「間接的殺人説」はジェノサイドの論理

2007-04-16 - 力士の小躍り
 アフガニスタンソ連が侵攻して、傀儡の共産主義政権を建てた。これに対する抵抗運動があって、ソ連にとってのアフガンはアメリカにとってのヴェトナムと似た構図になった。で、このとき、民族主義的な抗戦活動の旗役となったのが、イスラム神学生の若者たち、すなわちタリバーンです。アメリカはこの人たちの支援をした。ビン・ラーディンだって、元はアメリカの子飼いだったという話があるでしょう。アメリカは、いわば「飼い犬に手を噛まれる」結果になった。


 傀儡の共産主義政権とそれへの抗戦という内戦によって荒廃した自国という状況が、あったわけですよね。一方的な近代化=開発独裁による問題もあった。「イスラムの伝統の復活」というタリバーンの目標に多くのアフガン人の共感が集まった背景には、そういうこともある。


 さらには、民族的に複雑なアフガニスタンという国情がある。人数的なマジョリティはパシュトゥン人ですが、経済的・政治的なマジョリティは北部のウズベク系やタジク系の人々が牛耳っている。これ、遊牧民と都市民の対立と言う根深い問題でもありますが。


 都市民であり商人的な価値観を持つ北部のウズベク系やタジク系の人々は、ソ連から独立したウズベキスタンタジキスタンに合流するのではなく、あくまでアフガニスタンという国家は維持したいわけです。しかし、そこへ原理主義的な勢力が、しかも遊牧民的な伝統意識を強烈に出されて支配者におさまるのは困る。だから「北部同盟」という組織を作って、タリバーンとは内戦を繰り広げた。


 アメリカ政府は、この北部同盟を支持した。アメリカがタリバーンを裏切ったのか、タリバーンアメリカを裏切ったのか、北部同盟が誰かを裏切ったのか、何とも言われません。しかし、ともかくもビン・ラーディン率いるアル・カイーダは9・11テロを敢行した。これをタリバーンは支持して庇護した。タリバーンの選択は、多くのパシュトゥン人の支持するところともなった。


 アメリカ政府は、言うわけですよ。「ビン・ラーディンを出せ。かくまうなら共犯とみなす」と。彼らをかくまい、彼らとともに戦うのであれば…そして「敵国の民を無差別に殺して良いと考えているのであれば、こちらもそのようにみなす」と。対して、北部同盟の指導者であり、国内外の人望の厚かったマスード氏は暗殺された。その直後に9・11テロが起きた。


 ご存じない方は、「北部同盟 マスード」で検索されてください。彼は、「敵国」と「敵兵」の区別は行った。捕虜となった敵兵の釈放には寛大だったので、ロシア人からも尊崇された。いわば、サラディンのような武将で、彼もまたイスラムの伝統に立脚した武人だった。私は、マスード氏を葬り去ったことがアフガンの悲劇の直因だと思うし、政敵をそのように暗殺して、国民の目をそらすために行ったとしか言えない9・11テロを、どんな理由があろうとも支持できないよ。ビン・ラーディンやアル・カイーダは、アフガン人の何を代表しうるのだろうね。のうのうと逃げおおせて…


 「パレスティナを侵略して建設したイスラエルを支持するアメリカ政府、その政府を支持しているアメリカ国民も同罪である」…これはね、なるほどビン・ラーディンの論理ですわね。ある意味、それはそうだ。しかし「だからしアメリカ国民には死の制裁を」と言って実行して良いのであれば、それはアフガニスタン人の非戦闘員が米軍の空爆でどれだけ死のうとも、彼らの論理からすれば、正当化できるじゃないですか。


 沖縄でね、東京で広島で長崎で…。それと同じでしょう。民主主義が機能していたか独裁国家だったかという類別が、そこにどれだけの意味を持つのかな。当時の日本人は、あの戦争を支持していたでしょう。アメリカ政府は言った、「日本の軍需産業は家庭内手工業によっても支えられている。だから工場のある街を焼き払うのは、決して非軍事施設を攻撃していることにはならない」と。


 南京でね、その他の中国の街や村で。抗日活動のゲリラ戦を展開している以上、戦闘員か非戦闘員かという類別はあまり意味をなさない。それは多くの中国人が支持していたという現実がある。ならば、抗日ゲリラやその協力者だという理由で村人を殺戮しても良いはずだ。ヴェトナムでもそうだ。アフガンでもそうだろう。


 それに先立ち、欧米列強ではなく日本を中国から叩き出せという反日活動が盛り上がったとき、通州事件のような虐殺事件があって、日本人の憤怒を買った。日本の勢力が大陸に進出すると、飯の糧を求めて大陸に渡った人たちもいたが、その人たちが「侵略者」として殺戮されて良いのであれば、南京だって広島長崎だってヴェトナムもアフガンもどこでも、同じ理由で正当化できるのではないか。


 間接的な人殺し…というのを、このような論理で責め得るのであれば、およそどんなジェノサイドも正当化できやしませんか。


 日本国民の多くがタリバーン殲滅を支持するとき、そこにはひとりひとりのタリバーンの神学生や、彼らへの共感や同情を感じるパシュトゥン人の悲喜こもごもは見えていないでしょう。彼らに反発するウズベク人やタジク人の悲喜こもごもも見えていないでしょう。でもそれは、彼らだってアメリカ人ひとりひとりの悲喜こもごもが見えていないのと同じです。

9.11の同時多発飛行機テロが起きたとき、「無辜の市民」「罪の無い一般市民をまきぞえに」という言い方がされました。


 それで良いのですよ。だからこそ、米軍がアフガン人にしたことが正当化できるものではないと言えるのです。ニューヨークのビジネスマンや清掃員や消防士は、アフガン人を殺してはいない。カンダハル郊外の羊飼いや牛飼いは、アメリカ人を殺していない。通州で殺された日本人市民は中国人を殺していないし、南京で殺された中国人市民は日本人を殺していない。これが、事実でしょう?


 少なくとも、自ら手にかけてはいない。でも、間接的に殺したことになるかどうかと言えば、なるほど、そうも言える部分はあります。で、だからどうだという話でしょう。そのように言って、その責めを受けても仕方ないのだというのであれば、いったい「何のために、どんな事実を突きつけているつもりなのか」。それを私は問いたい。


 タリバーンの支配していた首都カブールを、北部同盟が陥落させて、多くのカブール市民が狂喜乱舞した。北部同盟の戦車を取り囲んで。その映像を見ていた息子が、「この人達は、何をしたん?」と聞いた。私は、「この人たちが、タリバーンをやっつけたちゃ」と答えた。息子は「ビンラーディンの仲間を、やっつけたん?この人たちが?」と問う。私は「そうだよ、この人たちが、やっつけた」と答える。息子は「すごい!あのビルに飛行機を突っ込ませた人たちをやっつけたん?この人たちが!」と。


 アメリカのどうこうは、言おうとしたが言わないでおいた。息子は幼いながらに正義を感じた。幼い正義感だが、それは基本的なことだと思われたし、何よりそれがアフガニスタンへの礼儀だろう、と感じたから。大国に翻弄される面だけで語れば、小国の人の意思は見えなくなる。また、それはマスード氏への、花向けでもあった。詳しいことは、息子がもっと大きくなれば、いずれわかることだろうし。