ナザロの復活

 NHKの『映像の20世紀』の中で、アメリカ南部の古い映像が流れていた。それは、ダーウィニストでもある私には、かなりショックな映像であった。進化論をめぐる教育論争が裁判になったものを記録した映像だったが、進歩派を代表する進化論者と保守派を代表する牧師が、裁判所で意見をたたかわせているものであった。なにがショックだったかというと、私が事前にイメージしていたものとは正反対だったからである。学校でなぜ聖書を教える必要があるのかと静かに語る牧師。その牧師が聖書のさまざま一節を引きながらその意義を説くのに対し、その進化論者は、ひとつひとつを科学的事実に合わないと尊大な態度で否定してみせ、こたえて牧師が何か語るごとに大袈裟に手を叩いたり周囲の人々に下卑た嘲笑をふりまいていた。しかし牧師は態度を少しも荒立てない。静かに、毅然と、その教えの大切さだけを語りかけていた。私はこれを見て、進化論論争の、生々しい史実の一側面を見せ付けられる思いがしていた。…当時の平均的なアメリカ人は、これを見てどう感じたろうか。「なまじ進化論を覚えると、あんな人間に成り果てるのか。だったらやはり学校では進化論ではなく聖書を教えるべきだろう」…多くの人は、そのように感じたのではなかったか。こうしたことは、書籍で事跡を追うだけではけっして伝わらない種類のものだ。


 神の存在/不在と「科学の範囲」 - *minx* [macska dot org in exile]の中で紹介されている議論神の存在/不在と科学の範囲 - 1166959704 - したらば掲示板について。
 この中でmacskaさんが言っていることの多くは、個々の部分には同意見であるものも少なくないが、総体として非常におかしい。彼女がここまで反発されるのも当然と考える。
他の投稿者が指摘していないことについて、直接macskaさんには以下のように自分の見解をレスしておいた(現時点で)。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/5329/1166959704/292
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/5329/1166959704/304
 そこで、ここでは別のことを書こう。macskaさんは上記の進化論者ほどに悪辣な態度を取ってはいないが、同じあやまちに陥っているところがあるからだ。一例として、彼女が挙げた「ナザロの復活」を取り上げよう。


http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/5329/1166959704/48

 埋葬されて4日たって腐りかけた死体だったはずのラザロを蘇らせたうえで、科学者がそのことを確認しようとしたらその瞬間だけまた死んで、科学者が向こうに行ったらまた生き返ったうえに、一度死んだことまで無かったことにされると? どういう状況になるのか、説明できますか?


 ナザロの復活とは、そもそも新約聖書の中で、ヨハネ福音書だけに見られる伝であり、マタイ、マルコ、ルカの各福音書には現われない。このような異伝が採録されているのには、何か相応な理由があると考えなければならない。もっとも雑な考え方は、他の三人による伝にはなくヨハネの伝にしかないことをもって、この異伝を「伝の紛れ」すなわち誤伝とすることである。腐乱しつつある屍体が蘇生するという、かなり異様な伝であり、ここにしか見えない伝であれば、新約聖書を編纂する際に削除されても不思議はないほどである。あるいは逆に、この伝をこそ信じねばキリスト教は成り立たないと考えるのであれば、これを伝えない他の三伝の価値やいかに。


 私はクリスチャンではないから、この伝の持つ意義というものをキリスト教的に説くことはできない。しかし科学を持ち出すまでもなく、腐りゆく屍が息を吹き返すことなどないことは誰でも知っている。「腐乱死体が蘇生することは科学的に否定される」などと言うための検証に、なにほどの価値もあるまい。そんなことで否定して見せたとして、それが何を否定し得ているのか(なにも否定し得ていないと私は思うが)、少しは真面目に考えたほうが良いだろう。昔の人だって、そんなことはわかっている。だからこそ、ナザロの復活という異伝は捨てがたいのである。なぜか?それをなしえたのは、イエスただひとりであった、ということに注目せねばなるまい。


 もしこのナザロ復活の伝から、このように説く教義であったとすれば、どうだろうか。
「イエスの教えを信じ、キリスト教に入信すれば、死んだ人を墓場から蘇らせてあげますよ。あなたが病気か何かで死んでも大丈夫」
 キリスト教でそのように説いてきたという話を聞いた人があるだろうか。私は、そんな話は聞いたことがない。当然だろう、イエスにしかできない奇蹟であったというのだから。仮死状態の人が息を吹き返すことなら、まれにあるということ、それは昔から人々は知っていたから、一縷の望みもかけることはあるだろう。しかし腐りゆく屍となった故人が、再び起き上がるということは、ありえないのである。イエスただ一人がそれをできた、しかしイエスその人は、もう地上にはいない。ならば、この伝が語るのは、冷厳な現実そのものなのである。ある人を亡くして残された者たちは、その人の死と、イエスの昇天とを、合わせて受け止めざるを得まい。死ぬことなくこの世に生き続ける人など、いない。「神の子」であるイエスにして、それはありえないことなのだ。イエスが「奇蹟の人」であればあるほど、その昇天をもって奇蹟が地上に再び起こらぬということの重い意味が増そうものを。


 イエスの奇蹟には、再現性は無い。しかしそれは科学的に求められる再現性の要件を満たしえないことをもって、否定される筋のものではなかろう。イエスの奇蹟が決して再現されないことは、それであるがゆえにこそ、重い意味を持つに違いあるまい。イエスのなした奇蹟が、科学的に「低い確率だが、自然現象として不思議なことでもない」として説明も再現も可能なものであったなら、イエスが地上にましまさぬことの意味も軽くなろう。人々は聖書を捨てて科学にのみ希望を託すであろう。イエス昇天の嘆きが信徒の人生上の苦悩や悲痛と重なり合うこともなくなったであろう。


 つまり、ここで科学は教義の後追いをしただけである。その教義の重さを科学的に実証したにすぎないのである。クリスチャンがイエスの奇蹟を本当にあったことだと信じることは、その奇蹟がけっして再現されないことをも信じざるを得ないからである。科学者に何を言われなくとも、それは冷徹な現実なのだ。だから、信じきれずに気の迷いで妙な邪宗に走ることもあるのだろうが、ではその邪宗で約束する再現性ある奇跡とやらが真実かどうか、科学者こそ検証できるだろう。イエスの奇蹟とされることを、生前に地上でなしたとされることを、どんどん科学的に検証してみれば良いのではないだろうか。しかし聖書の古伝について「その奇蹟があったと言うなら、再現して見せよ」と科学を用いて何事かを否定し得たと笑みを浮かべるなら、その人は科学が何をはたせているかすら、わかっていまい。


 macskaさんはしきりに奇跡にこだわって科学的検証の必要云々を言う。もちろん私も大枠でその必要性について科学は果断であるべきだとは思う(ただしこの話はもともと奇跡にこだわる話ではなかろう、との他の投稿者の意見に近い)。それはなぜかと言えば、macskaさんが仮定で挙げたように、

 では、「どんな病気にでも効く薬」とやらをわたしが売り出したとしましょう。ところが、それを摂取してもまったく効かない。それに対してわたしが「それは誰かの心がけが悪いからだ、わたしの薬は周囲の人間の心がけによって影響を受けるのだ」と応えたとします。この場合、わたしの薬は宗教でしょうか、それとも疑似科学でしょうか。

 わたしがポストホックにどんな言い訳をしようと、薬を売ったわたしは詐欺師扱いです。わたしの裁判では、科学者が「この薬には効き目がない」と証言するでしょう。しかしそれが「雨乞い」とか「祈り」だったら、科学者は「自分には何も言えない」と言うわけですか?ダブルスタンダードじゃないかと思うのですが。

 似非科学を用いつつ奇跡を売り物にする凡百の宗教団体の類は、およそそのようなものであろう。しかしmacskaさんが、ナザロ復活の伝ひとつとってもこれと同じことだと思っているのは、その違いが何もわかっていないからであろう。これを例に考えるのであれば、以下のようになるだろう。もし聖書を読んだ誰かが「われこそイエスの再来」と称し、「ナザロを復活させたように、わたしに入信したら誰でも蘇生させてあげよう」などと言い出した場合を比べるべきである。その場合、もちろん科学者も果断に立ち向かってよいわけだが、それ以前に既存のキリスト教諸派がどう言うか、それをこそ考えてみるべきだ。それを単なる、既存宗教の権威主義だと思うなかれ。


 繰り返し言うが、クリスチャンではない私がここで述べていることは、キリスト教的な見解ではなかろうと思う。私がナザロ復活について書いたことは、イザナキのみことの黄泉帰りの伝によって考えさせられたことが下敷きになった。それについては、次回にしよう。