なものよね。馬鹿にしてるの?」と。私が「女が不愉快になるのは仕方ない、自然なこと」と述べたのはそれである。「出産を何だと思ってるの?」というのは、それが何であるか身をもって体験することのない男には再考を促す言葉なのである。理屈の話ではない。ところが、「女は子を産むだけだと言うのか!」というふうな言葉には、「そんなことあの人は言ってないじゃないか」と返すほかいなのである。そしてなぜか文字として見る批判意見には後者が多く、身の回りの女の人の「ふんっ、出産を何だと思ってるのよ。全く失礼な話よ」という、身の丈の話とは趣が異なっているのである。


 どこか変なのだ。子を産みたい、あるいは子を産んで育てているという女の声ではなく、子を産みたくない、そういう女の権利を踏みにじるなという声ばかりが目立つ。許されぬ人権侵害だ、人間として最低だ、辞任せよとの野党やマスコミの口撃が、何かもっと生々しいものと乖離しているように思われてならない。無礼と人権侵害を混同してはならない。人権とは、礼儀や気品の話ではないのである。非礼をもって罪悪となす発想とは、不敬罪にほかならない。しかし何故、それを言う中にあれほど男が混じっているのだ。ほんとは男どうしの政争なのに、政敵を屠るには女の瞬時の激情を誘い使い回す気か。実際、私が今回、直接にウェブ内で話した女の人は、たいそう怒ってはいても、そこまでは言ってない。罷免要求は行きすぎだし方向性が違うとのことだ。「そういうことではなくって…」という言外のもどかしさを私は感じるのだが。それが少数意見なのか、多数意見なのかは知らない。


 「機械」という言葉には、人情味が無い。この人情味の無さが、直接的に身体的な恐怖を女に起こすことがありえるだろうと私は考える。無理やり産まされる…という恐怖感だ。この恐怖感は強姦への、そして望まぬ妊娠や出産へと結びつきうるイメージである。自分の体がそうされるという恐怖である。そして、「機械」という言葉は「工場」を連想させるとすれば、このイメージは、ユーゴ内戦における「民族浄化」と称する蛮行のイメージにまで結びつくこともありえよう。私はそうした意見は見なかったが、たまたま覗き見たウェブ上に見なかったからといって、「そういう恐怖感は実際には女に起こるまい(男の考えすぎだ)」とは思えないのである。もっとも、女の中で空恐ろしさを感じた人の多くが具体的にユーゴ内戦を思い出したとは言わない。何と言っていいかわからないが鳥肌の立つ思い…そういう、言葉の見つからないもどかしさの中で、ふとそこへ出来合いの言葉が届けられる。「許されない人権侵害なのですよ!」と。


 冒頭には、私は「何よ、失礼ねぇ」ぐらいの反発を書いた。さらに言えば、とくに怒るでもなく、むしろ「ぷっ(笑)」という女の人だっているだろう。「あれ?あたしは笑っちゃったけど、笑っちゃマズかったのかな」という人も。ただし、強く不快に感じた人、とりわけ怖ろしい想いがした人のことも考えた。ただしこういうことを想起しなかったら、許されぬ人権侵害で人間失格だとまで言えるかどうかとなれば、そうは言えないだろう。柳沢大臣がこのようなことへの配慮があったとは思わないが、かと言って「少子化対策としては、いわば工場で機械生産させるようにせよ(養鶏場で産卵させるようにせよ)」との趣旨で言ったわけではあるまい。


 ただし政治家のあのひとことから、そのような怖ろしい絵を我が身に連想する人はいるだろうから、制度論の延長でシステマティックに述べる必要があるときには誤解させないよう、気をつけて物を言うべきだとは言える。社会学や経済学でマクロな話をする際には、人のなすことの要素を解析的に述べる文体があるからだ。なるほど政治家は学者ではない。しかし行財政の学の素養も全く無く、ひたすら情の厚い政治家であればそれで良いのか。どうやら弁明を聞くと、制度論を話そうとしてやめようと思い、言いかけたところで「しまった、これだと傷つけちゃう」と思ったそうな。実際そういうところだろう。ところが発言者の意図も無視、舌足らずで傷つけたことは詫びているのに執拗に糾弾するなど、そのほうがおかしい。政治家はひたすら人情家であれとのみ望むのであれば別だが、実務を期待するなら、算段や怜悧な思考もまた必須であろう。「あのような言葉を使うとは、このような考えの人間に違いないのだ」という糾弾のほうが暴力的である。情動への配慮の足りなさを諭すことと、悪意を宿していると決め付けることとは、全く別ではないか。政争の中の政治的糾弾については、私は政論は政論として、それはおかしいと思うことは言わざるを得ない。


 政争の話を離れるつもりであったが、途中でやはり今一度、政争に触れておこうと思い、それを書いた。次の稿は、全く趣を変える。TBいただいた玄倉川さんの呼びかけに応じてみたいと思う。

*1:もっとも、男があまりにそれを言うのを好まない女もいる。恐怖を煽りすぎだと。「案ずるより産むがやすしとはよく言ったものよ」と。だから男は連れの女の不安と同化してオロオロするよりは、心配するなと頼もしげに構えていてくれたほうがいいのよ、と。それもそうなのだろう。

*2:余談になるが、実は妻の希望で立ち会ったのではない。私の希望で妻が渋々承諾したのであった。少しばかり恨み節を言われた。夫は出産に立ち会うべきだとか立ち会わないほうがいいとか、両論ある。しかしそれは一般論で言えることではないので、奥さんが「一緒にいてほしい」と言うならできればそうしてやったほうがいいだろうし、あまり望まれないなら外にいたほうがいいと思う。日本神話には、海神の娘である妻・豊玉姫が「産むところを見ないで」と言ったのに、夫・山幸彦が見てしまい驚愕し、それを知った妻の怒り嘆きによって、永遠の別れになってしまう話がある。自分の正体が鰐であり、のたうちまわっている姿を夫に見られたことを「見るなと言ったのに恥をかかせた」として海に戻ってしまい、ここに海と陸とは永遠に通わぬものとなったという話である。ありのままの姿を、女が男に見ないでくれと言えば男は絶対に見てはならないという含意があるそうである。出産時ではないが、後世には同じモチーフで『鶴の恩返し』があり、「見るな」ではなく「言うな」として『雪女』がある。我が家の場合、そこまで怒られずに済んで助かったが、この話をもっと心がけておくべきではあった。