映画『ツォツィ』のR-15指定の周辺で。
とか題名をつけたけど、私はまだ見てないので、この作品の批評ではない。だけど、ふと思うこと。南アを舞台とした映画と言えば、アパルトヘイトを扱った『遠い夜明け』があった。その後、アパルトヘイトは撤廃され、白人の独裁政治にも終止符が打たれ、マジョリティである黒人の政権になった。ただし、白人追放と黒人どうしの内戦といった、先行して誕生した近隣諸国で起きた国家運営の破綻も念頭にあっただろう、なにしろ南アの白人はそれら各国よりは人口比もはるかに多いし、また、もはや先祖代々この国に住んできた人たちであるというこの国の事情から、極力、人種間融和が説かれた。その中で、黒人の生活環境が劇的に改善されているわけでもない。一部には有力者となり裕福な層もできてはいるのだろうけど、貧困のさなかにいるままの人たちも多い。映画『ツォツィ』は、そうした「現在の南ア」の大きな現実を背景にしたうえで、日常的に殺傷行為を犯している少年を主人公にした映画であるようだ。
さて、それはさておき。
あるがままとは。 - novtan別館
↑novtanさんのこれと、それについての
http://d.hatena.ne.jp/aozora21/20070506/1178457960
↑aozora21さんのこれを、併せて読んだ。
そして考えたこと。
私も、「何だかよくわからん社説だ」と思った。全くわからないわけではなくて、何となく言いたいことはわかるんだけど、それを雰囲気でフワフワと書いているという印象。話があっちに飛んだりこっちに飛んだり。ボワッと気持ちは伝わるんだけど。そこではnovtanさんのご意見にかなり同感。
ある映画の自主規制批判に始まり、ある障害児の美談が続き、大人と子供のずれとか子供のサインを見逃すなという話になり、大人の規範意識に釘を刺し、唐突に少年犯罪厳罰化にひとこと言及したかと思うと、ある児童養護施設の方針を褒め、いきなり子供の権利を宣言して、大人は時代に流されてばかりいないでゆっくり子供の成長を見守ろうよ…と結ぶ。…何じゃこりゃ。私はこういう文章は、ひどく苦手。
対してaozora21さんは、どうやら社説の文中「あるがままの」を「その子なりの」と解したようで、そこから教育再生会議の「親学」提言をふと連想し、それへの批判と受け止められたようだ。うーん、そうかなぁ。かの社説が直接それを論じたものには読めなかったのですが…。
ただ、言われてみると確かに、この社説で言いたいのは「その子なりの成長を」でもあろうな、とは思い直しました。別にこの社説は、スラムで育った少年が犯罪を続けていても仕方ないとか、障害児が何もできなくていいとか、親に虐待されていた子がルールや思いやりを身に付けないままでいいとか、そんな意味で「あるがままを認めたい」と言っているのではないわけですよね。
社会で生活していくうえで身に付けるべきこと、ちゃんと成長すべきことを前提にしての話なので、その意味で『子どもの権利とは何かを突き詰めて考えると、人としての成長や発達を大人が保障することにあると言える』と言っているのだろうし、当の子供にとっても、そういう権利とは『他の子の権利も大事にする』ことだということでしょう。
その点では、保守派の言う公共心や社会性の話と、左翼紙だから口調は異なるけど、中味はあんまり違わないようにも思います。ただ、こうは言いたいのでしょうね。「まだそれが身に付いていない子や悪いことをした子を、ただ厳しく叱るのでもなく、もっと少しずつ成長していく子どもを見守るゆとりを持ってやれないか。すでに出来てる子を、出来てることだけ褒めるようなことではなくて…」と。
ただどうにも、それを言うなら「その子なりの成長を支えよう」ということであるはずだから、「子供のあるがままを認めたい」と言うのは、だいぶん違うんじゃないかとも思うわけで。
と、まぁ、aozora21さんのご意見にインスパイアされる形で、「なるほど、そうも読めるかな」と感じたことを書いてみました。それとは別に、やはり当初感じた批判的な見方も書いておこうと思う。
私が「んん?何の話だ、何でそうなるんだ?」と思ったこと。映画『ツォツィ』が映倫によってR-15に指定された件についての批判が導入部なので、てっきりその是非をめぐる視点こそが、ここでの題材提供の主眼だと思ったから。その件については、こちらをご参考に。
http://www1.ntv.co.jp/zero/weekly-blog/2007/04/16/
私はこの映画は未見なので、内容それ自体に論及はできないのだが、かなり激しい暴力的シーンがあるらしい。しかし娯楽物としての暴力描写なのでもなく、配給元の日活としては、はじめは逡巡もあったようだが「やはり中学生にも劇場で見てもらいたい」と考え直したようだ。そのために中学生の試写会を行い、アンケートを取ると圧倒多数が中学生入場禁止に反対だったとのこと。
ただ、こういう内容の映画の試写会に来る子達は、やはりこうした問題に深い関心のある子達だろう。だからこのアンケート結果をして、中学生の平均的な意見とするわけにはいかないと思う。そもそも大人どうし(映画関係者どうし)でも「中学生には見せるにはちょっと…」と「中学生にこそ見て欲しい」というふうに意見は割れているのだから、社説にあるような『大人と子どもの間にちょっとしたずれがあることは今も昔も変わらない』という二分法の語りは、ミスリードだ。
北海道新聞としても、暴力嗜好の作品ならば、同じことは言わないはずだ。だから、ことはやはりこの映画そのものへの評価の中で、そこにある暴力の描写と受け手の年齢との兼ね合いの論になる。北海道新聞は社として、こうした主題をできるだけ多くの中学生に見て欲しいという考えなのだろうから、ならばそのことをきちんと論じて、映倫の判断を批判すべきではないのかな。ことは表現者サイドどうしの論争になる。でも、そこから逃げないでほしいと私は思う。
うがった見方をすれば、真っ向から映倫批判をするのが憚られるようなことでもあるんだろうか、新聞社としては。そういう「大人の事情」が感じられなくも無いが、それはゲスのかんぐりだとしても、障害児の美談を引っ張り出したり、子供の権利だとか言う前に、一表現者としての大人の主張を、きちんと行うべきだと思う。
でも案外、ちらっと文中に出てくる少年犯罪厳罰化への当てこすりだけだったりして。その直後に出てくる『一人一人個性が違う、その子を何とか理解しよう』というフレーズも、要するに映画『ツォツィ』の主人公の少年の改心に引っ掛けて「だから厳罰化には反対!」というためのものでしかないようにも見えてしまう。
この映画の年齢制限をきちんと批判するでもなく、少年犯罪への向き合い方をきちんと論じるでもなく、ひとことでいえば「未成年の暴力犯罪」への責任ある意見とは言いがたい。novtanさんの、
この「人としての」という言葉のあまりに抽象的で無責任さは。社会に相対していない態度は。社会に対して踏み込んでいない時点で全然突き詰めて考えていない。
との見解に、やはり私は賛成ではある。