「超男性脳」について

1.「Aという特徴は女よりは男に、Bという特徴は男よりは女に、顕著に抽出されます」
↑これと、
2.「男にはAという特徴があり、女にはBという特徴があります」
↑これは、別の考え方だろう。
1は帰納法的に言えることだけど、それを逆転して2のように演繹していいか、どこまで演繹できるか。さらに、そういう演繹を単純化して、
3.「Aは男性的な特徴で、Bは女性的な特徴です」
↑こうなると…「いや、そう言っちゃうと意味が違ってくるよ」と思うのだ。しかし、ややもするとこういう1→2→3という論法が多くて、そういう論法は世間的な経験知とも合致することが多いゆえに、「男はこう、女はこう」という固定観念に結びつきやすく思われる。何らかの特性が集合としての性別によって偏差が見られるということと、ある特性が男女それ自体を定義づけることと、ある個人が男性的か女性的かということとは、それぞれ別の話であるはずだ。



 一例を挙げよう。自閉症スペクトラムにおける「超男性脳(極端男性脳)」についてである。
autism
ここでは、さしあたってこのリポートのデータおよびデータ解釈に従うこととする。このデータそのものへ疑義や解釈論への批判などは、私の能力の範囲外であるし、本稿の目的ではないから立ち入らない。


 そこで私は、社会学習説ではなく社会構築主義的な観点から考えてみたいと思う。なぜなら、上記リポートに列挙された抽出項目が「生まれか育ちか」という社会学習説をめぐる論争とは別に、試論を述べたいからである。だから、上記リポートの各項目が、そのとおり生まれつきのものであるとして考察する。なお、社会学習説と社会構築説の視点の違いについては、以下のリンクを参照してほしい。
newSpeakBBS


 上に挙げた『自閉症の極端男性脳理論』のリポートは、私のいう1→2→3論法を展開してるわけではないが、世間的にはそっちに受容されて展開しやすいように思える。また、このリポートについて、下に引用するエントリのコメント欄、純子さんの疑念にも同感である。それはデータの信頼性や解釈の是非とは別の疑念である。学術用語としての、命名上のセンスと、実際のその言葉のイメージとの不整合も多いことへの疑念だと思う。
2005-09-22


 「男性脳はシステム・ブレイン、女性脳はマインド・ブレイン」というネーミングは、ここで得られている医科学的データから考えられることを、人々にわかりやすくイメージしてもらいたいための着想だとは思う。ただ、それは人々の既存の男女観に添って、それに合わせたキャッチコピーだと言える。しかし端的に言えば、「超男性脳」の男の人が実際に「男らしい(すごく男性的)」かどうかは、全く別の話であろう。自閉症スペクトラムの人が抱えている困難さを考えれば、おそらくは「男らしい」とは判断されないケースも多いだろうと思う。ある「男性的な」とイメージされる特徴を、より多く持っていると「すごく男性的だ」と思われるかと言えば、必ずしもそうではない(「合成の誤謬」とでも言おうか)。理由は簡単で、一人の男が「すごく男性的だ(男らしい)」と言われるのは、もとより一個の全人的な評価だからである。ある人の持つ、いろいろな能力特性の要素を分析的に観察して、それを集合させた結果の総合判断ではないからである。


 しかしこのリポートは、「男はこうだが反対に女はこうだ、という従来のイメージが医科学的に正しかったことが証明されました」ということが言いたいのではなかろう。個々の要素を(その言葉の持つ)従来のイメージにしたがって命名してあるのは、提唱者なりの工夫にすぎまい。それよりも結語の部分こそが、ここでもっとも筆者の言いたいことであろうと思われる。太字部分は、引用した私による強調である。

極端女性脳について我々が知っていること全ては,図1のモデルから,それは発生が予測されるということである.そのような人々はどんなふうだろうか?彼(彼女)らは,グラフの左手上方の四分画に入ることで定義される.彼(彼女)らの共感は,一般人口の他の人々よりも明らかに優れているが,システム化は損なわれているだろう.この人たちは,システムとして,数学,物理学,機械,あるいは化学を理解するのに困難をもつ人々であろうが,他人の気持ちや考えに合わせることが極端に上手な人々であろう.そのようなプロフィールが,何か必然的な障害をもたらすだろうか?極端女性脳をもった人は,‘システム−ブラインド’であるだろう.我々の社会では,そのような人々には,かなり寛容である.彼らの生物学的事実から‘マインド−ブラインド’である人々も社会による同じ寛容を享受するようになることが望まれる.


 両極端な特徴を持つ双方のうち、実社会が片方の特徴には寛容でもう片方には不寛容である場合、前者はそれなりに適応していけるが後者はなかなか適応できず「障碍がある」ということになる。もちろん知的障碍といった重篤な問題があれば別として、そうでない場合(高機能自閉症ADHDなどもそうだろうが)、その「障碍」というのはその人の中にあるのではなくて外にある、ということだ。筆者はむしろそれを言いたいのが本旨であろう。


 ただし、ここで命名上の工夫がアダとなる危うさを私は感じる。上記にあるように、どうやらGIDの人の実感とは異なるらしい。また、自閉症スペクトラムADHDの人は、個々の項目の有無については、おそらく実感としてはこれに頷けるのではないか*1。ただしその場合でも、それをして全称的に「より男性的だ」と表現されると「(男らしいという意味での)男性的」という言葉と齟齬があると思う。実際、「うんうん、ほかの男の子より男らしいよね」とは思われないケースが多いのではないか。


 そしてこの場合、男児よりはむしろ女児が抱える困難さを思う。たとえばADHDの場合、女児は「女の子のくせに(動作が粗雑、身だしなみが悪い、片づけがなってない、共感性がないetc)」というハンデがよりあるように思われる。そこへ、男児が「あぁ、極端に男性的な脳なんだね」と思われることと、女児が「あぁ、極端に男性的な脳なんだね」と思われることと、比較されたし。もっとダイレクトに言うと、「共感性は男より女のほうが高い」のが事実的な傾向だとしても、「ほかの男よりさらに共感性の乏しい男」よりは「女なのに共感性の乏しい女」のほうが、抱える困難は大きいだろう。本人の努力如何でどうにかできる範囲を超えた生来のものであれば、なおさらというケースになる。


 だからして「ジェンダーフリー!」などと言いたいわけではない。そんなものはただの暴力的な発想だ。一般的な男女観やその基盤の生理的傾向は、それはそれでよい。ただし、こういった医科学上の命名には今少し慎重さが欲しいように感じた。筆者の意図とは裏腹に、かえって当事者にとって、社会的に障碍が増大しかねない危うさを私は感じるのだが。

*1:私は後者だが頷けた